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Educator  作者: 槇 慎一
16/30

16 シンイチ、かおちゃんて?


 四月。

 僕は中学生になった。

 正確には始業式を数日後に控えた中学生だ。


 僕は附属小学校からの持ち上がりだが、制服が新しくなった。クローゼットには、新しい濃紺の制服の他に、光沢のある黒いスーツもある。発表会で着るために、母親がテーラーに連れていってくれて、毎年新しく誂えてくれたものだ。


 ピアニストでピアノ講師の母親は、四月二日の僕の誕生日に、毎年発表会を開いていた。


 春休みになる前、タケルと話をした。学校では普通に接していたが、個人的な内容での話題は久しぶりだった。美桜ちゃんがピアノの方面を目指すかもしれないらしい。僕は、以前母親に言われたことを思い出し、発表会を聴きに来てはどうかと伝えた。


「まだわからないことばかりだ。ありがとう。お母さんも連れて行くよ。シンイチの演奏、楽しみにしてるよ」

 タケルはそう言って、僕達は別れた。


 内心、彼等を試すようで気が進まなかった。僕の母親は、いつのまにか趣味の人を教える余裕もないくらい、専門を目指す人のレッスンで忙しくしていた。新たな問い合わせもある。紹介のある人にもない人にも、音楽大学の受験を考える人に、発表会を聴くように案内していた。雰囲気が合わなければ他の先生の門を叩けばよいというわけだ。しかし、聴きに来ても他の門下に行くのではなく、ピアノ自体を諦めてしまう人がいるという。


 わかっている。教えるには時間がかかる。僕の母親は、少人数を手厚く面倒見ると評判の人気講師なのだそうだ。近い場所からはもちろん、遠くから飛行機や新幹線を使ってレッスンに来る生徒もいる。受験の学年ともなれば毎週だ。皆、真面目に取り組む努力家の女の子の家庭ばかりだった。問い合わせを頂いても、全員に会うことはできない。紹介を優先していた。事情はわかる。どんなにしてあげたくとも、時間は有限なのだ。


 美桜ちゃんは、一時期僕が不定期で臨時に教えていた。母親の生徒である高田さんの生徒だった。小学校の同級生のタケルの妹でもあり、遊びに行ったら教えてほしいと言われ、教えたら頑張る子だった。


 僕は数回のレッスンで譜読みの仕方を教え、それからしばらく会わなかったけれど、夏休みは毎日質問の電話をしてきた。真剣に取りかかるのが遅かったこと、少々プライドが高い傾向があり、言葉の言い回しに配慮した。しかし、お母様は感じのいい方で、兄であるタケルも美桜ちゃんの応援をする、いい家庭だった。お父様とは会ったことはなく、ご両親の意向という意味ではそれもまだわからない状態だった。父親だけが反対する家庭もあると聞く。美桜ちゃんは、あれからピアノはどうしていたのか、僕は知らない。タケルは大好きな友人だったし、聞かなかった。


 発表会の日は僕が受付をして、横にかおちゃんを座らせていた。小さい頃からかおちゃんの面倒を見るという名目で、一日中かおちゃんを隣に置いておける、幸せな日、幸せな誕生日だった。そして、夕食の時には両親が揃い、僕の誕生日がどれだけ幸せなことかを言葉で伝えてくれた。友人の話などで聞くプレゼントなどはなかったが、不満なんて一つもない。有り余る程の幸福感で、僕を満たしてくれていた。


 僕は新調してもらった黒いスーツに身を包み、受付に立った。近くの女子校の初等部三年生になったかおちゃんは、清楚な明るいグレーの制服姿で僕の隣に立っていた。立ち姿も横顔も、かわいくてかわいくてたまらなかった。


 タケルの家族が来た。お父様の姿はない。


 僕は恭しくお辞儀をした。

 かおちゃんも同じタイミングで僕に倣った。

「こちらに御名前、御住所をご記入ください」

 お母様が全員分を書いた。

 丁寧な文字だった。

 かおちゃんは教えられた通りに、プログラムを相手に向けて、一部ずつ両手で手渡した。


「ありがとうございます。ごゆっくりお楽しみください」

 僕は形式通りの礼を述べ、お母様、美桜ちゃんが通った後、タケルが通る時には友人としての親しみをこめて笑顔をつくった。タケルは通りすぎ……プログラムを見て立ち止まり、振り返って戻って来た。


「え、これって……」


1 藤原 かおり ロンド・カプリチオーソOp.14  メンデルスゾーン 


2 槇 慎一 ピアノ・ソナタ1番Op. 1 プロコフィエフ






「シンイチ、かおちゃんて……」

 その疑惑には正直、うんざりだ。

 本人の前でのやりとりに、不快感があった。

「妹じゃないって、前に言った」

 僕はイライラした。

 少し冷たく感じたかもしれない。

「そうだっけ……」

 何かが止まらなかった。

「僕が教えている、僕の……生徒だ」


 僕の大切な生徒だ。僕の彼女だ。僕のものだと言いたかった。胸の中の何かが爆発するようだった。演奏前に、心を落ち着けることができない恐怖心もあった。

 かおちゃんは、立ち止まったタケルに見つめられて困惑していた。


「ほらタケル、座りましょう?」

 僕は声をかけてきたお母様に礼をした。



 開演時刻が近づいてきた。この発表会は、時間ギリギリに来る人はいない。受付の近くには人の気配がなくなる。


 女性の化粧室がある方向の陰から、美桜ちゃんがこちらを見ているのがわかった。話しかけてくる様子はない。


 僕は珍しく、気持ちが収まらなかった。イライラする気持ち……滅多にイライラするようなことはなく、こんな時にどうしたらいいかわからなかった。


 かおちゃんを自分の近くに寄せ、

「リボンが……ほどけそうだ」

低い声でそう言って、本当にいつでもほどけそうな襟もとのリボンを結び直した。かおちゃんは一瞬下を向いたが、僕がちょっと顎を持ち上げると上を向き、そのまま動かずに、ライトの眩しさに目を瞑っていた。このまま、唇を近づけたい気持ちでいっぱいだった。まさかそんなことはしないけど。したいけど……。


 僕は誰かに見せつけるように、わざと時間をかけて結び直した。

 自分が、何をしたかわかっていた。嫌な男だ。どうか、かおちゃんはこんな僕に気づかないで……。後悔するようなこと、しなければいいのに。でも、もう遅かった。


 美桜ちゃんは、しばらくすると姿が見えなくなっていた。














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