14 今の曲、ショパンのスケルツォでしょ?
お母さんと美桜が楽器店の発表会から帰ってきたのは、僕がモーツァルトのCDを何回も聴いた後だった。
帰ってきた途端にうるさくなった。静かに聴けてよかった。静寂が既に懐かしい……。
「お兄ちゃん!私のドリルどこ!」
「そっちだよ」
美桜は、早速ドリルを広げて何やら書いている。ちょっと……いや、すごく簡単そうだけど、丸の書き方、丸の向き、棒の方向、棒の長さ……そんなの決まってたんだ?四分休符って下から書くのか?確かに上向きにはらってある……基礎は大事だな。それにしてもここからやるなんて信じられない。全く、変なところで完璧主義なんだから……。面倒くさい妹だ。
お母さんは、デパートで買ってきたらしい夕食を出したり温めたりしていた。僕は、それらをキッチンからリビングのテーブルに持って行った。
「お兄ちゃん、じゃま!」
「美桜がじゃまなんだよ!もう夕食だろ?食べてからやるか、自分の部屋でやれよ」
いつもだったら絶対にどかないで居座る美桜が、ドリルと鉛筆だけを持ってダダダダーっと走って二階に上がっていった。うるさいなぁ。
「何だか、可笑しいわね」
お母さんが楽しそうだ。
「何が?」
「あんなに練習しない美桜が、ドリルですって。いつか、娘がピアノを弾けるといいなって憧れてたのよ。待ってた甲斐があったわ」
僕に言わせれば、よくあれだけ放っておけるなと感心するくらいなんだが……僕は放っておいてくれた方が有り難いけど、美桜は見ていないとやらないんじゃないか?もちろんそんなことまで言わないけれど。言ったら僕が美桜に何を仕返しされるかわからない。
「また慎一くん、呼んでくれない?」
「うん、いいよ」
僕はシンイチに電話をした。
「宿題終わっただろ?今度いつ遊べる?美桜のピアノも頼みたいって、お母さんが」
「あぁ、ありがとう。ちょっと今、忙しいんだ。夜、電話で質問してくれたら答えるよ。受話器の前で弾くとかできるし。かおちゃんが寝る、夜の8時すぎなら。そう伝えてくれる?」
「わかった。ありがとな」
その日の夜から、美桜は毎日夜8時にピアノの前でシンイチと長電話をするようになった。「こう?」とか言いながら弾いてみたり、予め横にメモ用紙を置いておいて、言われたことを書きとったりしていた。
お父さんは、
「業務報告か?」
と笑ったが、美桜のピアノは明らかにメキメキと上手くなっていった。
僕の宿題が終わっているのを知っている美桜は、例の簡単かつ大量のドリルの丸つけを僕に頼んできた。
「何で僕が!」
「タケル、お母さんからもお願いよ。お小遣いあげるから」
お小遣いより、僕の自由な時間が!……そこで初めてシンイチの時間の大切さを思った。クラブの時間ですら、ピアノのための勉強をしていたシンイチ……。学校の勉強の他に、僕の想像もつかない範囲の勉強をしている筈だ。
僕は赤鉛筆で美桜のドリルの丸付けを始めた。
三年生の美桜が、ここからしなくてもいいんじゃないかと思うくらい、本当に簡単だった。僕は一応解答を見ながら採点をした。すると、だんだんと新しい知識を知ることになり、意外に楽しかった。先人の遺した楽譜という文化……僕はそこまで語れないが、勉強の楽しさは尊い。
美桜のドリルはだんだん難しくなった。僕は必ず問題をよく見て、解説を読み、自分で理解してから採点をした。それから、美桜が間違えた問題の傾向を調べ、確認テストを作ってやり、応用問題をさせて、楽譜の面からサポートをした。
美桜は楽譜の決まりや、記号の意味などを、頭から先に理解していった。何故なら、多少練習したところで、指は簡単についてきてくれなかったからだ。
シンイチとの電話レッスンも毎晩きっかり8時に始まり、電話の前でバイエルを弾き、聴いてもらったことにいくつかアドバイスをもらってはメモしておき、翌日練習し、夜8時にまた電話をして弾いてコメントをもらっては新しいことを教えてもらっていた。
お父さんは笑っていたが、僕もお母さんも、シンイチに感謝の気持ちでいっぱいだった。
ついにシンイチは、夏休みの終盤に僕の家に来てくれることになった。
「慎一くん、忙しいのにありがとう」
「シンイチ、ありがとうな」
家に着いたばかりのシンイチを、皆で囲んだ。その歓待ぶりに、シンイチはたじろぐほどだった。
「来たかったんですけど、かおちゃんもいるし、すみません」
「あぁ、そっか。かおちゃんの面倒見てるのか。まだ小さかったもんな。今日は?」
「今日はお母さんが一日何もないからって」
「まあ、槇先生の予定まで……本当にありがとうございます。さあさあ、どうぞ」
シンイチは、
「美桜ちゃん、久しぶり。……といっても毎日電話で話してるね」
と言って笑った。美桜は真っ赤になっていた。そうだよな。恋人みたいだったよな、知らないけど。
前回と同じく、美桜のレッスンをして、僕と遊び、その間に美桜は練習をして、もう一度美桜のレッスンをした。
バイエルがもう終わるだろう。シンイチの初めてのレッスンでは60番だったのに、ついに100番に手が届きかけた。いや、言い過ぎた。届くのは90番だ。何だか、皆で感無量だった。
「シンイチ、見ろよ!僕も先生になれそうだろ?」
僕は、美桜がやったドリルを全て見せた。
「美桜が解いたものを、僕が採点してさ、間違えたのだけ集めて、類似問題とか作ったりしたんだ。知らないことだらけで、なかなか楽しかったよ」
「これはすごい……。家族の協力って尊いな。美桜ちゃん、皆に感謝だよ?……いや、本当にすごい。感動した。えっと……今、僕が練習している曲を弾いてもいい?」
「弾いて弾いて!」
シンイチの演奏は、すごかった。
特に、お母さんと美桜の驚きは……。
「すみません、まだ練習中で……お聴かせする程ではないのですが、今の精一杯を試してみたくて……」
シンイチはそう言ったが、とんでもなかった。あと何を直すんだ?
美桜が一言ずつ、口を開いた。
「今の曲……スケルツォでしょ?ショパンの……」
「そうだよ。よく知っているね」
そのやりとりに、僕もびっくりした。美桜、曲名とか作曲家とか、詳しくない筈なのに……。
「この前、楽器店のピアノの先生が弾いてたから……シンイチ先生の方が何倍も上手……」
本当におそるおそる、美桜がそう言った。お母さんも肯定の意味で頷いていた。シンイチは何も言わなかった。
シンイチは、楽器店のピアノの先生より上手なのか……。
「ところで美桜ちゃん、学校の宿題は?」
「え?」
シンイチの言葉に、美桜も、お母さんも、僕も止まった。
「結構時間かけたでしょ?ピアノも毎日、ドリルもこんなに。僕、ちょっと気になってたんだ。ちゃんと遊んだり、休憩してるのかなって」
美桜は僕とは違って、計画をたてたり、きちんと少しずつやるのは苦手なタイプだ。苦手なことは後回しか、やらないか、どっちかだ。
「じゃ、僕はこれで。タケル、また新学期な」
「ああ。ありがとう」
お母さんが御礼を渡して、庭先まで見送った。
美桜、宿題は?
あの調子では、やってないだろう。
どうするんだ?
僕は、嫌な予感しかしなかった。




