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Educator  作者: 槇 慎一
13/30

13 美桜ちゃん、違う教室に行っちゃうの?


 チャイムがなった。


 美桜ちゃんだ。レッスン時間ぴったりに来たり、少し遅れたり、かと思うとすごく早く来て門のところでうろうろしていたりする。気分屋さんなのか、時間にルーズなのか。私のことは大好きみたいで、いろいろな話をしてくれる。下手すると、レッスン時間が話で終わる。私はレッスンをしたいのに、それをさせないことに頭を使っている。いい子なんだけど、そうやって私を悩ませる子だった。レッスンの時間はレッスンをして、別の時間に美桜ちゃんと友達として遊びたいくらいだ。


 練習の習慣はついていなかった。賢くて、言うとその場ですぐに弾ける。楽譜を見ないで鍵盤を見て覚えてしまう。復習をしないから何も身についていない。それでは先に進ませることができない。テキストが合わないなら違うものを試してもいいけれど、お母様はレッスンについて来ない。テキストがろくに終わらないうちに違うテキストを勧めるのは言い出しにくく、結局バイエルをしていた。それでもクレームもなく、レッスンを休むことなく、美桜ちゃんを機嫌よく送り出してくれるお母様だ。


 美桜ちゃんが小学三年生になり、私が音楽大学を卒業しても、美桜ちゃんはまだバイエルをしていた。ようやく50番くらいになったところだった。ヘ音記号すらまだ出てきていなかった。


 私が音楽大学に入学する前から習っていた『槇るり子先生』が、私に卒業記念リサイタルの開催を勧めてくださった。とっても嬉しかったけれど、そこまでの自信がないと正直に申し上げたら、

「じゃあ、半分ずつにしましょうよ。私も弾くわ?何にしようかしら。ね、連弾もしましょうよ。生徒さんも喜ぶわよ?」

と笑顔で仰った。すぐに美桜ちゃんの笑顔が浮かんだ。るり子先生には敵わない。私は、そんなるり子先生が大好きだった。


 卒業したての四月にコンサートを開いた。開いたと言っても、私は当日の前半を演奏しただけで、準備から何から何まで、ほとんどるり子先生がしてくれた。逐一報告を頂いたので段取りはわかったけれど、聴きに行くだけとは全然違う。プログラムの解説の作成くらいは覚悟していたけれど、コンサート開催まで、やるべきことが意外にたくさんあった。

るり子先生は、

「今度は一人でやるのよ?後輩とでもお友達とでもいい。後輩を助けながら一人でできるまで手伝うから、いつでも言ってね」

と明るく仰った。

 私は、そんなるり子先生の、先まで見て教えて下さる姿勢も大好きだった。



 コンサートには、美桜ちゃんが家族で来てくれると聞いていた。平日の夜だからお父様は来られないけれど、お母様とお兄ちゃんが来るという。それを嬉々として私に報告してくれる美桜ちゃんがかわいくて、同時に身が引き締まる思いだった。お客様がいらっしゃることは、有り難くも緊張する。演奏でお金を頂くという緊張感に、更に輪をかけたのが、るり子先生からのお電話だった。るり子先生は、遠慮がちに私に話した。


「高田さん、相談なんだけど、かおりちゃんも客席で聴いてもいいかしら?一般向けの演奏会は、まだ年長さんだから本当は入れないけれど……これまでにいろいろ見せて、一応おとなしく聴けるみたいなの。気になるなら慎一と控え室にいてもらうけれど……」

「そんな!かおりちゃんのことはよく存じ上げています。控え室だなんて!どうぞお席にいらしてください。招待席をご用意いたします」

 私は慌てて捲し立てた。慎一くんも聴くのか……。るり子先生の御子息。既に試演会で何度もお互いの演奏を披露している。聴かれるのは恥ずかしい。慎一くんには、私の出来ないところや苦手なことも全てわかるだろう。演奏する人は聴く人を選べない。それくらい、慎一くんは既に素晴らしいピアニストだった。


 かおりちゃんが静かに聴けるかどうかは全く問題ない。もともとおとなしいし、いつも慎一くんの隣にちょこんと座っているイメージしかない。むしろ、心配なのは美桜ちゃんだ。レッスンでも座っていない。話していて興奮すると、立ち上がったり椅子の上に足を乗せたりする。私は足を直させるが、直しながらも口は止まらない。はたして美桜ちゃんは、客席でだまって座っていられるのだろうか……。一番前とか、演奏している視界に入る席に座って、私に手を振ってきたりしないだろうか。……そんなことも心配な美桜ちゃんだった。


 コンサートに来てくれた美桜ちゃんは、感じの良いお母様とお兄ちゃんと一緒に、余所行きのワンピースを着ていた。ちゃんと三年生の女の子に見える!お母様は、私とるり子先生にも差し入れをしてくださった。穏やかで、素敵なご家族だった。バイエルを何年かかっても気にしないのかもしれない。もったいないけど、それでいいんだろうか……。言いたいけど、何を?どんな風に?


 心配は杞憂になった。


 それからというもの、美桜ちゃんがピアノを練習してくるようになった。明らかに練習してあったのだ。しかし、間違えたまましっかり覚えてしまっていたり、レッスンの時の記憶を頼りに、どうにかして何十回も繰り返し、同じ弾きかたで練習してきたといった具合で、変な癖がついていたりした。それでも嬉しかった。お母様はピアノの経験がなく、一緒になって練習を見てくれたらしい。レッスンに来てくれると話が早いんだけど……。美桜ちゃんが嫌がるんだろうな。お母様もおおらかで優しそうだしな。それでも、プライドの高い美桜ちゃんのやる気を失くさないよう、ほめつつも間違いを正し、音符を読む練習をし、リズムの違いを理解させた。大変だったけれど、レッスンの時間はたまらなく嬉しくなった。


 夏休みになってすぐのレッスンに、美桜ちゃんがいつになく緊張して訪れた。インターフォンの画面から違った。具合が悪いのかと心配した程だ。少し前までは、お話ばかりしてちっともピアノに気持ちが向かなかった美桜ちゃん。どうしたのかな?と見ていたら、宿題の三曲を間違いなく、あっという間に通して弾いてみせた。



 

 私は何かが怖かった。


 まず思ったのは、違う教室の体験レッスンに行って、もうここには来ないのかもしれないということだった。これ程までに顕著でなくても、他の先生に少しでも習ったらすぐにわかる。お別れを告げられるのだろうか。自分の指導の不甲斐なさを思った。






 私は美桜ちゃんの言葉を待ったが、美桜ちゃんこそ私の言葉を待っていた。私は、正直な気持ちを伝えた。


「美桜ちゃん。先生ね、美桜ちゃんが練習してなくても美桜ちゃんのこと大好きだけど、美桜ちゃんがピアノを好きになってきたみたいで、すごく嬉しい。コンサートの後からの変化も、先週から今日までの頑張りも、すごくすごく嬉しい」


 美桜ちゃんは、はちきれそうなくらいに嬉しそうだった。


 私は、美桜ちゃんが練習した三曲全てに文句なしの花丸を書いた。次回までに、次の三曲を宿題にした。次の曲の説明をして、美桜ちゃんが一人でできることの内容を広げようとした。それでも、美桜ちゃんは少しぼんやりしていた。聞いていない。これ以上言っても、今日は無理そうだ。

「……でも、できたらもっと先の曲も弾いてみてね」

と伝えた。


 チャイムが鳴った。次の生徒だ。30分って、それだけのことしかできない。るり子先生みたいに、もっと長い時間レッスンして、面倒見て、一人でできる力をつけさせたい!




 私は夜、美桜ちゃんのお母様に電話をした。感じの良いお母様だ。報告がてら、おうちでのお話を聞いてみようと思った。

「まあ、高田先生!娘がお世話になっております」

大丈夫、大丈夫……。私は自分に言い聞かせた。

私は、美桜ちゃんがとてもよく練習してあって嬉しかったこと、ご家族の協力についてのお礼、そしてこれからもぜひ続けてほしいと、祈るように伝えた。


「……先生のおかげです。素敵なコンサートがよいきっかけになったみたいで。それに、槇先生の演奏も。素晴らしい先生について勉強されて……実は、槇先生の御子息様が、偶然宅の息子と同級生で。先日遊びに来てくださって、ピアノを教えていただきましたの。練習のしかたというんでしょうか。私がわかりませんでしたから、とても勉強になりました」


 私は電話のこちらで仰け反りそうになった。思わず受話器を離した。るり子先生の息子さんに教わった?納得だ。慎一くんのことは、慎一くんが小さい時から知っている。かおりちゃんを教えていることも。あの慎一くんが教えたなら……納得だ。


 私は、るり子先生の技術、お人柄共に素晴らしい先生で尊敬申し上げていること、るり子先生が愛情たっぷりにお育てになった慎一くんも、小学生ながら既に素晴らしいピアニストであり、教えることに関しても定評のある息子さんなのだということを伝えた。慎一くんが教えてくれるというのであれば慎一くんに習ってもいいので、どうかそれなりの御礼をするようにと、丁重にお願いした。


「……そうなんですか。そんなに素晴らしい御子息様なんですね。知らない世界で……教えてくださいまして、ありがとうございます。えぇ、承知いたしました。失礼致します」


 お母様は驚いていらっしゃったが、知ってしまったら見過ごせない。まさかるり子先生の方からそんなことは仰らないだろうし。


 慎一くんは、私とは格が違う。

 確実にピアニストになる人物なのだ。


 これからどうなるのだろう。

 美桜ちゃんの成長に、良い展開になることを祈らずにいられなかった。













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