パラライザー”麻痺” 5
「あなたですよ」
教師が自分のことを指さすと、易者は肯定した。
「あなたによくないものが近づいています。よかったらわたしに見てもらっていきませんか?」
「え? いきなりそんなこと言われても……」
教師はもともと、占星術や風水と言ったものをあまり信用していなかった。なので易者がなにを言おうと、これを受けるつもりはなかった。教師は「私はいい」と伝えようとして手を振った――その手を易者に捕まえられた。
「あれ?」
教師はいつの間にか易者の前に座って、易者に掌を見せていた。
「お手を拝借……と言っても、わたしは手相占い師ではないのですが」
言いながら易者は教師から手を離した。
自分の手が重力に従って机に落ちそうになるのを、教師は力を入れて止めた。
「ちょ、ちょっと。私、占いをしてもらうなんて言ってない。それにすぐそこに友達を待たせてる。そんな時間ないんですよ」
「それは大丈夫です。時間は相対的なので」占い師は構わず地面に置いていたカバンから水の入った器を取り出した。
「こんどこそお手を拝借……。この水に浸してくださる?」
器はガラス製で、底に安っちい花柄のテーブルクロスが見えた。教師は言われるがままに手を水に浸した。七月のしけった夕方とはいえ、水に浸すと汗の引くおもいがした。しばらく……まだまだ……というので、教師はそのまま水の中に手を入れていた。易者は水の表面をじっと見ていた。ちゃんと洗えていなかったのか、今日過ごしているうちに剥がれて来たのか、水に垢が浮いてきていた。
数十秒ほどすると、易者がもういいですよと言った。教師が手を振って水気を飛ばしていると、易者は鞄から白いハンカチをとりだして教師に渡してきた。
「あ、どうも」
教師がハンカチで水を拭っていると、視界の端で易者がおかしなことをしだした。垢の浮いた水をコップに移すと、口をつけてごくごくと飲み始めたのである。
教師はぞっとして、全身が総毛だつのを感じた。そのすきまから夜風が吹き込み、全身から体温を奪われたかのように、脳幹が冷え、泡立ち、神経質な部分に触れ、かゆみを引き起こさせた。
呆気にとられた教師をしり目に、易者はぐいぐい水を飲み、一杯分を飲み干すとそれがさも当たり前のことであったかのように右上を向き、思案顔で頷いた。
「だいたいわかりました」
「な、なにが……?」
「あなたの過去の宇宙についてです。あなたは学校のようなところで働いてますね。それで、なにか不満を感じてらっしゃる。不景気、税金、家族、友人、恋人……悩みはいろいろありますが、大元は学校にあるように思われます」
教師は守るようにして水を入れていた手を胸に抱き、椅子を少し引いて易者を窺った。
「わたしはあなたの過去の宇宙を知っています。ですがインナースペース《内宇宙》については知りません。よければそこのところを教えてもらいたい」
自分の常識や感覚に合わせるのであれば、ここで教師は帰るはずだった。こんなところでやっているにはやっているなりの理由があるのだと納得して、引っかかった自分を笑うぐらいできるはずだった。
にもかかわらず教師は帰らなかった。それは、またしても気づかないうちに座っていたわけではない。易者があまりに説得的な態度だったために、騙されてしまったのだ。
そう、騙されたという感覚を教師は自覚していた。抗いになるほどのものではなかったが、教師は易者を心底では少しも信じていなかった。
易者もそれに気づいていた。易者は口元を隠しておかしそうにした。
「うふふ。いいんですよ別に。呪いはいつも一方通行のものです。怪しげな薬じゃあるまいし、気持ちの問題なんかではありゃしません。あなたはあなたのことを教えてくれればよろしい」
教師は自分のことを話していた。自分でも驚くほどスムーズに、かつ臆病になりながら、教師自身の心底が見えないように。
易者はそれをじっと聞いていた。時折合の手を入れる以外は口を開かなかった。相変わらず、真面目なのかそうでないのかよくわからない態度で、一言一句聞き逃さないように努めているのが分かった。
――この人、こんな態度なのにやけに聞き上手だな。
それがプロというものなのか? 教師にはわからなかった。
やがてすべて話し終えると、教師が話を打ち切る言葉を発する前に、易者は「なるほど」と言った。「あなたの悩みはわかりました。ですが悩みというのは曖昧なもの、その消失点はたえずうつろいゆくものです。あなたがわたしに話したことで、わたしがあたなに話したことで、悩みの大元を含有するよう要素から、悩みがすっぽりと抜け落ちてしまうかもしれません。ですのでわたしから具体的な指南はできないのですが」
易者は言った。
「それを総合してあなたがやることは」易者は言った。
「ゼムに気を付けることですね」
「ゼム?」
THEM?
教師は易者の姿をとらえ損ねそうになった。
易者は続けて言った。
「ゼムはあなたの幸せを奪う悪い存在です。ゼムを見たら、もしくはゼムを見たと思ったら、すぐそこから逃げることをお勧めします」
「ゼム?」と教師はもう一度易者に言った。困惑に眉根を顰めながら。「それは…‥つまりそれは、私のストレスになるものや嫌いなものを見たら逃げてもいい、そういうこと? 仕事からも?」
「いいえぇ」易者が口元に手を添えて言った。「ゼムはなにかの具現化ではありません。まして象徴などでは全く……」易者は笑みを押し殺した。「ええ、はい。ゼムはゼムです。それ以上でもなければ、それ以下でもない」
「それじゃあ」教師は戸惑いを隠さず言った。「ゼムは一体なんなんですか」
易者は急に半月型になっていた口をきゅっと一文字に結び、ベールの下からでもわかるほどはっきりと、教師の目を見据えた。
「それはね。言えないんですよ。ゼムに見つかってしまう」
「信じろっていうんですか、そんな話。占ってくれるというからここにいるんです。 そうじゃないなら帰らせてもらいます」
「信じていないなら信じていないと言えばいいんですよ。でも信じざるを得ない時がくるんです。ゼムは来ますよ。遠からずあなたの前に。そして、みんなの前にも」
易者は教師に笑いかけた。教師は、なぜだか椅子から立ち上がれなかった。易者から目を離すこともできなかった。
「ゼムは一体何なんですか」
「教えられません」
「ゼムに対して私は何をすればいいんですか」
「ただ逃げればいい」
「ゼムは一体、何を起こすんですか」
「とても悪いこと」
「なぜ私なんですか」
この質問をした後、易者は初めて少しだけ言葉に詰まった。それはあいまいだからというだけの理由ではなかった。易者は慎重に言葉を選んでいた。
「ううん、そうですね。それは、世界精神によるところです。それは仮定の中でしか理解されません。それをちゃんと理解することは、神が動かせない石をつくるはなしと同じ、あなたのすべてを崩壊へと導きます。《《それが自浄作用というものだからです。》》ここでこう話している、それだけでも世界精神はこちらへ過度に侵入していると言ってもいいかもしれません。だからただ言えることは、ゼムからは逃げる、という、それだけのことです」
易者がそう言い、教師を心配そうな目で見る。
すると、空間がぐにゃりと曲がって、自分がどこにいるのだかわからなくなった。それでも易者だけは来た時と同じ姿を保っていた。”不思議じゃないですか”教師は音や言語がわからなくなっていく自分を感じた。それは心中で声を潜めることに似ていた。”なぜ、あなたは雑踏の中でわたしの声をみわけたんでしょうね””なぜ、あなたは私の話を最後まで聞いたんでしょうね””仮定を促すというのであれば、この辺りが限界です。それではさようなら”
友人に声をかけられ、教師は辺りを見回した。教師はまだ、夏枯の汚いアーケード街に立っていた。路地裏には、中華屋の裏口と、室外機があるだけだった。ゴミ袋が三つ四つ積まれ、その間をゴキブリが通っていた。易者の影は跡形もなくなっていた。教師は友人にここになにかなかったかとは聞かなかった。なにもなかったことはあきらかだったからだ。教師は易者の言ったことを考えてみた。
――でもこれもたぶん、意味はない。納得という以上の意味はおそらく出てこない。そしてそれを知っている私は、納得できないのだ。
教師はしかしそれでも考えそうになった。しばらくのあいだ、ふとしたときにゼムがいるのではという気分になった。それはさながらゴキブリを殺したあとのようだった。ここにはいない、しかしどこかにいることを確信している。
とはいえしかし、教師は忙しかった。非常勤で、常勤の教師に比べれば部活などがない分まだやること少ないとはいえ、それでも期末の前になると、期末試験の準備に授業の遅れた分進みすぎた分を帳尻合わせしなければならないので、自然に余計なことを考える時間は少なくなっていった。そして七月も半ばになり、学校が夏休みに入ろうというころ、決定的な出来事が起きた。
猫が殺されたのだ。
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