パラライザー”麻痺” 4
「昔、似ている子がいたね。私とあなたが同じ高校に通っていた時」
教師の友人が言った。
教師は肯定して、ミルクティーを一口飲んだ。
あの少しあと、教師は夏枯の駅前で友人と待ち合わせた。
彼女は中高と同じ学校に通っていた、何年来かの知り合いだった。高校時代、それほど仲が良かったわけでもなく、また社会人になってからも連絡を取り合っていたわけではない。むしろ教師としては彼女は、北関東に来てからの付き合いと言ったほうがずっとしっくりくる。彼女は育ちがよく、こっちではお花の先生をやっていた。
つり合いがとれているわけではない。明確に優劣がつけられていると言っていいし、それほど好きでもない。しかしそれでも、教師にとって彼女はこちらでの唯一の友人だった。
駅前で会って、美術館に行き、軽食をした。高校生の修学旅行のような道程だった。教師も彼女も仕事に本を使うことがあったので、本屋にも寄った。夏枯のアーケード街には古本屋がたくさんあった。いくつか回ったが結局欲しいものは見つからず、駅前に戻って紀伊国屋で適当なものを見繕って、改札隣の喫茶店に二人で入った。
会ってすぐ近況報告はしあったので、なにか話すことがあるわけではなかった。毎度そうだった。教師はミルクティーとベーグルを頼み、友人はコーヒーを頼んだ。それも待っている間、教師は外の人込みを意味もなく見つめていた。友人はメモ帳を開いてなにかを書き込んでいた。
この時間を不毛だというのであれば、反論する気はなかった。関係自体が不毛だったから。こうして二人で無意味に時間を費やすのは、あるのかどうかわからない友情をあると錯覚するためだった。
教師はそれを自覚するのが嫌だった。だから教師は夏子の話をした。友人はそれをはじめ話半分に聞いていた。教師も感情をこめないように滔々と話した。川瀬夏子という少女が、どれだけ正気なのかという点について。
「そんな子がまだいるんだね……」
友人は教師の話を聞き終えると、なぜだか悲し気にそう零した。
「私たちが高校生だったころ、学校はすごく荒れてた。世間もひどい事件ばかりだったのを覚えてる。コンクリートに埋められた女子高生とか、名古屋のカップルが殺された事件だとか。うちの学校にもシンナー吸って頭のイカれたやつがいた。肩がぶつかっただけで相手を病院送りにするようなやつも。一人で世界中の人間を殺してやるって息巻いてるような子も」
教師はハッとした。今の今まで忘れていた。
それとも忘れようとしていたのか。
夏子によく似た人間を教師は知っている。
「昔、似ている子がいたね。私とあなたが同じ高校に通っていた時」
教師は肯定して、運ばれてきたミルクティーを一口飲んだ。
「狛江渚。今どこでなにをしてるのかは知らないけど、知りたいとも思わないけど、昔そんな子がいたよね」
狛江渚のことはもちろん憶えている。高校三年間を通して、教師と親交があったし、校内の有名人だった。
友人が話し出した。
「ちょっと頭の弱い子だった。なにかっていうとすぐ手が出て、じっと座ってることもできなかった。勉強がからっきしで、教師からも生徒からもバカにされてた。
いいとこもあったかな。一回心を許したらとことん懐いてくれるの。かわいいって思えることもあった。きゃんきゃん鳴いてすぐうんざりするんだけど。でもまあ、悪い子ではなかったよね。
だから不幸もいいとこ。あの子に起こったことは。自業自得だって言ってた人もいたけど、そうじゃないって言ってる人もいた。私は……半々。
運動もすごくできたってわけじゃない。けどでも、喧嘩は強かった。なんでだと思う? まあ、あのころでさえ人を思い切り殴れる人はそんなにいなかったってこと。そういうことだろうね。あの子は私やあなたを守るって息巻いてた。電車で痴漢するようなやつの手首をひねり上げて。
私たちは知らないふりをしてた。知ってて何も言わなかった。あの子が、いやがらせを受けてるってこと。いやがらせのたびにあの子がキレて、誰かを殴ってたってこと。
三年の時、あの子は不良どもに目をつけられた。あの子は少しずんぐりとした見た目だったけど、そこがいいって。そう言ってた気がする。どうだったかな。
あの子は学校の倉庫に連れ込まれて、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して…………」
友人は言葉を切った。
「なにがあったかは、ご想像通り」
友人は言葉をつづけた。
「あの後はもうほんとひどいもんで、あの子は目も当てられない姿になってた。たましいがぶっ壊れてるのが一目見ればわかった。私もあなたも楽しいことを考えなくちゃいけなかった。映画館でシザーハンズを見に行ったの憶えてるでしょう? あれはすごくいい映画だった。シザーハンズはキモかったけど、ウィノナ・ライダーがイケてた。憧れたな。髪型を真似して色もブロンドに染めたもの」
「想像する必要なんてなかった」
「それはその通り」
違う。あなたの思っている意味じゃなくて。
教師はそうは言わなかった。教師には想像する必要などこれっぽっちもなかった。そんなことをしなくても、教師はその光景を目に焼きつけられていた。
体育館裏の桜の木のしたで渚が引っ張られているのを見た。渚は抵抗して、引っ張っている男は地面をずりずりと言わせて渚を引きずっていた。体育倉庫はあのとき体育館の外にあって、教師はたまたまそのなかが見える位置にいた。
「なにを買ったの? 本」
教師は友人に聞いた。
友人は教師にブックカバーを外して表紙を見せた。村上春樹の新作だった。
「海辺のカフカ? どんな話?」
「パンとナイフとランプを持って旅立つ話?」
「そうなの?」
「ううん。知らない。まだ3ページ目だから」
友人は本を閉じた。
目を伏せ、少し考え事をしているようだった。どうしたの、と訊くと、失態を覆い隠すように素早く、なんでもない、と返した。
「そっちは? ニュートン? ネイチャー? 熱心だよね、昔から。教師になったって聞いたときは驚いたもの。てっきり科学者の道に進むんだと思ってたから」
「まあ思うようにはいかないってことかも」
教師は友人に科学雑誌の表紙を見せた。その号には世界の構造についての論説がのっていた。その論説によれば、世界には一元的な世界とそうでない世界の二種類があるとのことだった。一元的な世界というのは、宇宙そのものであり、周りにあるものはすべて幻覚であり、結局のところひとつのもので、私たちは宇宙の細胞なのだということだった。一元的でない世界というのは、私たちみんなの意識を含めたことによって混濁した世界のことであり、そのなかではみんな盲目で、正しいものを見るのは不可能ということだった。
気を紛らわせるために教師はそれについて考えた。物事に正しいことなどない。その正しさは十人十色だから。そう言ってやれればいい。そう川瀬夏子に言ってやれて、彼女がその世界で生きられればいいと思う。でも同時に、そうなれば彼女は影の獣に食べられてしまうだろう。
教師にはあの子が、一匹の狼に見えた。群れを好まず一人で行動する狼。いずれ淘汰され、いなくなってしまう獣。
二人は夜のアーケード街を歩いていてそれぞれ帰途につく。その時、車道を大型トラックが通ったのでよく聞こえなかったのか、友人は耳に手をあてて「えー?」と声を出した。これもまた車に邪魔をされてよく聞き取れなかった。教師が苦笑いして同じ言葉を繰り返そうとしたそのとき、耳元でささやく声がした。
「もし、そこのあなた。もし……」
「え?」
教師は周囲を見渡した。夜になってアーケード街はほとんどの店が閉まっていた。寂れた人のいない通りを車ばかりがびゅんびゅん通り過ぎて行って、置いていかれているようだった。
「ちょっと、そこのあなた」
今度は耳元ではっきりと聞こえた。
それは中華屋と中古ゲーム屋に挟まれた裏路地にあった。
パイプ椅子と古いビーチテーブルの前に座った、アラビア風のベールをかぶった女がいて、こちらに向かって手招きしていた。