パラライザー”麻痺” 3
前のより少し長いです
夏枯市立夏枯中学校は、北関東の奥地に建てられた。夏枯自体が北関東の奥地なのだから、どこであろうと建てられれば北関東の奥地ということになるのだが。標高の低い山が点在し、低いところには大して高くない建物と、田んぼ……のかわりに太陽電池が敷き詰められる予定だった敷地がいくつもある。この町を開拓しようとして、とりあえずやめた形跡が残っている。窓の外にはそんな風景があった。夏枯中学校は四限のあと一時間の昼休憩を挟み、五六限があって終わりだった。
五限まではまだ時間があった。プリントの箱を教卓に乗せると、教師はうろうろと理科室の中を歩いた。
教師は床を見下ろした。
紙の塊が落ちていた。
教師はそれを片手で拾った。
それはくしゃくしゃに丸められた、先ほど夏子が放り投げたノートの欠片だった。広げてみるとノート一枚の半分だった。
教師はそれをまじまじと見た。
「先生」
驚いて教師は思わずノートの紙片を隠してしまった。
「川瀬さん」
川瀬夏子がゴミ箱を片手に理科室の扉の前に立っていた。夏子はゴミ箱をもとあった位置に置くと、教師の顔を今度はじっと見た。授業中にそうしたようにではなく、なにごとかを考えているようだった。教師がなにか話しかけようとしたとき、夏子はすっと、まるでそれまでの時間などなかったかのように、「これここでいいですか」と言った。「持ってっちゃってすいません」
夏子はぺこりと頭を下げた。
過度に申し訳なさそうではなかった。しかし思ってないで言っているわけでもなさそうだった。教師はそのずれた謝罪を受け入れた。夏子は扉の向こうに姿を消した。
やはり音はなかった。なので、教師は今のは幻覚かと少し疑った。拾ったノートの紙片を開くと、それは奇妙なほど丁寧にとられたノートだった。紙に盛大なしわが寄って、必要のない陰影がついていたが、それでも一つ一つの文字がゆっくりと時間をかけて形作ったかのように、きれいなノートだった。色分けや付箋こそ使われてはいないものの、黒板に書いたことから、自分が口にして説明したことまで、細かくとってあった。
やや中学生離れしたノートだったが、川瀬夏子という少女のイメージとそのノートはぴったりあった。ただしそれは、発狂していないときの、という但し書きつきではあったが。
しかしそれでも、発狂する、頭がおかしい、問題児、それだけのレッテルに、ノートの奇麗なと形容詞が付けば、それだけでずいぶん見栄えが良くなるなと教師は考えた。
かといってもちろん、夏子がおかしくないということにはならない。夏子はその翌々日に、同じクラスの悪ガキと喧嘩になった。悪ガキとかわいらしい書き方をしたが、地元の高校生と繋がっている上級生経由で、もう立派に暴走行為を繰り返す不良予備軍で、行動は少しもかわいげがない。夏子は見目がよく、体の発達も早いので、からかったり手を出そうとしたりする生徒もいないわけではなく、諍いになったのはちょうどそんな男子だった。
はじめは廊下で突然肩に触れたりする程度だった。廊下ですれ違いざまにさっと肩に触れ、げらげら笑いながら逃げていく。彼は前からそんなことをよくやっている生徒で、廊下を歩いている女子を見つけてはどこかに触れて逃げる。夏子は後ろからやってきた彼に気が付いて、さっと横によけた。男子生徒は夏子に触れようと手を伸ばしたが、そこを通りがかった教員に咎められ、嫌な顔をしながら逃げていった。
教員が「大丈夫?」と訊くと、夏子は無視して黙って男子生徒の背中を見送った。
「からかっているだけだからね」と言った。
その教員は上級生の担当で夏子を名前でしか知らなかった。
その次の時、四限が終わってすぐのときに、男子生徒は仲間に夏子に触ると宣言した。仲間たちは男子生徒を囃し立て、みんなで夏子のいる1年3組に行った。夏子はいなかった。夏子はいつも動いていなければ気が済まない性分で、継続してその場でおとなしくしていられなかった。そのため授業終わりでいらついていた。
1年3組の教室からそう離れていない廊下で夏子を見つけた男子生徒は一旦立ち止まって仲間の方を見た。
「行けよ」と仲間の一人が言った。男子生徒は夏子の背後から近づいて、そろりと彼女の様子を窺った。
夏子は目的もなく徘徊しているらしかった。そのまま歩いていけば非常口があるところまで行きそうだった。教室はもうなく、社会科準備室や理科準備室などの用途のよくわからない教室ばかりがあるあたりで、彼らのほかには人通りがなかった。
「こんなとこでやっても面白くないな」
そう思ったのでそのまま観察していると、夏子は校舎の一番奥の階段を使って二階に上がった。そちらには人がそれなりにいた。職員室や生徒指導室のあるあたりだった。
男子は音をたてないように上履きに気を使って歩いた。笑い声が漏れそうだったので我慢すると、我ながら意地の悪い顔になっているなと窓を見て思った。
夏子が職員室の奥側の扉の前を通り過ぎた。そのあたりで、男子生徒は夏子に一気に距離を詰めた。もしあの死ぬほど機嫌の悪そうな顔を見たら、やめていたかもしれない。でも男子生徒は背中しか見ていなかった。
夏子はこんども男子生徒が近づいてくる直前に彼の存在に気づいたが、今度は避けられなかった。左側に避けようとすると、そこに大荷物を抱えた眼鏡の教員がいるのを見て、いっしゅん動くのを躊躇してしまった。それで男子生徒は夏子の頭の右側に触れて、ぐしゃぐしゃと乾く前の墨汁のようにつややかな黒い髪をかき乱した。夏子は押し出される形で教員にぶつかって転んでしまった。教員が軽い悲鳴をあげた。ばさばさばさと持っていた教科書の山が落ち、反対側になったりして散乱してしまった。
「ああ、もう」教員が言って教科書を拾い集めた。夏子は両の膝を床につけたまま俯いていた。「お前が悪いんだ。お前がやったんだ」
男子生徒が囃し立てた。彼は夏子から70㎝ほど離れた位置に立っていた。夏子が立って、襲い掛かってくるようならすぐ逃げられるようにだ。夏子の背後からも彼の仲間が囃し立てる声がした。
「あなたたちなにやってるの」教員がやっと状況に気づいたのか、男子生徒とその仲間たちを叱責した。男子生徒が一瞬だけ教員の方に目をそらした。
「僕じゃありません。そこの子がぶつかったんです」
「お前がぶつかったんだ」
「謝れよ」
男子生徒は再び夏子のほうに目を戻した。彼女のつむじが見えた。男子生徒は夏子が泣き出しそうなのだと思った。だとすると愉快だった。からかってやろうと声を出そうとしたが、これはうまくいかなかった。
夏子は落ちていた教科書の一つを手に取り、丸めると、それで男子生徒の脛を突こうとした。男子生徒は愉悦を滲ませた声とともにこれを後ろにジャンプして避けた。これがいけなかった。これが意識の差だった。
夏子はこのとき、教科書を左手で持っていた。にもかかわらず、重心にしたのは右足ではなく、左足だった。いうまでもなく、座っている状態で、左側に障害物のある今は、教科書を左手に持っているならば右足で踏み込むのが正しい。右足でふんばって体を前に出す方が、体をひねることができる分遠い距離を攻撃でき、バランスもとりやすくより素早い動作ができるからだ。つまり右手の教科書はフェイクだった。夏子は自分が教科書でつくために全身を使ったと見せかけて、じっさいには腕だけ振るっていた。彼が教科書を避けたとき、夏子から見て彼は右斜めから正面に移動していた。夏子の正面に立ってしまっていたのだ。
夏子は素早く左足に力をこめ、フェンシングのような動きで男子生徒の懐に入り込むと、襟首をつかんで持ち上げた。男子生徒はバランスを崩していたので、夏子の勢いに負け、窓際まで追い詰められた。なにすんだ、と言おうとしたその口めがけ、夏子は振り乱された髪を勢いよく振り下ろした。頭蓋骨よりも歯よりもとうぜん唇と口の中の方が柔らかかった。
「ううぅ~!」
男子生徒が口元を抑えて窓沿いに半歩下がった。口元を抑えた手の隙間から血があふれだしていた。「うぁぁぁ」じっさいには血と唾液だったが、見ているものにはすべて血に見えた。「うぅぅぅ……」呻く男子生徒のこめかみへ夏子は右の拳を叩きつけた。男子生徒はその場に崩れ落ちた。
男子生徒の呻きはいつのまにか泣き声に変わっていた。うめき声に増進させられたのか、限界に達していたのかはわからなかったが、その泣き声には恥も外聞もなく、ただ痛みに対するどうしようもない無力さがあらわれていた。
夏子はまだやめようとしなかった。膝裏に上から蹴りを入れようとして、教員に止められた。「やめろ!」夏子は叫んだ。「離せよ!」夏子は教員の腕の中で暴れた。完全に床へ寝ころぶ男子生徒のすねや足を蹴り、教員の腕を引きはがそうともがいた。
男子生徒の仲間たちは我に返り、夏子に飛びついた。夏子の身体を教員の腕におさめたまま、やたらめったら殴る蹴るを繰り返し、やられた仲間の敵討ちのようなことを言った。
「やめなさい!」教員は夏子を腕の中に持ったまま体の向きを変えて彼女をその暴力から逃がそうとした。職員室から異常を感じた教員たちが次々と飛び出してきて、生徒たちを抑え込んだ。夏子が自分を抑えている教員の手を引っ掻いた。金切り声を上げて自分を殴った生徒たちに襲い掛かった。
あとで聞いた話になるが、このときの職員室前は、暴力映画顔負けの世界だったらしい。この中学に昔からいる狸のような恰幅の歴史教師が、「昔の、松田優作がでてた映画知ってます? 暴力教室っていうそのままのタイトル。あれみたいでしたよ」と言って説明してくれた。
幸いにして、大きなけがを負ったものはいなかった。頭突きを喰らった、ことの発端となった男子生徒も、派手な流血こそしていたものの、傷口を何針か縫うだけであとはぴんぴんしていた。夏子は指の骨を骨折していた。あとは擦り傷や痣が何日間か残っただけだった。
後処理もこうした事件にしては穏便に済まされた。もともと原因を作ったのが向こうであるうえ、評判の悪い生徒だったので、むしろ彼のほうに謹慎処分が下されそうなぐらいだった。クラスが違ったので、別教室で授業を受けさせるのもあまり効果はなく、それぞれの親御が話し合った結果、互いに謝ればいいということになった。
ただここでまたひと悶着あったらしい。
夏子も男子生徒も謝るのは嫌だと言ったのだ。男子生徒は自分は悪くない、謝られるならともかく謝る理由なんてないと主張した。夏子は主張すらせずただ謝らないと言った。
教員たちはこれ以上事態が混迷を極めるのを避けたいと考えなぜ謝りたくないのかとしつこく問いただした。夏子は最後の最後まで口を閉ざしていたが、まわりがあんまりにもうるさいので、ぼそっと不機嫌そうに、「謝ってまで直したいものが私にはない」と言ったという。
教師はそれを、同席していた担任の綾小路先生から聞いた。彼は疲れた顔をしていた。金曜日の飲み会で、教師は綾小路先生と机の隅で一緒になって話していた。
お疲れ様です、とか大変だったでしょう、とか教師は月並みなことしか言えなかった。綾小路先生は梅チューハイを飲みながら、頷いたりしていたが、ふと、零すように、「でも、かわいそうだと思います」と言った。
居酒屋の喧騒の中で、それはひどく不自然だった。雨の降る日の池がいくつもの丸い波をつくりながら、なぜか一か所だけ穏やかでいるようだった。
「怖がられて、からかわれて、暴力をふるって、それでみんなの輪にはいれないことがですか?」教師は訊いた。
綾小路先生は首を振った。
「暴力をふるえなくなることがです」綾小路先生は言った。「あの子は中学生です。小学生なら、まだ女子と男子の体格差もない。でも中学生になれば、そうもいかなくなる。どうしても成長の差はでてくるものです。じっさい、あの子はすでに戦い方を変えています。それでもあの子はもうすぐ《《勝てなくなる》》。暴力しかないあの子から、暴力が取り上げられることが宿命づけられている。それがかわいそうでならないのです」
教師はそれが分かる気がした。教師は綾小路先生の背中をさすりながら、あの美しい黒い髪や、大人びた褐色の横顔を頭に浮かべた。あの子は自分の破滅が近いことを理解しているのだろうか。
それでも抑えられない衝動があるんだろう。その気持ちはわかってやれないこともない。
教師はことの顛末をきちんとは知らなかった。夏子と男子生徒とがどのようなやりとりをして互いに矛を収めたのか知らなかった。ただいつの間にか、夏子も彼らも元の場所に残っていた。それは決して元の関係などではなかったけれども。