パラライザー”麻痺” 2
川瀬夏子の話は、以前から聞いていた。
一年三組、出席番号八番。夏枯西小学校出身。根っからの武闘派で、小学校時代に起こした問題は数知れず。見かけはいいが、頭の方は……。中学に入ってからもすでに喧嘩騒ぎや、ああやって突然暴れたりだとか、問題を起こしてばかりいる。
職員室に戻った教師は、椅子に腰を下ろすなり盛大なに息を吐いた。座った職員室の椅子のギアがぎぃとなり、教師のため息を増幅させた。教頭からのお叱りがどんなものだか想像した。教頭は若い女が嫌いだった。自分のような、だ。思えば初めから気に入られていなかったし、非常勤の自分なら簡単に首を切られる可能性もある。
教師は背もたれに体重をかけて天を仰いだ。
ただでさえ今は教師が有り余っているのか、希望してもなかなか教鞭をとることはできないのだ。この学校に赴任してまだ三か月しか経っていない。これを逆に幸運であると捉えることもできるのかもしれない、と教師は思い、次いで自分が少し前まで働いていた学習塾は、もう次の講師を見つけているだろうかと考えた。見つけているだろう。
やはり憂鬱にならざるを得ないな。教師はつい机の下に押し込んでいたカバンから煙草をとりだし、一本抜いていた。それを近くを通った隣の英語教師が軽い調子で咎めた。
「そりゃ不味いでしょう」
「え? あっ」教師は自分がなにをしているのかに気づき、煙草をポケットに仕舞った。
「気持ちはわかりますけどね」と彼は言った。「川瀬夏子でしょう? あれは見かけはちゃんとしてますが、頭は」彼は側頭部のあたりで指をくるくるとさせた。「これですからね」
教師は英語教師の顔を見た。その教師は三田という教師よりずっと前に赴任してきた英語の常勤講師で、ちょっとかっこいい若手の先生、ぐらいの立ち位置で生徒たちから人気のある人物だった。そんな人物でさえ、こういうことを言うのだ、と教師は思った。
教師は肯定も否定もしなかった。軽くうなずくような真似もしなかった。同じに思われるのが嫌だった。
そうした空気を感じ取ったのか、彼は少しばつの悪そうな顔になって、「いえね」と言った。
「いえね? これが初めてじゃないわけじゃないですか。あの子が授業中に騒ぎだすのは。前は日本史の、阿刀田先生のところだったんですけどね。ほらあの人、いかにも気の弱そうな女性でしょう? どうしていいかわからなくなって泣き出してしまって。今体調不良で休んでるのはそのせいなんです」
「そうだったんですか?」
「元もと問題の多い子なんですよ。地元じゃちょっと有名で。加減を知らないというか……行動も、行為もね。すごく喧嘩っぱやいんです。自分からなにかするわけではないんですが、周りの子にバカにされたらすぐ手が出る。でも女の子ですし、あの見た目でしょう? 見逃されてきたんですね。それになにより――ボクから聞いたって言わないでくださいよ? あの子自身、体が痣だらけらしいんですよ」
「虐待があるということですか?」
「さあ。さあ。どうなんでしょうね。私はあの子の親に会ったことはありませんけれど、担任の綾小路先生によると温厚そうな方らしいですが……娘も見目があれですからね、わかったものじゃない」
彼は一度呼吸を入れた。
「ところで先生、攻撃性指数って知ってます?」
教師は思い出そうとした。大学時代に、心理学科の講義をとったときに聞いたことのある言葉だった。
「いえ。詳しくは」
「これはボクから聞いた話だってことは言わないでほしいんですけど」彼は言った。「中学校に上がる前に、川瀬夏子は大きな喧嘩をしたんです。頬の、そうそのあたりに傷が走っているでしょう、あれはその時にできたものなんですが……。そのあとに、精神科の診断を受けたんです。顔の傷を見た親御さんがね、どうしてこんなに攻撃的なのか知りたくなって。つまり攻撃性指数っていうのは、まあようは怒りっぽさを図る数値ですね。ストレスに対する免疫なんかを測定するらしいんですが、この攻撃性指数は100が最高で、ふつうはまあ30だか40だかにまとまるものらしいんですね。それが川瀬夏子の場合はなんと」三田先生は芝居がかった動きをした。「99.8。ほぼ100だったらしいですわ。本来なら薬なりなんなり飲ませて治療するよりも、施設に閉じ込めるべき子供なんですよ。だからつまり」三田先生はまた側頭部で指をくるくると動かした。「ま、こういうことですよね」
教師は大量に降りかかってきた情報を少しずつかみ砕いていった。それが終わると、静かに顔を上げ、「それ、本当なんですか?」と言った。
「まあ、全部が全部ほんとうということもないのかもしれませんがね。あの子が喧嘩っぱやくて自分の怒りをコントロールできない子供なのは事実だと思いますよ」彼は媚びるようなしぐさで教師に同意を求めた。それで、教師は「そう……かもしれないですね」と言い、釈然としない顔で唸った。
すぐには捕まえられなかったのか、教頭が戻ってきた。教師はたちあがり、教頭と相対した。
「相澤先生」
教頭は教師の名前を呼んだ。
「手のかかる生徒なのはわかっています。ですが、指導を放棄しないでいただきたい」
「はい」はいとはなんだはいとはと教師は自分で思った。「申し訳ありません」
「今回は大目に見ますが、次はありませんからね」
そういうと教頭はまた教室を出て言った。
教頭は生徒指導の教諭と授業の邪魔にならないよう校内を探していたようだが、昼頃になると、学内のスピーカーが夏子を呼び出す放送を流した。
放送に呼び出された生徒は、たいていしおらしくして現れるか、完全に無視するかどちらかだが、夏子が後者であろうことは、ほとんどかかわりのない教師にもわかった。むしろ今までわかっていなかったのが不思議であった。教師は今までの川瀬夏子を思い出そうとしたが、そうするとなぜか、脳に霞がかかったように夏子の印象が薄れ、完全に人型さえ失った。
教師は、自分はそういうところがあるよな、と考えた。
他人に興味がないわけではない。それが間違っているわけではない、けれど、印象のない相手はとことん覚えていない。担任を任されるぐらいになれば生活も今より楽になるんだろうけど、自分にはまだ無理だろう。
うしろでは夏子の担任が親御さんに電話をかけて、電話口で謝っていた。たかだか三か月の指導でなにができるだろう。ただでさえ彼は30人近くの生徒を抱えているというのに。教師はさきほど夏子の担任が謝ってきたときの様子を思い出した。昼食を食べようとしていたのを遮って、うちの川瀬が申し訳ありませんと言ったのだった。
教師は印刷したプリントの箱持って理科室へ向かった。