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THEM-正体不明-  作者: 柏木祥子
1/11

パラライザー”麻痺” 1

 一章執筆済み。全何話になるかわかりませんが読んでくださると嬉しいです。

1 

 夏子は自分がはじめて人を殴ったのは、八つの頃だったと記憶していた。確か金魚鉢が関係していたのだが、どちらが勝ったのかは憶えていない。誰と殴り合いをしたのかも。そしてそれは、間違いである。殴り合いというのも違うし、夏子はもっとずっと前から誰かを殴っていたのだが、それも忘れている。

 川瀬夏子にはその才覚があった。夏子の暴力は他の、なんらかの行動や言動に起因するものではなく、はじめに情動ありき、そしてその次に、行動や言動があった。夏子の暴力は純粋な暴力だった。だからこそ強力で、そして無比なのであった。


「どういうこと?」


「どういうことだろうね。どう思う?」


 これはまったく関係がない、ただの無駄話。

 他愛のない教師とこまっしゃくれた生徒の会話。

 夏だった。彼らは教室棟の隅にある理科室に集まって実験をやっていた。

 教師のほうは、ただリトマス試験紙にアルカリを垂らしただけである。科目に理科があって、何年か前に事故が起きていないのならどこででもやるであろう簡単な実験である。それだけにこの反応がうっとうしくて仕方ない。どうして? という疑問は、教師からしてみれば簡単な問いであるけれども、リトマス試験紙に含まれている色素の分子がアルカリに反応するからだと説明しても、この生徒がわかるかは疑問だったし、そもそも正しい答えなど初めから求められていないということを、教師は知っていた。この子はこちらを困らせたいだけで、なにかこちらがすべき解説をしたとしても、それはなに、だとかそれだとどうしてそうなるの、だとかそういうことを被せて質問してくるに決まっていて、ひねくれた考えだとは教師自身が自覚していることだが、一方でそう思わせるそちらが悪いのだと内心で居直ってもいた。


「どう思う?」と訊かれた生徒は、少しも考えるそぶりを見せず、わかりません、と言った。教師はリトマス試験紙に含まれている色素の分子がアルカリに反応するからだと言ったが、生徒のほうはまた色素ってなに? と返した。

 教師にはわからなかった。それが本当に自分を持っているつもりでいるのかと。その答えが本当に稀有で優遇されるべきものだと考えられているものなのだろうか。こっちにしてみればうんざりするほどチープで代わり映えのしない答えなのだ。

「そうなるからそうなるんだよ」と教師は言った。「科学ではね、それはそう、と決まってるんだよ。アルカリをリトマス試験紙に垂らすと赤くなるの。わかった? これ、試験に出るからね」

 教師はそういって質問をばっさり打ち切った。そういった効果を期待してのことではないが、理科室の机に向き直ってノートに鉛筆を走らせる音が増えた。中学一年生なんてこんなもんよね、と教師は考えた。教師はもう少し上の学年の生徒を見たい、と思った。

――やっぱりちょっと幼すぎるわ。中学生って。

 そんななか、一人の生徒がノートの一枚をわしづかみにして投げ捨てた。力強く投げられたノートの切れ端は、放物線を描いて落ちたあと理科室の床に転がり、しかし込められたイメージに比べると、滑稽なほど軽かった。教師は驚いた。否、驚いたのは教師だけではなかった。同じ机にいた生徒がみんな少し彼女から離れ、不安そうな顔で教師のほうを見た。それも無理はない。なにしろ彼女はノートの切れ端を投げ捨てた、とは言うけれど、それは後ろにぽいと投げたというではなく、投擲と言ってもいいほどの勢いと攻撃性を孕んでいたのだから。


「なにを……」


 それをしたのは日に焼けたような褐色の肌を持ち、同年代の子と比べ、高い背の目立つ少女だった。顔立ちはやや彫りが深く、頬骨が奇麗なカーブを描いていた。黒目がやや大きく、顔貌の大人びた風と合わせて全体としてどこか異国の血を思わせた。しかしなにより頬の下から耳元までうっすらと伸びる傷跡が目についた。


――この子は……。


 教師はひときわ目立つこの少女の名前を思い出そうとした。それは以前、このクラスの授業をまかせられることになったとき、問題児として挙げられた少女の名前だった。


「川瀬、夏子さん」


 教師はその生徒に歩み寄り、声をかけた。声をかけるまでに彼女は、ノートを両手で乱暴に掴み、びりびりに破いて表の型紙をごとへし折っていた。周りにいた生徒は完全に怯えきり、隣に座っていた生徒などは席から立ち上がってのけ反り、教師に強くぶつかってきたので、教師は優しく押しのけて「大丈夫だから」と言った。


「ちょっと。川瀬さん」


 教師に声をかけられても夏子はノートをいたぶるのをやめなかった。夏子は顔を歪め、歯をむき出しにしてノートを机に叩きつけた。全身全霊の怒りを込めていた。教師は今までにこうも苛烈に怒りを表現する人間を見たことがなかった。そうしたおかげで夏子は、ド派手なコーダを奏で終えた奏者のように、すっと落ち着いた顔に戻り、教師のほうを向いた。


 教師は瞳を捉えられ、思わずどきりとした。それは深い海のようだった。そのまま見ていれば深海まで引きづり込まれてしまいそうな。夏子はなにも言わなかった。なにも言わず、肩で息をし、ノートの破片を集めはじめた。教師はその姿を見送った。彼女が立ち上がると椅子ががたがたと動く音が響き、彼女が近づけば息をのむ音がどこかから聞こえた。


 夏子は周りのすべての破片を集め終わると、それをゴミ箱に捨てた。外からばたばたと走る音が聞こえてきた。夏子はゴミ箱を持ち上げた。驚いた様子の教頭が理科室に飛び込んでくるのと入れ替えに夏子は音もなく教室から姿を消した。


「いったい何事ですか? すごい音がした」


「いえ、なんでもないんです」教師は反射的にそう返した。「ただ、生徒の一人がなにか……騒ぎだしてしまって」


「はあ。そうか……そうですか。それでその生徒は?」


「外にでていってしまいました」


 教師はしまったと思った。それを言えば教頭が怒りを覚えることはわかっていたのに、ついそう返してしまった。案の定教頭はそれが教員の態度かと教師を叱りつけ、あなたには教師としての自覚が足りないと言い放つと、しかるべき時に然るべき場を設けて話をさせてもらうと会話を締め、恐らくは川瀬夏子を探しに出ていった。「……」同級生の発狂と教師が叱られるという事態と、二つの出来事のせいで、理科室には微妙な空気がただよっていた。教師は最悪の気分だった。


 けれども教師はそうした雰囲気にはあてられたままでいるわけにはいかなかった。さすがに授業の続きをはじめるその瞬間は、言葉を詰まらせてしまったが、それは教師本人の感覚というよりは、そうせざるを得ない、物事を自然な方へ動かす超自然的ななにかによるもので、授業時間の残りを静かに、気まずい雰囲気のまま終えた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 独創性をすごく感じました。 とても続きが気になります。
2021/02/23 14:53 退会済み
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