夫の実家に長男を1ヶ月預けたらヤバくなって戻ってきました
次男出産後、私たち夫婦は二歳半の長男ヒロを一ヶ月だけ夫の実家に預けることになった。
まだ首の座らない次男を専用の抱っこ紐で抱え、外で一日中遊びたがる長男に付き合い公園をはしごしている内に、腰をやられたのだ。加えて夫に一ヶ月の出張が入った。
私の実家は飛行機の距離だ。そこで、車で二時間の夫の実家に長男を預けることになった。寂しく心配ではあるが、息子は祖父母に対して人見知りもしないし、共倒れになるよりは良いだろうと、思い切って彼らに甘えることにした。
夫の実家から帰ってきた長男は激変していた。まるで別人28号みたいだった。
まず一人称が「おい」になり、ずぶずぶの方言を話すようになっていた。以前は「ヒロくん、おかち(お菓子)たべたい」などと可愛らしく喋っていたのに、「おいはすずカステラばたべたかっさ(私は鈴カステラを食べたいのです)」などと舅の滑舌の悪さまでを完コピしていた。
味覚も変化していた。茶色い料理を好むようになり、おやつには乾パンや丸ぼうろや寒天ゼリーや黒棒を要求。「アン◯ンマンせんべいちゅうとは、いがのくいもんばい(アンパ◯マンせんべいなんていうものは赤子の食べ物です)」と彼は言った。そして「おいはやさしかけん、いがにゆずってやっばい(私は優しいので赤子に譲ってあげます)」と次男に無理やりアンパン◯ンせんべいを食べさせようとした。次男、九死に一生。
次男が泣くので慌ただしくうどんを作って長男に出すと、「こいだけ? しょくじのきほんは、いちじゅうさんさいばい(これだけですか? 食事の基本は一汁三菜です)」と生意気な口を聞いたりもした。
朝は長男の読経の声で目が覚める。見ると布団の上にちょこんと正座し、目をつぶり手を合わせている。熱心な浄土真宗の門徒である姑は、毎朝欠かさず仏壇に向かってお念仏を唱えるのだ。
そして、フラダンスを完全に習得していた。姑が月に三回通っているフラダンス教室にわざわざ連れて行っていたらしい。他のメンバーはさぞかし迷惑であっただろう。長男は公園でもスーパーでも突然真顔で腰をふりふりそれを踊り出し、通りかかった町内会会長をして「背景に椰子の木が見えるようだ……!」と言わしめた。
舅の真似なのか、牛乳を飲んだ後に「カァーーーッッッ! うまかぁっっっ!」とグラスをテーブルに叩きつけたりもした。グラスは粉微塵に粉砕した。
これも舅の真似だろうが、くしゃみの後に「ヘッキシュッ……クググクァァァッ」と活字にすると良く伝わらない音を発するのだ。
極め付けは、不快害虫の処理である。名前を言ってはならない例の虫が出現した際、詳しくは書かないが、非常に無駄のないスピード感あふれる動きにてそれを処理し、ただ悲鳴を上げ逃げ惑う私を見て彼は「そがんあせがってなんばしよるとね、よかおとなのほんなこっみたんなかね(そんなに慌てて何をしているのですか、良い大人が本当にみっともないですね)」と、やれやれという風にため息すらついた。姑の家では頻繁にそれが出没することを、私は思い出した。
長男と次男が奇跡的に同時に昼寝をした時、私は実家の母に長電話をした。そして溜まっていた全てを彼女に吐き出した。次男がむずがりだすまで、一時間以上に渡って私は愚痴を吐き続けた。
ひと月もやんちゃ盛りの息子を預かってくれたことに感謝こそすれ、文句を言うべきではないと頭では分かっていた。しかし睡眠不足で朦朧とした頭は完全にネガティヴな思考に陥っていた。
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娘からの電話が慌ただしく切れた後、ヒロの母方の祖母は深いため息をついた。
娘が愚痴っぽくなったのはあの時以来だ。娘が三歳になりたての頃、胃を悪くし入院したため、娘を姑に三週間預けたことがある。
少し前に亡くなった姑は、常に何かを愚痴っている人だった。近所の人が挨拶してくれないだの、隣の家に雑草が生い茂って蚊が増えて困るだの、舅の身体がとにかく臭うだの、舅の風呂の後はヘドロみたいなのが大量に浮いているだの、舅のトイレの後はヘドロみたいな臭いがするだの、舅がもはやヘドロにしか見えなくなっただの、彼女は息を吐くように愚痴を吐いた。
帰ってきた娘は姑そっくりの口調で愚痴るようになっていて、口のすぼめ方まで完コピしていた。
「ミサキちゃんたちと ままごとしても つまんない いぬのやくばっかり させられるんだもん」「あのこうえんの かんりのしかたは なってない。ねこのうんこが すなばにあったもん。ちょうないかいの たいまんね」
乳幼児期の子どもの柔らかいスポンジみたいな脳は、良い事も悪い事も何でも吸収するのだ。
三つ子の魂百まで。母方の祖母は呟いた。
こんなのを読んでくださりありがとうございました。