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年を取るにつれ、小学生を見るたびに楽しそうだなあとかもう一度あの頃に戻って何にも追われずにただひたすらに遊びたいなあ等と考えるようになる。しかしながら、小学生というのは傍から見る分には気楽そうでよろしいが、よくよく思い出してみるとあの時こそ最も権力闘争にまみれた時代だったのではないだろうか。少なくとも私はそうであった。
保育所に居た頃から知っていたことだが、どうにもこの世には強い奴が居るらしい。なんとなく自分は彼に対してへりくだってなければならなかった。彼はおよそ腕力が強かった。保育所では彼こそが王様だったのだ。気に入らない奴はねじ伏せて従わせる。まるで中世か或いはそれ以前の、まるで馬鹿馬鹿しい社会規範は幼少期に於いては許されるのだ。我々はしぶしぶ従うほかなかったのだ。そんな日々を嫌々過ごし、保育所を卒業してから3年経った。田舎に住んでいたためか保育所と小学校では面子が大して変わっていなかった。ということは、最初の内は彼は保育所に居た時と違わず、その権力を思いのままに振るうことが叶っていたのである。だが、幼少期の数年とは遥かに大きい。人を従わせるにはまだかなり腕力のウェイトは大きかったが、それだけでは最早維持できない状況にあった。
では何が必要になったのか。当然知恵である。保育所の内はせいぜい「先生に見つからぬようにいじめる」といった程度でしか使わなかった知恵も、この時に至っては謀略をめぐらすことに使うに限った。例えばこうである。自分が誰かを率先していじめる。この時いじめる相手はグルでも違ってもいい。ただいじめる。重要なのは陥れる相手に見つかるようにいじめることである。すると相手が腕力家で威張り散らしているような奴ほどいじめに加わる。仮に腕力家でなくともある程度の権力者なら十中八九加わる。なぜならこの時代、ノーリスクで相手をいじめられるときは誰でもほぼいじめるからだ。倫理観に乏しく、忖度ができないならばまあ仕方があるまい。では十中の一二はどんな場合かと言うと、最近似たようなことをやって咎められた場合、若しくは自分がいじめてる相手が彼の近しい人物である場合。前者はまあ仕方ない。問題は後者で、これをやると大打撃である。小学生の内は見境が無いものだから大親友でよほどベタベタしてない限り影響下に無いと考える。なので、「てめえ俺の友達になにやってんだ」と言われて初めて気づくなどといったことが起こる。すると陥れるべき人間は、いじめから友達を救ったとして大いに株を上げ、自分はその場でくじかれるどころか最悪の場合は先生にチクられ、権力を落とすこととなり得る。だからいじめる人間のチョイスはしっかりしなければならないのだ。さて、相手がいじめに加担したらしめたものである。その後は自分はフェードアウトし、先生に対象がいじめをしているとチクる。上手くいけば現行犯で怒られる。この際、いじめていた子から「自分」も最初はいじめていたなどと告げ口されるかもしれない。この時の対処法として、「自分はいじめておらず、じゃれていたつもりだった。対象が入ってきてエスカレートしたため、急いで先生のもとに行ったのだ、傷つけていたならごめん」等と言うと、あくまで自分はいじめていた子の身を案じている、且つ真摯的な態度であることをアピールしてお咎めが無いことが多い。面倒ならば最初からグルの子を使うといい。自分の悪事はもれず、もし対象が「こいつも最初いじめていた」等と言ったときには見苦しさ抜群でより大きな先生の雷が落ちるだろう。
私もよく、こういった謀略を王様に仕掛けた。何度も失敗したが二、三回はまんまと嵌り、先生に怒号を飛ばされていた。こんなことが意味あるのかと聞かれれば、おそらくあるだろうと答える。これは対象と周りとに幾分かの影響があるのだ。取り巻きに対しては、若干距離を置かせることが出来る。怒られることによって対象が先生に目をつけられたと感じ、巻き添えを食らわない様に数日間彼を避けるのだ。対象に対しては、咎められることで大きな行動が取りづらくなる。大々的にいじめたり従わせたりを心理的にしにくくさせるのだ。そして、最も大きい影響だと思われるのが、やはり怒号を飛ばさせることによって対象の心をくじくことである。小さい内は怒鳴られると萎縮し、泣き出してしまうのが殆どである。男の先生ともなれば尚更である。脅かされて怖いのに加え、皆の前で泣くという辱めを受けさせることで精神的なダメージを負わせることが出来る。大抵の場合は。
我らが王は強かった。この程度ではくじけなかったのだ。そして何より彼は頭が良かった。彼はジャイアンとスネ夫が融合した様な男だったのだ。実際、腕力だけでガキ大将を張れる奴は少ない。いくらかのカリスマ性と知恵がなければならないのだ。当然、彼は私が謀をしくじる度に先生に告げ口し、私を攻撃した。しかしながら、彼は嫌な奴だったし、先生にもどうやらそれは伝わっていたようで、私と彼に平等に非があり、それの仲裁に先生が来た時、裁定の内容に露骨に反映することはなかったが、態度的には私に味方していたような気がした。つまるところ先生を「使った」攻防は私にややの利があったのだ。