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序幕 一

「こいつですよね」

「そうだな。見覚えのない顔だ」

「何も知らずに寝てますよ。こっちは苦労して探しに来てやったのに」

「そう言うな。最初はみんな同じだ」

「前回喰われた奴はいなかったって聞いてたんですけど」

「俺もだ」

「じゃあ、その、こいつ、感染したってことですか」

「さあな、そのうち分かるだろ」

「それはそうですけど」

「それより俺が気になるのは、こいつが生き残れるかってことだよ」

「そういえば大崎さんが見つけた奴って」

「皆、初日に喰われてる」

「酷いですね」

「俺の運が悪いのか、それとも喰われた奴の運が悪かったのか」

「何人くらい喰われてるんですか」

「十七」

「こいつ、大崎さんに見つけてもらいたくなかったでしょうね」

「生き残れば文句くらい聞くさ」

「生き残れたら、ですね」

「ああ、生き残れたらだ」

 因幡瑛は、微睡みの中で何者かの会話をぼんやりと耳に入れていた。

 師走に似合わぬ蒸し暑さが不快だ。全身がじっとりとした汗に塗れている。

 心身を冒している睡魔は色濃く、指一本動かす気力すら湧かない。

 今は、ただ、ふたりの発する音を聞き流すことしかできなかった。

 ふいに遠くの方で唸り声のような音が上がった。

 会話が途切れる。

 辺りの空気が緊張感を帯びた。

 それから、一分弱。

 辺りを窺うような沈黙が降りた。

「今のあれ」

「分かってる」

「鬼です。鬼が来ます」

「少し落ち着け」

「どうしますか」

 一拍。逡巡の間が生じる。

「行くぞ」

「こいつは」

 鈍痛。

 息が詰まるそれに襲われた瑛は、転がって呻き声を漏らした。

 脇腹を蹴られた。苦痛を噛みながらそれを確信する。

 しかし未だ心身の歯車は噛み合わず、瞼すら持ち上がらない。

「覚醒するまでまだ時間がかかる」

「見捨てるんですか」

「仕方ない」

「でも」

「お前、喰われたいのか」

 その言葉には、有無を言わせぬほどの圧力があった。

 ふたりの気配はゆっくりと遠退き、そして消えた。

 じわりと静寂の音が広がる。

 それからかなりの時間をかけて、瑛の意識は収束を開始した。

 鉛のように重い上半身を起こしつつ瞼を開く。

 暗い。周囲は闇の帳で覆われており、視覚は利かないに等しい。

 手探りで何かを探すが、指先が空を漂っただけだった。

 何気なく上方に目を向ける。かなり高い位置に脆い光があった。

 ここは何処なのだろう。その疑問が背筋を掠めた。

 眠りに落ちる直前まで大学で講義を受けていたのははっきりと覚えている。しかし人の気配が感じられず、物音ひとつ聞こえないこの場所がそことは思えない。

 誘拐。唐突に浮かび上がったその可能性に、思わず身震いをする。

 馬鹿らしい。誘拐される者といえば、若い女や子供、そして金持ちのいずれかというのが相場と決まっている。どれにも当てはまらない自分が被害に遭うはずがない。

 兎にも角にも落ち着こうと、何度も大きく深呼吸をする。

 何をどうすればいいのか。それが判然としないから動くのを躊躇ってしまう。

 途方に暮れていると、遠くで悲鳴が上がった。

 一瞬で心身が硬直する。

 悲鳴は男のものだ。恐怖と絶望が入り交じっているように感じた。

 きっと空耳に違いない。その言い訳は虚しく空回りしただけだった。

 嫌な予感が背筋を這いずっている。それは無視できぬ程はっきりしたものだ。

 凶兆。

 勘が鈍い瑛だが、今日に限ってはその確信があった。

 無意識の内に息を潜め、耳を澄ませる。

 不穏な物音は聞こえない。

 じっとしている様に耐えきれなくなり、自らを叱咤して立ち上がった。

 視覚が利かないため、慎重な足取りで水を掻き分けるようにして進む。

 亀のような鈍さで一分ほど歩くと、突き出していた掌に硬い感触を得た。

 壁だ。

 ここまで距離にして百メートルもないはずなのに、息が上がってしまっていた。

 暑い。額や首元を濡らす汗を袖で拭いながら、改めてそう思う。

 エアコンによるものとは質が違うように感じる。まるで梅雨時のようだ。

 おかしくなっているのは環境か、それとも自分なのか。

 答えの出ぬ問いを溜息で抑え、左手で壁を伝いながら歩む。

 ふと、風に流れを感じた。

 微かに雨音が聞こえる。

 指先が壁とは違う感触を探り当てた。

 ドアだ。半開きになっている。先ほどのふたりはここから出たのだろうか。

 腕をドアの隙間から出すと、雨粒が掌を濡らした。

 落ち着け。浅くなる一方の呼吸を整えながら、辺りを窺う。

 不審な気配は感じられない。いきなり襲われるような様子もない。

 逡巡したのはほんの数秒。

 力の入らない腕でドアを押し開く。

 鉄が拉ぐような音が響いた。

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