来る女の怪 【上】
俺には毎朝変わった運試しがある。
運試し、というより、テレビで放送されているような本日の運勢占いのようなものかもしれない。
とにかく、朝カーテンを開けて【それ】が居たら何か厄介ごとが起こる、居なければ平和な一日になる、というマサ曰く『テレビの占いよりあてにならない』ジンクスだ。
俺の家は一軒家。自室は二階。窓の外は人どころか猫すら立てる場所がない。そこに居ることがあるのだ、あれは。
今日も今日とて朝は来る。マサは気楽なものだ。パジャマのままカーテンに手をかけて渋い顔をしている俺を、外に居るものが楽しみです!と言わんばかりの表情で眺めている。
イマジナリーフレンドが物理干渉できるなら代わってもらいたい、と思いつつ。
俺はカーテンを開けた。
窓の外で、鼻眼鏡をかけた細身のおっさんが踊っていた。
『今度はっ、前々回と違う鼻眼鏡ぇ!いつも思うけどぉっ、げほっ、あのおっさんの踊り、なめらか過ぎて腹筋、やば、いっ!』
マサうるさい。
歯を磨く俺の後ろで腹筋崩壊しかかっているマサを鏡越しに睨みつつ、俺は声に出さず言った。誰もいない時は声を出して話しもするが、マサは俺のイマジナリーフレンド。俺の考えたこと、思ったことはそのままマサに伝わるので、本当は声に出す必要がない。
保持者とイマジナリーフレンドは同じ脳を使っているようなものだ。隠し事もできないが、そもそもマサ相手に隠すべきことなんて無い。正真正銘、百パーセント信用できる存在。成長してからのイマジナリーフレンドとはそういうものだ。
……今は鬱陶しいけど。
口をゆすいで歯ブラシを洗う。マサは腹筋を擦っていた。こいつ実際には肉体ないのに、なんで笑いすぎで腹痛くなるんだろう……。
ドタバタと廊下を小走りで急ぐ音がした。母さんだ。
「政幸ちゃん!ママはもう家でるけど、朝ご飯は出来てるから!洗い物だけお願いね!」
「うん、了解ー。……まだ遅刻になるような時間じゃないよね?」
「そうなのよぉ、いつもなら余裕の時間よぉ。部下の子がミスしちゃって、取引先に謝りに行かないとなんだけど、ちょーっと移動時間が厳しそうなのよね!」
なるほど。社会人は大変というか、面倒そうだ。
事故しないようになーと声をかければ、「勿論よ!今日も愛してるわ政幸ちゃん!」とテンション高く返された。あの調子なら大丈夫な気がしてきた。
むしろ大丈夫じゃないのは俺の方か、とダイニングテーブルに並べられた朝食を確認しつつ思う。あのおっさんが外にいた日は、大抵何か面倒ごとや普段以上に変なものを視る。
母さんの車が出ていく様子を横目で見つつ、朝食に箸をつけた。なんか、上の階から……兄ちゃんの部屋からしつこく目覚ましの音が聞こえ続ける気がするが、基本的に無視だ。ほっといても這い出して来るだろ。
視るだけならいいけど、巻き込まれたくはないなぁ……としみじみ思いながら箸を進める、天気の良い朝だった。
結論から言うと、俺は巻き込まれた。
学校に行くまでは良かったんだ。
駅のホームで電車の前へ繰り返し飛び出す黒い人影だとか、車両内の網棚に髪の長い女が寝そべっているとか、横断歩道を渡ろうとしたらいつの間にか隣におばあさんがいて、渡りきったら消えていたとか。そんなことは日常茶飯事。
気にするほどのことじゃない。気にしていたら精神病院行きだ。
事が起きたのは昼休み、いつも一緒に昼食をとる友人の顔色が悪くて心配したのが始まりだ。
素直に白状すると、俺は友達が少ない方だ。中学、高校と部活に入っていないし、広く浅くの付き合い方は苦手だし。だからといって狭く深くの付き合い方でもない。
小さい頃、幽霊らしきものが視えるこの体質のせいで対人関係に苦労したせいだ。自分の深いところに踏み入られるのは嫌だし、それを許容できるのはマサにだけ。
兄ちゃんや両親を信用していないわけじゃないけど、マサは別格と言うか。そもそもイマジナリーフレンドのマサは俺の一部であり、俺自身でもあるわけだから。
……話が逸れた。とにかく、そいつは俺の数少ない貴重な友人。普段なら弁当だけじゃ足りないからと購買でパンを買ってくるそいつが、弁当すら進まない状況。心配にならない奴は冷徹だと思う。
「どうした青葉?体調悪いのか?」
「あー……。いや、風邪とかじゃないから。……でもちょっと、なんかな……」
風邪じゃないと言い切った友人・青葉は、何か言いたそうに、けれど躊躇うような素振りをみせた。
何か悩みごとなのか、もし良かったら相談に乗るけどと控えめに訊けば、青葉は周りをきょろきょろと見回してから俺に向き直った。
「なぁ、宮本。お前霊感あるんだよな?」
「……なに、そんなの信じてんの、お前?」
『政幸、警戒しすぎ。青葉は否定的な言い方はしてないぞ。焦るな、落ち着け』
よほど俺の物言いに棘があったのか、マサがすぐさま口を挟んできた。うん、図星だ。青葉には霊感の件を明かしていないのにストレートが飛んできて、かなり焦った。
目の前の青葉が言葉を飲むようにぐっと引いたのを見て、心を落ち着ける。大丈夫、こいつはちゃんと踏み飛んでいい領域をわきまえている。大丈夫。
「ごめん、青葉。それで、もし俺に霊感があったらどういう話になるの?」
「当然、オカルト方面だよ。俺の家……いや、俺の家族かな。家族がさ、最近変なこと言い出したんだけど、それが今朝になって俺に飛び火したっぽいんだわ」
青葉が語ってくれた内容は、こうだ。
二週間ほど前、青葉は明け方に凄まじい悲鳴で飛び起きた。悲鳴は青葉の母親のもので、慌てて両親の寝室に駆け込むと身体を震わせて泣く母を、父がオロオロしながら宥めていた。青葉母は怖い夢を見た、と言った。
「真っ暗な中で、後ろから女の人の声がしたの。なんて言ってるのか、よく聞き取れなかったけど……。不気味で、怖くなって、声から走って逃げてもずっと声が追いかけてきて。途中で急に声が急に聞こえなくなったから安心して立ち止まって……でも、落ち着いて前を見たら、いたの。離れたところに、びしょ濡れのスーツを着た、女の人が……」
それだけか、と青葉は思ったらしい。女を見た直後に目を覚ましたらしいし、母は怖い話が苦手だから過剰反応したんだろう、と。
ところがその四日後、今度は父がよく似た夢を見た。朝食の席で、顔色の悪い父は語った。
「何故か、父さんは水の中にいたんだ。なんでかは分からない。だけど母さんの夢と同じで、後ろから女の人の声がしてな。何か繰り返し呟くような声だった。どうしてかはわからないけど、振り向いちゃいけない気がして、必死に走ったよ。……うん、泳ぐ、じゃなくて走れたんだ。まぁ、夢だからな。それで、あとは母さんと同じだ。途中で声が聞こえなくなって、前を見たら女の人がいた。少し離れた所に、びしょ濡れのスーツを着た人がな」
やはり青葉には、あまり怖く思えなかったそうだ。怖いものから逃げる夢なんて、よく聞く話。しかし父親の顔色を見ていると、夫婦で同じ夢を見るなんて仲の良い、と茶化すことも出来なかった。それぐらい、青葉の父は真剣な様子だったらしい。
そして三日前の朝、二人いる弟のうち幼い方、小学生の弟がベッドで泣きながら嘔吐していた。
弟も、夢を見たのだ。
夢の中で弟がいた場所は、弟二人の通学路近くにある橋の上だった。両親の夢と同じく後ろから女の声が聞こえて、自宅へ走って逃げる途中で転んでしまった。そして顔をあげた先、たった数歩しか離れていない場所にびしょ濡れのスーツを着た女が立っていた。女はずっと同じ言葉を呟いていたようだが、弟はあまりの恐怖に忘れてしまったらしい。
今度は近所が舞台だなんて、と青葉はさすがに不気味に思った。同時に、何か引っかかるものがあって、弟を宥める両親にこう訊いた。
なぁ、親父たちの時は、女の人とどれくらいの距離があったんだ?
……訊いて良かったのか、訊かなければ良かったのか。青葉はここにきてやっと、この夢に対して恐怖を抱いた。
女と夢の主の距離は、だんだんと近づいて来ていたのだ。母が一番遠く、小学生の弟が一番近くに。
その上、おそらく夢の舞台は青葉家の自宅に近付いてきている。父のいた“水の中”は弟の“通学路近くの橋”が架かる川。母の“暗闇の中”はわからないが、もしかしたらあの世だったのかもしれない、と。
そして今朝、青葉は、夢を見た。