ガチャ羽の蝶
「ガチャ羽の蝶」
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□登場人物
那須 愛美(28) 食品会社OL。
木之元 詩織(27) 愛美の友人。スーパーマーケット勤務。
高坂 杏奈(28) 愛美の友人。詩織のルームシェア相手。
藤川 拓海(39) 愛美の不倫相手。食品会社営業部部長。
藤川 優衣(14) 拓海の娘。
那須 冴子(55) 愛美の母。
井上 陽太(25) 詩織の恋人。
広沢 千鶴(24) 拓海のもう1人の不倫相手。
女性客A
女性客B
男性客A
男性客B
女子A
女子B
ウェイター
店員
男性アルバイト
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○㈱オシラ食品・オフィスビル・外観
オフィスビル。エントランス前には、社名が記された看板が掲げられている。
○㈱オシラ食品・オフィス
仕事に励む社員達。那須 愛美(28)、並ぶ机の間を歩く。
窓際の席で書類に目を通す藤川 拓海(39)。その左手には結婚指輪。机上の写真立てには
妻らしき女性と藤川 優衣(14)の写真。
愛美、机の前に立ち、俯きながら、
愛美「藤川部長、私、妊娠しました」
自席から振り向く広沢 千鶴(24)。愛美、一層声を強めて、
愛美「お腹に赤ちゃんがいるんです。貴方の子供が」
拓海、書類から顔をあげずに、
拓海「須賀君、昨日の会議の議事録、午前中にはできあがる筈じゃなかったかな?」
愛美「責任取ってくれるって、言ったじゃないですか」
拓海「責任、責任ね。最近、勤怠も良くないよね。駄目だよ、仕事は責任持って取組んでくれないと。
さ、席に戻りなさい」
黙り込む愛美。
千鶴、声をあげて笑い出す。
○詩織のマンション・外観・夕方
夕日に照らされるマンション。
○詩織のマンション・詩織の自室・夕方
室内には布団が2つ並べて敷かれている。四方の壁には麻紐が何段も張り巡らされ、瑞々しい
葉が入ったビニール袋が洗濯ばさみで幾つも吊り下げられている。布団の上に下着姿で眠る木
之元 詩織(27)と井上 陽太(25)。
差し込む夕日が詩織の顔にかかり、その上をアサギマダラの芋虫が一匹這い回
っている。芋虫は詩織の口の中に入り込み、詩織は口を閉じてうつ伏せに寝返
りを打つ。
詩織、小さく呻きながら、
詩織「胸節と腹節に突起。黒と黄色と白が混ざり合った味。たぶん斑模様、だからアサギマダラ」
仰向けに寝返りを打つ詩織、ゆっくりと口を開ける。
口の中から出てくる芋虫を、唇を合わせて捕まえる詩織。
詩織、静かに起き上がり、床に落ちたビニール袋を拾い上げる。
井上が起き上がり、振り返る詩織。
詩織「(芋虫を咥えたまま)おはよう」
井上「今日はもう絶対、キスしないからな」
詩織、井上を睨み付ける。
詩織「言っとくけど、この子のがアンタなんかよりも、ずっと綺麗で清潔なんだから」
井上「悪かったよ。おっかねぇな、もう」
井上、ブランケットを頭から被り、二度寝。
詩織、芋虫をビニール袋に入れると、洗濯ばさみで麻紐にぶら下げる。
ビニール袋には、『アサギマダラ』の名札。
インターホンからチャイムの音。ドアの方を一瞥する詩織。
○詩織のマンション・リビング・夕方
チャイムが鳴る中、自室から出てくる下着姿の詩織。
反対のドアが開き、高坂 杏奈(28)が顔を覗かせる。
杏奈「もう、終わった?」
詩織「玄関、私が出るからいいよ」
杏奈「詩織、その格好じゃ駄目だって」
杏奈、一旦部屋に引っ込むと、大きめのTシャツを詩織に向かって投げ渡す。
詩織「もー、杏奈ちゃん、愛してるー」
杏奈「待って。まだシャワー浴びてないよね? もしかして、今までその指で芋虫弄ってた?」
詩織「ごめん、後でちゃんと洗って返すね」
詩織、ぶかぶかのTシャツを着て下着を隠し、溜息交じりに玄関に向かう。
○詩織のマンション・玄関(中)
鍵が開く音、外側から勢い良く開かれるドア。
仰天する詩織の前に、大荷物を抱えた愛美が滑り込んでくる。
愛美「ハロー、暫くここに置いてくれない?」
詩織「愛美? 何なの急に、どうしたの?」
愛美「仕事辞めてアパートも解約したから、行く所が無いの。お邪魔しまーす」
詩織を押し退けてあがり込む愛美。詩織、愛美の肩を掴んで。
詩織「いきなり来られても、困るってば!」
愛美「そういえば、久しぶりだね。元気してた? こっちでやりたい事があってさ、富山に帰る訳にはい
かないんだよね」
愛美、構わず中に進んでいく。
詩織、信じられないという顔。
○詩織のマンション・ダイニングキッチン
カラッポの冷蔵庫。
それを覗く杏奈、忌々しげに溜息。
詩織、リビングから入ってくる。
詩織「何も無いよね? 晩御飯、どうしよ」
杏奈「ねぇ、本当に泊めるつもり?」
詩織「一応、話だけは聞いてみようかと」
杏奈「だって、那須 愛美だよ? ろくでもない事になるに決まってるじゃない。いつの間にか、この部
屋乗っ取られたりとか」
詩織「それは、幾らなんでも」
杏奈「兎に角、泊めるのは今夜だけ。明日の朝には出て行って貰う。いいよね?」
詩織「触らぬ神に祟り無し、みたいな?」
杏奈「君子危うきに近寄らず、みたいな?」
笑い合う詩織と杏奈。
○詩織のマンション・詩織の自室・夕方
ドアから室内を覗き込む詩織と、服に着た井上。
愛美「これ、全部チョウチョの幼虫なの? うわぁ……」
井上「いえ、もっと悪いです」
愛美「まさか、蛾も? 芋虫地獄だなぁ」
井上「気持ち悪いっしょ? いまだに、これだけは慣れないんですよね」
愛美「まるで変態じゃん。……もしかして、変態なの?」
井上「それはノーコメントで」
詩織、リビングから話しかける。
詩織「晩御飯、外食でいい? 今、杏奈が車を出してくれてるから。……何?」
愛美「いい歳して虫愛づる姫君気取りの女って、イタいなって。(井上に)ね?」
詩織、勢い良くドアを叩き閉める。
○ファミリーレストラン・外観(夜)
ライトアップされたレストラン。
○ファミリーレストラン・夜(中)
料理の並ぶテーブルを囲む愛美、詩織、杏奈、井上。
愛美、食べ物を咀嚼しながら、井上をフォークで指す。
愛美「確か、山田君だったよね? 前に会ったから覚えてるよ」
井上「いや、井上です。それに会ったのは、今日が始めてっていうか……」
愛美、フォークを杏奈の方に向けて、
愛美「ていうか、アンタ誰? なんで詩織ちゃんとルームシェアしてんの?」
杏奈「高坂 杏奈です! 同じゼミだったのに、覚えてないの?」
愛美「馬鹿言わないでよ、そんなねぇ?」
コップに注がれたビールを飲もうとす
る愛美。詩織、慌ててそれを制止する。
詩織「ちょっと、お腹の赤ちゃんに毒!」
愛美「えー? じゃあ、はんぶんこ、しよ」
愛美、詩織の唇にコップのビールを注ぎ込む。
杏奈、それを制止して、
杏奈「本当に産むつもりなの? 不倫した上司の子供なんて」
愛美「羨ましい?」
杏奈「それで仕事無くすとか、馬鹿みたい」
愛美「生産性の無い女め」
杏奈「何それ、喧嘩売ってるの?」
井上「ま、ま! でも酷い男だよな。奥さんも子供もいたのに、部下の女の子に手ェ出して、都合が悪くなったらポイだなんて。最低だよ」
愛美、コップに残ったビールを井上にぶっかける。
愛美「何それ、喧嘩売ってるの?」
井上「……なんで?」
詩織「不倫相手に、まだ未練があるの?」
愛美のスマートフォンから着信音。
電話に出る愛美。
愛美「……私だけど。まだ帰るつもりは無いってば。こっちでやりたい事があるの。住む所もお金も心配
ないって。友達がね、好きなだけ部屋に居ていいって」
顔を見合わせる詩織と杏奈。
愛美、電話を切る。
詩織「今の、ご実家から?」
杏奈「友達って、私達の事?」
テーブルに近付いてくるウェイター。
ウェイター「お待たせ致しました」
愛美「すみません、ビールおかわり」
愛美、笑顔で空のコップを差し出す。
○詩織のマンション・外観(朝)
朝日に照らされるマンション。
○詩織のマンション・詩織の自室(朝)
寝起きの詩織、壁に近付いてビニール袋の列を覗き込む。
ビニール袋の中、アサギマダラの芋虫が葉をもりもり食べている。
○詩織のマンション・リビング(朝)
詩織、自室から入ってくる。
愛美は窓際に置いた作業テーブルに向かい、作業に没頭している。
テーブルの上には、電気炉、銅板、銀線、ピンセット、はさみ、砥石、そして高温釉薬など七
宝製作の道具が乱雑に置かれている。
愛美、振り返りもせずに、
愛美「おはよう」
詩織「おはよう。何してるの?」
愛美「七宝焼きのブローチを作ってるの。金属の土台にガラス質の釉薬をのせて焼き付けてね」
銅板に高温釉薬を詰め込む愛美。
詩織、隣に座り、それを覗き込む。
愛美「国際七宝ジュエリーコンテストてのがあってね、その最優秀賞を狙ってる訳」
詩織「これがやりたい事なの?」
愛美「最優秀賞さえ受賞できれば、あの人はもう一度、私に振り向いてくれるから。それまで尻尾巻いて逃げ出すなんて、できない訳よ」
詩織「あの人って、不倫してた上司の事?」
電気炉のタイマー音が鳴る。
愛美、電気炉からブローチを取り出して立ち上がる。
○詩織のマンション・ダイニングキッチン
愛美、水道から流れる水にブローチをつけ、砥石で表面を研いでいる。
横から覗き込む詩織。
詩織「悔しくないの? 弄ばれて捨てられて。それにコンテストで表彰されたからって、彼の気持ちを取
り戻せる保証があるなんて思えないけど」
愛美、ブローチを詩織に見せる。
愛美「どうかな?」
黒と黄色と白に煌くブローチ。
詩織、瞬きもせずにブローチを見つめ、胸を押さえて吐息をつく。
愛美「悪くないでしょ? 光に翳すとね、もっと綺麗に見えるんだ」
詩織「アサギマダラ……」
愛美「なんですと?」
詩織「ううん、いい。凄くいい。綺麗」
愛美「じゃ、詩織ちゃんもやってみよっか! 私が教えてあげるからさ。家賃代わりに」
詩織、怪訝な顔で愛美を見る。
○中規模イベントホール(中)
キルトの赤いテーブルクロスが敷かれた会議テーブル。その上に歪で太い芋虫の根付と、『5
00円』と記された手書値札がある。
様々な出展ブースが立ち並ぶホール。その間の狭い通路を、数珠繋がりで行き交う人々。
ブースの一角に先程の会議テーブル。そこには七宝焼きの数々が並び、愛美
と詩織がぼんやりと売り子をしている。愛美の前にはモザイク模様のアクセサリーの数々、詩
織の前にはあの芋虫の根付が展示されている。ブースの前で立ち止まる人は、1人もいない。
芋虫根付を暗い顔で見下ろす詩織の横で、愛美の営業スマイル。
愛美「どうぞ、手に取って見てくださーい。七宝焼きのアクセサリーでーす! 見ていってくださーい」
男性客Aと女性客Bがブースの前で足
を止めるが、芋虫根付には目もくれず、愛美の七宝焼きを手に取り、他愛も無い感想を交わし
始める。
愛美「金属の板を型抜きして、そこに釉薬というガラスの素を置いて電気炉で焼くんです。釉薬は色毎に
違っていて、板の上に銀線で敷居を作って色分けするんですよ」
愛美の接客を感心そうに見つめる詩織。立ち去る男性客Aと女性客Bを、頭を下げて見送る愛
美。
詩織、腕時計を一瞥する。
詩織「フリーマーケットって言っても、意外と売れないんだね」
愛美「ま、こんなモンでしょ。閉会までまだ2時間あるし。もっと、この雰囲気を楽しもうぜ」
詩織「それは、そうだろうけど」
詩織、スマートフォンのカメラアプリで芋虫根付を撮影する。
愛美「何してるの?」
詩織「ネットやSNSに流せば、少しは宣伝になるかもしれないでしょ」
愛美「あ、それいいね。私もやろうっと」
スマートフォンを取り出す愛美。
藤川 優衣(14)、女子A、女子Bがブースの前に立ち止まる。優衣、愛美を睨みつける
が、愛美は気づかず、
愛美「宜しければ、御手に取ってください」
優衣、雑な手つきで七宝焼きを取り、
優衣「これ、ダサくない? ヒドイよね?」
女子A「小学生の自由研究レベル」
優衣「わかるわかる。幼稚だよね、色とか」
優衣、芋虫根付を汚いものを触るように摘み上げ、嫌悪感丸出しの顔で、
優衣「何コレ、超キモいんだけど!」
女子B「やだ、汚い。 うんこ? 毛虫?」
女子A「下手糞過ぎ」
優衣「ワザの無い人が、無理矢理オリジナリティ出そうとしてる感じ。イタいよね」
悔しそうに俯く詩織。
優衣、女子A、女子B、芋虫根付を乱暴にテーブルに置き、哄笑しながら立ち去る。
愛美、詩織の肩に手をかけ、
愛美「気にすんな。ああいうの、必ず湧いてくるんだよね。これだけ人が集まるとさ」
詩織「当然の反応だって、わかってる。でも、面と向かって言われると、やっぱね……」
人ごみの中を歩く井上、愛美と詩織のブースを見つけて足を速めて近付く。
詩織、井上の姿に気づき、
詩織「やだ、来てくれたの?」
井上「うん、どういうものかなって。(愛美に)どうも、お久しぶりです」
愛美「山田君、おひさ!」
井上「井上です」
○中規模イベントホール(中)
ブースで談笑する愛美、詩織、井上。
優衣、遠くからそれを見つめている。
女子A「優衣、どうかした?」
優衣「ちょっと用事。先に行ってて」
優衣、ブースに向って歩き出す。
○中規模イベントホール(中)
ブースで談笑する愛美、詩織、井上。
井上「それで、どれ位売れたの?」
愛美「まだ」
井上「マダ?」
詩織「ゼロ。1個も売れてないって事」
井上「マジすか?」
愛美「こんなもんだって、こんなもん」
険しい顔の優衣、ブースに近付く。
優衣、芋虫根付を摘み上げ、
優衣「(詩織に)これ、貴女が作ったの?」
詩織「あの、そうだけど?」
優衣の気まずい顔。
優衣「買います」
詩織「はい?」
優衣「これ、下さい。500円ですよね」
優衣、500円玉をテーブルに叩きつけ、芋虫根付を握り締めて走り去る。
詩織「あ、ありがとうございます!」
頭を下げて優衣を見送る詩織。
井上「おぉ、売れたじゃん。おめでとう」
詩織「信じられない。だって、こんな、こんなだよ、私のなんて、こんななのに……」
愛美「詩織ちゃん、おめでとう」
詩織「あ、ありがと」
ハイタッチを交わす愛美と詩織。
○居酒屋(夜)
テーブルを囲み、ジョッキで乾杯する愛美、詩織、井上。
愛美・詩織・井上「かんぱーい」
ジョッキをあおる愛美。
愛美「はー、生き返るぅ」
詩織「はい、お酒はもうおしま~い」
詩織、愛美の手からジョッキを奪い取り、代わりにオレンジジュースのコッ
プを渡す。
愛美「イジメか」
詩織「少しはお腹の子を労わりなさい」
井上「ところで、高坂さんは?」
詩織「今夜は来られないって」
愛美「あの子さ、付き合い悪いよね」
詩織「そんな事ないけど?」
愛美「(井上に)暗いって言うか、愛想悪いって言うか、ねぇ?」
井上、ビールを飲みつつ首を横に振る。
テーブル上の愛美のスマートフォンから着信音。タッチパネルに発信者として表示される、 『母』の文字
愛美、それを一瞥し、通話を切る。
詩織「出なくていいの?」
愛美「もしか、私、あの子に嫌われてる?」
詩織「おい、無視か」
井上「で、結局儲けは500円ぽっち?」
愛美「そう。交通費だけで足が出ちゃってる。さすがにそろそろ金欠かなぁ……」
詩織「……じゃあさ、ウチで働けば?」
呼び出しベルを押す愛美、怪訝な顔で詩織を見つめる。
○スーパーマーケット・レジカウンター
音を鳴らして開くキャッシュレジスタ。
死んだ目でカウンターに立つ愛美、買い物客に無愛想にお釣りを手渡す。
愛美「(小声で)ありがとうございました」
浅く、鈍重に頭を下げる愛美。
○スーパーマーケット・売り場
台車に載った段ボールから、商品棚に商品を補充する詩織。
店員が詩織に近付き、
店員「詩織ちゃん、今大丈夫?」
詩織「ええ、なんでしょう?」
店員「新しいパートの子なんだけど……」
詩織「愛美が、何か?」
店員「接客、向いてないんじゃないかしら」
瑞希、レジカウンターを振り返る。
暗い面持ちで接客している愛美。
その正面では男性アルバイトが、朗らかに接客をこなしている。
店員「学生さんの方がまだハキハキしてる。何度も注意したんだけど、上の空って感じ。聞いてるのか聞
いてないのか」
詩織「すみません。私からも言って聞かせますので」
深く頭を下げる詩織。
○詩織のマンション・ダイニングキッチン
食卓に並ぶ3人分の惣菜パック、2人分の白米と味噌汁。
愛美、元気に手を叩いて頭を下げ、
愛美「いっただきまーす!」
詩織、愛美の声に少し仰天しつつ、
詩織「いただきます」
詩織、汁椀を手に取り、躊躇しつつ、
詩織「愛美、あのね……」
ニコニコと白米を頬張る愛美。
それを見て詩織、言葉をつなげられず、味噌汁を掻き混ぜる。
杏奈、廊下から入ってくる。
杏奈「ただいま」
詩織「おかえり。晩御飯、先に頂いてるね。ご飯とお味噌汁は台所ね」
杏奈「ごめん。今日は外で食べてきたから」
詩織「そうなんだ……」
杏奈「疲れたから、先に休むね」
詩織「うん、おつかれさま」
愛美「おつかれ~」
自室に入る杏奈。詩織、食卓を眺めて、
詩織「買い過ぎちゃったな。残りは明日の朝に回すか」
インターホンからチャイムの音が鳴り、愛美と詩織、同時に玄関を振り向く。
○詩織のマンション・ダイニングキッチン
食卓につく愛美、詩織、井上。
井上、もりもりとご飯を頬張り。
井上「助かった。昼から何も食べて無くて」
詩織「どいつもこいつも、なんで事前に一言言ってくれないのかなぁ?」
井上「そういえば、賞の作品はどうなの?」
詩織「何の話?」
井上「この前言ってたじゃん。須賀さんと一緒に、出品するんでしょ? 七宝焼きのコンテストに」
詩織「国際七宝ジュエリーコンテスト? 私は出さないけど」
井上「出さないの?」
愛美「出さないの?」
詩織「出さねーよ。私、下手糞だし」
愛美「ただの腕試し位の感覚でいいのに」
井上「フリーマーケットには、また店を出すんだろ?」
詩織「それはそうだけど」
○詩織のマンション・詩織の自室(夜)
詩織、壁に吊るされたアサギマダラのビニール袋を手に取って眺める。
詩織。中には割り箸にくっ付いたアサギマダラの蛹。
布団に横になる井上、半身を起こし、
井上「なぁ、早くこっち来いよ」
詩織「この子、もうすぐ羽化しそうなの」
ビニール袋から取り出した割り箸を見つめる詩織。
○詩織のマンション・杏奈の自室(夜)
整理整頓の行き届いた部屋。壁にもたれてベッドの上に座る杏奈、ヘッドホンをつけて本を読
んでいる。
ドアをノックする音。顔をあげる杏奈。
杏奈「どうぞ」
ドアが開き、寝巻姿の愛美が入ってくる。その両手には枕とスマートフォン。
杏奈、眉を顰めてヘッドホンを外す。
杏奈「何か用?」
愛美「いや、リビングで寝ようにも、隣が煩くってさ」
杏奈「あぁ……」
杏奈、枕を抱えてベッドから降りる。
杏奈「使って」
愛美「いいからいいから、気を使わなくて」
杏奈「床で一晩、妊婦を寝かせる程、薄情じゃないから」
愛美「ああ、そういう……」
愛美、ニヤリ笑うと杏奈に枕を投げつける。
杏奈の顔に直撃する枕。
杏奈「何するの……」
杏奈の顔に直撃するスマートフォン。杏奈、ベッドに倒れ込む。
○詩織のマンション・杏奈の自室(夜)
ベッドの中で枕を並べ、顔を背けて横になる愛美と杏奈。
愛美「……せまい」
杏奈「やっぱり私、床で寝るわ」
ベッドから抜け出ようとする杏奈。愛美、杏奈を制止して、
愛美「いやいやいや、水臭いだろ、遠慮するなよ、杏奈ちゃん」
杏奈、愛美の頬を思い切り引っ叩く。
愛美、頬を押さえて、
愛美「……私、妊婦なのに!」
杏奈「教えて。他人の人生台無しにしてまで、手に入れたい幸せって何?」
愛美「私、そんな事しないよ」
杏奈「不倫相手の奥さんと子供の事、少しでも考えた事があるの?」
愛美「だって、私の知らない人達だよ?」
杏奈「お腹の子供を強請に使った癖に!」
愛美「妊娠させられたのは、私なのに?」
杏奈「被害者ぶらないで! だから、貴女はズルいのよ!」
愛美「あの人無しじゃ、私、生きていけないもん! 私に死ねって言うのかよ?」
杏奈「私がそうだったからよ!」
愛美「……不義の子なの?」
杏奈「貴女が死んでも、貴女に傷つけられた人の恨みは消えないし、貴女の罪が許される訳でもない。幸
せ壊されたら人間、鬼にも蛇にもなるんだから」
愛美「私だって、十分鬼じゃ」
愛美、杏奈に背中を向けて目を閉じる。
愛美の背中を見つめ続ける杏奈。
○詩織のマンション・リビング(朝)
リビング中に散らかった、七宝図面の紙屑。詩織、作業場のテーブルに向って座り、銅板に釉
薬を詰めている。
愛美、杏奈の部屋から出てくる。
愛美「おはよう」
振り返らない詩織。
詩織「おはよう。そっちで寝てたんだ」
愛美「ん、山田は?」
詩織「始発で帰った」
愛美、テーブル上の図案を手に取り、詩織の傍に座る。
アール・ヌーヴォー調のボタニカルな芋虫ブローチの図案。
詩織の手元の銅板は、図案の絵柄を踏襲した、簡素なデザイン。
愛美「悪くないけど、図案と違う」
詩織、図案を手にして、
詩織「昨晩、降ってきたの、頭の中に」
愛美「あは、実りの多い夜だった?」
詩織「そうね。でも、今はまだ実力不足。できる限りで、形にしてみたんだけど」
愛美「正直言っていい? 凄く良いと思う」
詩織「本当に? ありがとう」
愛美「あのさ、詩織ちゃんは、どうして七宝焼きをやってみる気になったの?」
詩織「……お前が誘ったからだろ」
愛美「そりゃ、私が言うのは変かもだけど」
詩織「変態」
愛美「なに?」
詩織「変態だよ、変態、知ってる? めっちゃ凄いんだから」
愛美「(興味津々に)……そんなに?」
詩織「見てみる?」
詩織、にやりと笑って立ち上がり、自室に入って行く。
愛美「こ、こちとらアバンチュールだぞ!」
愛美、詩織の後を追って、立ち上がる。
○詩織のマンション・詩織の自室(朝)
愛美、ぶら下がるビニール袋を眺めている。壁からは、アサギマダラのビニール袋だけが取り
除かれている。
詩織の声「成長と繁殖!」
詩織、カーテンと窓を開けて。
詩織「幼虫期には成長を、成虫期には繁殖を。効率的な機能分化!」
愛美「それが、変態?」
詩織「完全変態! 卵、幼虫、蛹、成虫。そこから蛹を抜くと不完全変態。なら、この
アサギマダラは?」
詩織、窓際に飼育ケースを置く。
ケースの中には、羽化寸前のアサギマダラの蛹がついた割り箸が立てかけられている。
ケースを除きこむ愛美と詩織。
詩織「琥珀色の揺り籠の中で、繰り返される崩落と新生。そして訪れる、羽ばたきの時。
幼年期の終わり、イノセンスの喪失、退廃と耽美の極み……」
愛美「完全に変態だ。全然わからない」
詩織「でしょ? それが問題。それが理由」
詩織、四方の壁を見渡し、溜息を吐く。
○飼育ケース(中)
蛹から羽化するアサギマダラ。
詩織の声「私の世界は閉じている。私の見るもの、感じるものは、他の人にはわからないもの」
愛美の声「それが悔しかったの?」
詩織の声「愛美のブローチを見た時、わかった。私が知ってる芋虫君の美しさを伝える為には、私が変態
するしかないって」
愛美の声「だから、七宝でその美しさを表そうとした」
詩織の声「私という蛹の中で全てを溶かし、形を作り直す。そうしてできたものを、世界に向って羽ばた
かせる。それが、創作なんじゃないかな」
羽化したアサギマダラ、空に飛び立つ。
○詩織のマンション・ベランダ・外(朝)
青空に飛び立つアサギマダラ。それを見送る愛美と詩織。
詩織「ジュエリーコンテスト、私も出品する事に決めたよ。あの図案を仕上げてさ」
愛美、驚愕した顔で硬直。
詩織「愛美?」
愛美「冗談キツいよ……」
詩織「え?」
愛美「あり得ないでしょ? あの程度の作品で? 技術だって全然なのに」
詩織「落ち着いて。ただの腕試しだよ?」
愛美「勝手にすれば? 精精、恥を掻かない様にね」
愛美、憤然と部屋を出て行く。詩織、愛美を見送り、
詩織「悪く無いって言ったじゃないの!」
○詩織のマンション・杏奈の部屋(朝)
ベッドの上に座る杏奈。
枕元には、愛美のスマートフォン。
杏奈、それを手に取り、『母』と書かれたアドレスに通話する。
杏奈「もしもし、那須 愛美さんのお母様でしょうか?」
○大規模イベントホール(中)
女性客Bに新作の芋虫ブローチを手渡す、詩織の手。
詩織の声「ありがとうございます」
自ブースのテーブルに並んでつく愛美と詩織。七宝焼きを飾るネットパネルやケースが、愛美
と詩織の間に敷居を作っている。
女性客Bと男性客Bを見送る詩織。
愛美と詩織の背中。その視線の先にはホール一杯に広がるブースの数々と、その間を行き交う
人々が見える。愛美と詩織、微動だにせず、
愛美「何個?」
詩織「新作はコレで売り切れ。そっちは?」
愛美「聞くな」
詩織「アンタが聞いたんでしょうが」
詩織、自分のネットパネルに『売り切れ』の札をかける。
優衣がブースに近付いてくる。
愛美「(優衣に)どうぞ、お手に取って……、あれ? 君、どこかで?」
愛美を無視する優衣、詩織の『売り切れ』の札を見て悔しそうな顔。
優衣「売り切れ、ですか?」
詩織「新作は10個、持って来てたんだけどね」
優衣「そうですか……」
詩織「貴女、前に来てくれた人でしょ?」
愛美「思い出した! 人の作品をダサいとか気持ち悪いとか、好き勝手罵った奴だ!」
詩織、テーブルの下から新作ブローチを取り出す。
詩織「1個は取っておいたの。貴女の為に」
優衣「どうして?」
詩織「御値段は1000円になります」
優衣「……じゃあ、これ下さい」
はにかみながら、財布を取り出す優衣。愛美、それを鼻で笑い、
愛美「ジャア、コレクダサイ、だって」
優衣、紙幣を取り出す手を止め、頭を下げる。
優衣「あの時は、本当にすみませんでした」
詩織「気にしないで。(愛美を横目に)ほら、自分のが1個も売れてないから」
愛美「お気遣い無く。私気にしてないから」
詩織「めちゃくちゃ気にしてるじゃない」
那須 冴子(55)、静かにブースに近付き、愛美の前に立つ。
愛美「いらっしゃいま……」
冴子「愛美」
愛美、驚愕の表情を浮かべ、
愛美「お母さん? なんでここに?」
冴子「愛美、私と一緒に帰って頂戴」
冴子、愛美の手首を掴み、無理矢理立ち上がらせる。
愛美「ちょっ……、やめて、放して!」
冴子「東京なんかに行かせたばっかりに!」
愛美「いきなり押しかけて、勝手な事言わないで!」
詩織「(呆れた様に)なるほど、親子だわ」
愛美、冴子の手を振り払って、
愛美「だまれ!」
冴子「だまれ!」
冴子、両手をテーブルに叩きつける。
冴子「私の育て方が悪かったんだわ。だから、こんな、どうしようもない大人に!」
愛美「発作を起こさないでよ」
冴子「家庭を持つ男の人と、不倫する様な娘を持って、情けないと言っているのよ!」
愛美「なんで、知ってるの?」
冴子「おまけに子供まで作って。この、恥さらし!」
愛美の頬を叩く冴子。
愛美、頬を押さえて、
愛美「お母さん、場所を変えよう? 他の人に迷惑だし……」
冴子、再び愛美の頬を叩く。愛美、バランスを崩し、背後のブースに倒れ込む。散乱するス
テッカー、絵葉書、キーホルダー等の展示物。
冴子、愛美の七宝焼きを両手で薙ぎ落とし、テーブルをひっくり返す。
冴子、床に散らばった七宝焼きを繰り返し踏み砕きながら、
冴子「このガラクタが、アンタの人生を駄目にしたんだ! アンタはどうして、昔からそんなに馬鹿なの
よ! 馬鹿なのよ!」
優衣、冴子の腰に体当たりして、その身体を押し退ける。
通路に倒れる冴子。
優衣、自分のした事が理解できず、狼狽する。
立ち上がる冴子、鬼の形相で優衣に迫る。青褪めて後ずさる優衣。
冴子「おまえ~っ!」
優衣「こんなつもりじゃ……」
冴子「事情も何も知らない癖に、家族の問題に首を突っ込むな!」
優衣「違います、私、そんなんじゃない!」
冴子「何が違うっていうんだ!」
詩織、掴みかかろうとする冴子と優衣の間に割って入る。
詩織「いい加減にして下さい。親子揃って、どうしてそんなに大人気ないんですか」
冴子、財布から一万円札を十数枚取り出して、詩織の胸に突きつける。
冴子「貴女、娘に部屋を提供している方ね。とりあえず、今はコレだけお支払いしておきます。足りなけ
れば、後でご連絡を」
言葉を失う詩織。
冴子、紙幣を床に叩きつけ、優衣を睨みつつ愛美に近付く。
冴子、愛美を無理矢理引き起こす。
愛美「離せ、クソババァ! 幸せになる為に生きて悪いのかよ! 七宝作って、子供産んで悪いのか
よ!」
冴子「夢や憧れに逃避しても、現実的な価値なんて何も生まれないの。周りを見ればわかるでしょう。あ
れが負け犬の顔よ」
周囲のブースの人々の、困惑した表情。
ブースに展示された創作物の数々。
冴子「挫折と後悔に塗れて、望まれない赤ん坊の為にお腹痛めて、生き地獄じゃない」
詩織、冴子の前に立ちはだかる。
詩織「だから、諦めろって? だから、降ろせっていうの? こんな風に!」
詩織、新作ブローチを床に叩きつける。
詩織の足に踏み砕かれていくブローチ。
詩織「こんな風に! こんな風に!」
冴子「気でも違ったの?」
詩織「貴女が、どんなに残酷な視線で世界を見ているのか、これでも伝わらないのですね」
詩織、紙幣を冴子の顔に叩きつける。
冴子、激昂して腕を振り上げる。
愛美「やめてよ、お母さん!」
冴子の背後から素早く井上の腕が伸び、その肩を掴む。
井上、冴子の身体を自分の方に引き寄せ、思い切り殴りつける。
昏倒する冴子。
井上、拳を押さえて、
井上「いってぇーーーー!」
詩織「井上!」
愛美「山田君!」
優衣「え、どっち?」
井上「井上です……」
痛めた拳を振って笑う井上。
○池袋 西口公園(深夜)
人気の無い公園。
大きく振られる、詩織の腕。
詩織の声「ここだよ、ここ!」
表通りから一台の自動車が近付き、道路沿いに立つ詩織の傍に停車する。
運転席から降りてくる杏奈。
杏奈「終電終わりまで未成年を連れ回すだなんて。非常識もいいところよ」
詩織「ごめん! 実は、井上も明日早くて」
杏奈「わかった、一緒に送ってあげるから。それよりも、須賀さんは大丈夫? 色々大変だったみたいだ
けど」
詩織「へぇ、あの子の心配するなんて、珍しいじゃない」
杏奈、気まずそうな顔で足早に進んでいく。慌てて後を追う詩織。
○池袋 西口公園(深夜)
酔い潰れた愛美を支えて歩く井上と杏奈。その後ろに詩織と、スマートフォンを手にした優衣
が続く。
詩織「(杏奈に)大丈夫? 代わろうか?」
杏奈「平気。私に運ばせて」
詩織「なんの心境の変化なんだか。ごめんね、優衣ちゃん。こんな時間までつき合わせて。お家に連絡
は?」
優衣「今は母子家庭ですし。母も、今日は仕事で泊まりですから」
何も言わずに、優衣を振り返る杏奈。
詩織「土曜の夜まで仕事なんて、大変だ」
井上「日曜も仕事の、俺の事も労ってくれよぉ。」
苦笑する詩織と優衣。
詩織、優衣のスマートフォンにぶら下がる芋虫根付に気がつく。
詩織「芋虫根付、使ってくれてるんだ。ありがとう」
優衣「アサギマダラの終齢、ですよね?」
詩織「わかるの?」
優衣、はにかみながら頷く。
詩織、笑顔を曇らせて、
詩織「貴女の分のブローチ、駄目にしちゃって、ごめんなさい」
優衣「私、待ってますから。詩織さんの次の新作、楽しみに待ってますから」
詩織、優衣の肩を抱いて歩く。
○池袋 西口公園(深夜)
車のドアを開ける杏奈。愛美を乗車させようとする、井上、詩織、優衣。
その傍らを拓海と千鶴が通り過ぎる。
愛美と優衣、拓海と千鶴を振り返る。
優衣「お父さん……?」
振り返る拓海、千鶴。
拓海「優衣……」
千鶴「娘さん?」
拓海「ああ」
千鶴「ふぅん。(優衣に)はじめまして、広沢 千鶴です。お父様とは、『大人のお付き合い』をさせて
頂いています」
優衣「お父さん、ひどい。お母さんを騙して、いったい何人の女の人と」
拓海「誤解だ、彼女は違うんだ」
千鶴「そうですよ。私と部長の関係は、離婚が成立した後からだもの。離婚の原因を作ったのは、別の
女……」
千鶴、愛美の存在に気がつき、嘲り笑いを浮かべて指を差す。
千鶴「ほら、丁度そこにいる人ですよ」
詩織、顔を伏せた愛美を見つめる。
千鶴「依田さぁ~ん、お久しぶりですぅ」
拓海「(千鶴に耳打ちする様に)須賀だよ」
千鶴「そう、須賀 愛美さん。退職されてからぁ、ずっと気にかけてましたよ」
愛美「……お久しぶりです、拓海さん。広沢さん」
千鶴「どうしたの、元気無いみたい。あ、いつも通りか。あの頃も陰気で、表情が乏しくて……」
拓海「目が死んでた?」
千鶴「それ! だからぁ、私達ぃ、2人で心配してたんですよぉ」
詩織「愛美が不倫していたのが、優衣ちゃんのお父さん? 優衣ちゃんのご両親は、その不倫が原因で離
婚したって事?」
優衣、愛美を睨みながら頷く。
千鶴「円満離婚ですよね?」
拓海「ん? うん、そう、円満離婚」
優衣「なんで、そんな事言えるの……」
千鶴「優衣ちゃんだって、須賀さんと仲良しできてるじゃない?」
優衣「違う! 私、憎くて、悔しくて。兎に角この女に仕返ししたくて、それで……」
拓海「優衣……」
優衣に手を伸ばそうと近付く拓海。
詩織、優衣を守る様に抱き寄せて、
詩織「この子に触らないで」
拓海「失礼だが貴女、娘のなんなんだ?」
詩織「大事な私のファン一号です!」
拓海「いいから、そこをどきなさい!」
詩織に詰め寄る拓海。
井上、詩織の肩に包帯を巻いた右手を置き、拓海を左手で指差す。
井上「どうも~、実はサウスポー、ファン二号です~」
詩織「マジで? 初耳なんだけど」
井上、左手で軽くシャドーボクシング。
拓海、腹立たしげに身を引く。
杏奈、愛美の耳に唇を寄せて、
杏奈「マァ、ナンテ素敵ナ殿方デスコト。略奪愛したくなる気持ち、少しわかるかも」
愛美、ふらふらと拓海に近付くと、七宝焼きのピアスを差し出す。
拓海、眉を顰めて、
拓海「……なんのつもりだ?」
愛美「これを」
拓海「私の耳に、穴が空いている様に、君には見えるのか?」
愛美「受け取って、下さい」
拓海「悪いが、そんな筋合いはないねぇ」
愛美「私の作った七宝が好きだって、綺麗だって、褒めてくれたじゃないですか……」
拓海「ははは、まさか、本気にしていたとは。こんな一銭の価値も無いガラクタを、私が好きになるだな
んて、笑えないよ、君」
愛美「え?」
拓海「1つ確かめたいんだが、見え透いたおべんちゃらだけで身体を許す気になる女に、魅力なんてある
と思う?」
顔を伏せて泣き出す愛美。
飛び出そうとする詩織。
千鶴、愛美の手からピアスを摘み上げ、
千鶴「そんな事ないですよぅ。チャイルドライクで可愛いじゃないですか!」
愛美の前で、堂々とピアスを付け替える千鶴。
千鶴「どうです? 綺麗だと思いません?」
拓海「え? あ、うん、似合ってるよ」
千鶴「でしょ? ね、もう行きましょうよ」
千鶴、拓海の肘に腕を絡み付け、強引に歩き出す。
杏奈「待ちなさいよ! お腹の中の子供はどうするつもり! 彼女を妊娠させておいて、そのまましら
ばっくれるつもりなの!」
拓海「子供ォ?」
井上「そうだ! 男なら責任取れ、責任!」
愛美「嘘だよ!」
静まり返る一同。
詩織「……何を、言ってるの?」
愛美「妊娠してるなんて、出鱈目なの。全部でっちあげ。私から離れていく拓海さんの心を取り戻したく
て、嘘を吐いたの!」
井上「……やっべ、殴りてぇ」
詩織「山田ッ!」
詩織の叱咤に小さくなる井上。
杏奈、愛美の襟首を掴み、
杏奈「その言葉だけは、聞きたくなかった」
愛美「ごめんなさい」
膝から崩れ落ちて、泣き詫びる愛美。
空からぽつぽつと降ってくる雨粒。
雨足は瞬く間に強くなり、千鶴、再び拓海の腕を取る。
千鶴「大変! 藤川部長、濡れる前に中に入りましょ?」
拓海「ああ。優衣。私がいなくても、君とお母さんとなら、きっと幸せに生きていけるよ。お父さんは、
そう信じているからな」
小さく左手を振る拓海。その薬指からは、既に結婚指輪は外されている。
ラブホテルに入っていく、拓海と千鶴。
詩織の腕の中で、それを見届ける優衣。
○大規模イベントホール(中)
ブースと参加者で一杯のホール。
自ブースに座る詩織。ブースには多彩な芋虫七宝と、『国際七宝ジュエリーコンテスト 優秀
賞 受賞作品(非売品)』の札がついたブローチが展示され、周囲には人だかりができてい
る。
ブースに近付く優衣と杏奈。
詩織「優衣ちゃん、久しぶり!」
優衣「ご無沙汰してます」
杏奈「なかなか盛況じゃない」
詩織「前々回頃から、やっと黒字になり始めてきたの。ネットで地道に撒いてきた宣伝の種が、やっと芽
を出した、って感じ」
優衣「詩織さんの七宝焼きは、素敵なんですから。これが当然なんですよ」
詩織「その言葉がね、いっちばん嬉しい。そうだ、優衣ちゃんに渡したいものがあるの」
詩織、ブローチから札を外して、優衣に手渡す。
詩織「志望校合格と入学、おめでとう。これは、私からのお祝い」
優衣「本当に? こんな大事なものを」
詩織「大事なものだからこそ、贈る価値があるの。いつかの埋め合わせも兼ねて、貰ってやって頂戴な」
優衣「ありがとうございます」
杏奈「今年のコンテストにも出品するつもりなんでしょ? 今度最優秀賞を取ったら、私にプレゼントし
てくれるとか?」
詩織「こちらのアクセサリーは、500円からとなっておりますが?」
杏奈「何さ、ケチんぼ!」
杏奈、口を尖らせて芋虫七宝を物色する。
優衣「あの、コンテストには、あの人も?」
杏奈「入選者の中には名前は無かったよね。七宝、やめたんじゃないかな。多分だけど」
詩織「愛美なら来てるよ。このイベントに」
驚愕する優衣と杏奈。
杏奈「東京に? わざわざ、富山から出てきたの?」
優衣「会ったんですか?」
詩織「まさか! カタログとか、ネットで知ったの。お互い、どのツラ下げて会えばいいっての? 無
いって、絶対」
寂しげに笑う詩織。
○大規模イベントホール(中)
閑散とした愛美のブース。テーブルには、数々の七宝焼きが展示されている。
ブースから、行き交う人々に声をかける愛美。
愛美「どうぞ、御手に取ってみて下さーい」
ブースに近付く千鶴。その耳には、例のピアス。
千鶴「ハロー、貴女のファンが来たわよ」
愛美「どうしてここが?」
千鶴「SNSで」
愛美「フォローされた覚えない!」
千鶴「してないもの」
千鶴、左手の結婚指輪をチラつかせる。
愛美「……そゆ事。(語気を強めて)謹んで、お祝い、申し上ますわ。藤川 千鶴さん」
千鶴「広沢で構わないわ」
千鶴、結婚指輪を外して、通路に投げ捨てる。
千鶴「してないもの」
愛美「……そゆ事」
千鶴「でね、代わりの指輪を探してるんですけど、これとかどう思いますぅ?」
千鶴、展示された指輪を嵌めて見せる
愛美「に・あ・わ・な・い。か・え・れ」
千鶴「私、今の貴女の方が好きよ。だからこの指輪、頂いて行きますわね」
千鶴、紙幣数枚をテーブルに置く。
愛美、苦々しい顔でお釣りを手渡す。
千鶴「ありがと」
立ち去りかけた千鶴、踵を返して、
千鶴「今日の売上は?」
愛美「上々」
千鶴「(声に出さずに)リアリィ?」
愛美「……アンタが初めてのお客だよ」
千鶴「あら、そ。じゃあ、このペンダントを頂けるかしら? こっちのピアスと、これとこれも。全部包
んで、大きめの袋にまとめて入れて下さいな」
愛美「アンタ一体、どういうつもりなの?」
千鶴「言ったじゃない。私、貴女のファンだもの」
両手を開いて、包装を急かす千鶴。
愛美、頭を抱えて嘆息。
○詩織のマンション・杏奈の部屋(夜)
杏奈、姿見の前で芋虫ブローチを衣服に合わせている。
○詩織のマンション・リビング(夜)
ソファーの上でブランケットに包まり、テレビを見ながら寝返りを打つ井上。
○詩織のマンション・詩織の部屋(夜)
灯りの消えた室内。詩織と優衣、並べた布団の中から、懐中電灯で壁のビニール袋を1つ1つ
照らして談笑している。
ベランダには飼育ケースが置いてある。
ケースの中には、立てかけられた割り箸が1つ。そこにぶら下がるアサギマダラ蛹の抜け殻
を、月明かりが仄かに照らしている。
(了)