薫風
バッと、みつが反射のように薫の姿を探すと、そこには、
「かおちゃん!」
ゆらりと、立ち上がった薫がいた。ふらふらと、まるで夢遊病者のように頼りなく立っている。
とろりと微睡む瞳で、ぼんやりと狐と玉葉を追っているようだ。眼鏡は吹き飛び、視えていないハズのものが、見えている。
ぞわわわっ
先程から、背筋を走るこの違和感、いや、この高揚感は、もしかして、もしかして
「かんなぎ、様、巫女様っ?」
みつがそう口走ると、薫は、否、薫であったハズの人は、ぐるりとみつを振り返り、肯定するように、にこっと笑った。優しく、何者をも包み込むような、神々しいその笑顔。
薫であるのに、かおちゃんでない人。
間違いない。この血が間違えるハズが無い。この御方はまさに。
と、そこでハッとした。
この御方がそうであるならば、あの狐や玉葉に近づかせてはいけない。
みつが足を踏み出すより早く、その薫であった人は足を踏み出していた。
「不破さん! もうム……って、神凪さんっ? 危ないよ、ここから早く離れ」
て、と薫を案じる言葉を言い切る前に、自分に振り下ろされる巨大な気配を感じ振り向く玉葉、が、時既に遅く、頭部にその巨大な爪が当たる--―。
「……?」
想像していた痛みや衝撃は、いつまでたっても玉葉を襲わなかった。思わず瞑っていた目を恐る恐る開けると、そこには、
「かんなぎ、さん?」
何の変哲もない薫の細腕が、巨大な狐の前足と爪を止めていた。いや、その細腕で普通には見えざる壁をつくり、爪を防いでいるのだ。
玉葉と目が合うと、その人はにこりと微笑んだ。それは、今まで目にしてきた薫の微笑みとは明らかに違った。そう、この感覚を知っている。この感覚は、神々しい、だ。まさか、ただの人の笑顔に、そんな事を感じるとは。
玉葉が、自分の置かれた状況に固まっていると、
「いけません! それ以上力を使ってしまっては、封が……っ」
みつが、こちらにわき腹を押さえながら近寄ってきていた。懇願するように、泣きそうに叫ぶみつの声が聞こえていないように、薫だったその人は、狐を見た。
その瞳は慈愛さえ含み、狐に優しく語りかけているようだった。
狐は、その優しい瞳に見られるのを嫌がり、一瞬たじろいだ後、首を振り我に返ったように尚いっそう恐ろしい咆哮をあげた。怒りに任せるように、動かない腕とは逆の腕を薙ごうとした、が、
「やめろ!!」
それは叶わなかった。
「お前、やりすぎたね」
薙ぐはずの腕が空振りをする--いや、空を飛ぶ、自分の左腕。その薙ぐハズだった場所には、いつ持ったのだろう、日本刀のような長い刃渡りをした刀を持つ、みつがいた。
瞳孔が開き、完全にキレているようだ。
みつは、刀についた何かを払うようにバッと振ると、両手で構えなおした。
「巫女様。コレは、あなたの手を煩わせるようなものではありません。わたくしが今ここで始末を……」
足を踏み出そうとした、瞬間、悲しそうな瞳をした薫だった人と、目が合った。
グッとつまり、足はたたらを踏む。
「あ、なん、で……」
慈悲深い瞳を悲しみに曇らせた、薫だった人の悲しそうな顔に、みつはいいようのない罪悪感を感じた。狐にではない。その人にそんな顔をさせてしまった事に、だ。
みつが左腕を切り落としてすぐは混乱して止まっていたが、痛みが混乱をさらに招いたように、狐は咆哮をあげ滅茶苦茶に暴れた。手だけであった黒い影が、全身にまわり、狐を黒く染め上げてゆく。
「危ない!」
闇雲に暴れる狐の爪から、薫を庇ったのは玉葉だった。様子がおかしいが、神凪さんは神凪さんだ。
「不破さんも無事?」
玉葉は薫を庇いながらみつを見ると、みつは呆然としたように立ち尽くしていた。その手に、先程持っていた刀は見当たらない。口を開け、言葉にならない言葉をうめいている。
庇っていた薫はにこりと玉葉を労わるように微笑むと、玉葉をやんわり押しのけ、前に出た。狐は、暴れるのを止め、荒い息をしながら、こちらを睨んでいた。鼻に皺が寄っている。いけない、喉を噛み千切る気だ。
玉葉が、薫を押しとどめようとした、その時、
シャン
清らかな、鈴の音がした。
それは、この場の誰もが聞き惚れ、誰もが動けなくなるような、清浄な音色。
シャン シャン シャン
その鈴の音の出所は、薫だった人だ。その手には何も持っていないが、確かに鈴が見える。そして、鈴の音が聞こえる。
舞うようにゆっくりと動く、薫であった人。
その舞は、その場の誰もが見惚れ、動けない。そう、あの大狐でさえも。
あんなに痛みと怒りに我を忘れ暴れていた狐ですら、舞と鈴の音を聞き、次第に頭を垂れるように沈み込んでいく。
みつは鈴の音が聞こえた段階で既に諦めたように、少し後ろで右膝を突き、頭を垂れていた。それは、まるで昔からの主従のような自然な動作だった。
シャン
シャン…
シャン……
舞は、つつがなく終わった。
薫であった人は、最期に、既に伏せ動く気も敵対する気もなくなっている大狐の前に両膝をつき、見えざる鈴を両手に掲げ、頭を垂れた。
次の瞬間。
「時雨っ」
大狐は白い光に包また。光は収束し白い霧となり、その霧はどんどん小さくなり、最期には一人の、倒れている青年になった。容姿端麗だが、瞑られた細い目は釣りあがっている。そして赤茶の長い髪には一房、白い毛が混じっていた。玉葉と同じような狩衣を着て仰向けに倒れているが、その左腕は、無い。
玉葉はその青年に駆け寄り、みつは頭を垂れた次の瞬間に倒れた薫であった人に駆け寄った。
みつの秘密と、神凪の神秘




