未練の形
枝野さんはよれたハンチング帽を深くかぶり、表情が見えなくなった。
みつはヤエと顔を見合わせ、なにやら会話している。その二人を見て、枝野さんは自分の両肩を素早く見たが、何も見えなかったらしく、肩を落とした。
一連の枝野さんの反応を見て、みつは少し複雑そうな顔をして、口を開いた。
「……もう、人の形を残してないけれど、あなたにくっついてるよ。でも、多分、あなたには見えない。その子に、未練に引きずられているうちは、見えない。でもだいぶ、この子に遊んでもらって良かったみたいだね」
枝野さんは、見れない、という言葉にあからさまにがっくりと肩を落とした。柿森さんとは同級生らしいが、ずっと、もっと老け込んで見えた。苦労と心労は、人を老けさせてしまうのか。私には、子供はもちろん兄妹もいない。近親者も少ない。でも、哀しいのだけは、わかる。
そっと、大丈夫ですか、と声をかけた。
「あ、ああ、すまないね。ありがとう。いや、ちょっと、ね」
みつの、未練に引きずられている、という言葉がしっくり当てはまるような、後悔しているような表情だった。自分でもなんと言葉を発していいのかわからないらしく、枝野さんは口を結んで首の後ろを撫でていた。
「でも、まあ、枝野さんのほうにくっついてるって事は、結構好かれてたんだね」
みつが、場を和ませるように朗らかに言ったその言葉に、枝野さんははじかれたように顔を上げた。が、私達の驚いた顔を見て、また帽子を深くかぶって、首を振った。一瞬見えた目が、光っているように見えたのは、気のせいなのだろうか。
「いや、私には好かれる資格なんて、ないよ。忙しさにかまけて家にもろくに帰らず、あの子と一緒に遊んだ記憶すら少ない。父親失格だったんだ」
その言葉に、ヤエが首を振ったのが見えた。みつに何か言っている。それを聞き、みつは頷いて口を開いた。
『その子は、お父さんの事が大好きだよ。お母さんの事も大好きだよ。だから、大好きな二人が、ずっと、ずっと悲しんでいるのが、悲しくて、うえに行けなくなっちゃったんだって。二人が悲しいと、わたしも悲しいって、泣いてたよ』
枝野さんが、顔を両手で覆った。
「そんな、そんな事が……。私達のせい、なのだね。その子が、ずっと、此処にいるのは」
「そうだね」
震える声で呟く枝野さんの声に、みつが容赦なく即答した。
「私は、自分の子供を亡くした経験なんて無いから、枝野さんの本当の気持ちはわからないけど、専門家としての経験はあるから、アドバイスは出来るよ。
もう一度ちゃんと供養して、持ち物は全てとはいわないけど燃やして、なるべくその子の事だけに引きずられないように、毎日過ごすこと。私が関わった人達は、そうして時間が癒してくれるって、言ってたよ」
みつの、専門家、という立場からの決して優しくはない言葉は、それでも枝野さんに染み入ったようだ。
何度か、無言で頷いていた。
しばらく、静寂が流れる。
「……そうだね。もう一度、ちゃんと受け止めて、供養しなければ、ならないのだろう。ただ」
枝野さんが、顔を上げて、困った顔をしていた。先程の、切羽詰った感じは薄れていた。良かった。
「その、持ち物を燃やすというのは、妻が……承知しないと、思うんだ。残していては、ダメかな」
枝野さんの困った表情には、奥さんを気遣う色が見えた。が、みつは無情にも首を振った。
「少なければ、少ない方が良い。未練は、物を見て思い起こされる事が多い。このヤエだって、モモという女の子だけでは、つくも神になってない。残されたパパとやらの強い想いがあって、まあ有体に言えば未練があって、こうなった。未練というのは、そこまで強い感情なんだよ。悪いとはいわない、けど減らしていかないと、奥さんもあなたも、いずれ悲しみと未練に飲み込まれてしまうよ」
みつの目は、口調は、いつになく真剣で厳しい色を帯びていた。それだけ、枝野さんとその子を心配しているという事でもあるのだろう。根は良い人間なのだ、根は。
「私の妻は……未練に、悲しみに、キミの言葉を借りたら、飲み込まれてしまっていてるんだ。私の言葉も、届かない時がある。何か、彼女を納得させるものはないだろうか。恥ずかしながら、私だけでは、もう、どうしたら良いのか、わからないんだ」
枝野さんは、老け込んだ表情のまま、力なく笑った。それは、自嘲しているような笑みで。
私は、枝野さんの情報を断片的にしか知らないし、今知ったばかりだが、なんとなく、察するところはあった。枝野さんの言葉の端々に、後悔、が見えるのだ。
刑事ゆえ忙しくして家にも帰れない日々、そんな時に舞い込む訃報、奥さんの今までのあれこれも含めた深い悲しみ。それは枝野さんの、旦那の言葉すら届かないという、深い深い悲しみ。もしかしたら鬱も発症しているのかもしれない。
表面上は平常を繕いながら、家の中にある悲しみを浄化する事も、癒す事も出来ずに、ただ過ぎる毎日。それはどんなに、どんなに辛い事だろう。誰が悪いわけでもない。誰を憎んでいいのかわからない悲しみというのは、こんなにも、深く心を抉るのか。胸の奥が、ズキリと痛んだ。
みつは、そんな枝野さんの様子を見て、ヤエと何か相談していた。
ヤエは頷き、椅子の背から軽やかに飛び降りると、枝野さんの横にトコトコと歩いてきた。そして、枝野さんにニコッと、心配しないでとでもいうように笑いかけると、枝野さんの左肩の上を見つめた。それは、事務所でみつが見ていた方向と同じだった。やっぱり、ソコにいるのか。枝野さんは驚いたようだったが、ヤエに任せるように頭を少し下げた。
少しだけ、静寂が流れた。通りでは、まばらに車の音が聞える。
ヤエが、もう一度大きく頷いた。そして、枝野さんの側から離れて、もといた椅子の背の上に腰掛けた。そこが、定位置なのか。……もしかしたら、最期に交流していた、パパ、が座っていた椅子なのかもしれないなと、何となく思った。
ヤエは定位置に戻ると、みつとなにやら話していた。私にも声が聞えたら、少しは手伝えたのだろうか。いや、でも、これからずっと聞こえる事になったらそれはそれで嫌だ。ごめん、みつ。
相談が終わったみつが、まだ力ない表情をしている枝野さんに向かって、声をかけた。
「奥さんが、枝野さんの言葉を、あの子の存在を信じる方法が、一つだけ、見つかったよ」
枝野さんの顔に、驚きが広がった。それと同時に、顔に生気が戻る。
「そ、それは、いったい」
「枝野さんのお子さんが隠して、そのままの物があるんだって。それ見つけて、奥さんに見せてあげたら、この子の存在、信じてくれるんじゃないかな。うえに行った方が良い事も」
みつの言葉に、枝野さんの顔が驚きから、焦りのような物になった。奥さんだけでは無い。枝野さんも、子供の存在を信じたがっているのだろう。見えるのに、見えない。
「そ、それは何なんだい、どこにあるんだい」
「手紙、だって。パパになかなか会えないから、手紙を読んでもらおうって書いたんだって。でも、恥ずかしいから隠したんだってさ。その場所を、教えてくれるって」
みつの言葉の途中から、枝野さんの肩が震えているのが見えた。帽子を下げている左手も、わずかに震えている。……泣いているのだろう。嗚咽ももらさず、みつの言葉にかすかに頷くだけで、静かに泣いていた。
みつも、それには気づいているようだが、何でもないように続けた。
「ええと、大きな食器棚の、三番目の引き出し、綺麗な紙ナプキンが何枚かあって、その真ん中らへんに隠した、って」
枝野さんは、みつの言葉が終わっても、すぐには反応できないようだった。小さく、何回か頷いた。
少しして、落ち着いたのか、枝野さんは顔を上げて帽子をもとの位置に戻していた。目は真っ赤だが、動揺も悲しみも見えない。良かった、いつもの枝野さんの雰囲気に戻ってきているようだ。
「……ありがとう。忘れないように、メモしておくよ。帰ったら、探してみる」
『頑張ってね、ケージさん』
明るい口調は、ヤエのものか。枝野さんをみて、にっこり笑ってる。この子も、とても良い子だ。きっと、大事にされてきたのだろう。
ふと、ここに居たのがヤエで、訪れたのが枝野さんで良かったのかもしれないと思った。
想いの形はいろいろ




