送り狼
「大丈夫?! かおちゃん!」
「みつ!」
なんでここにとか、どうやってとか、ここはどことか、いろいろ一瞬の間に浮かんだが、感じたのは、安堵。みつが、来てくれた、安心感。
月の光を浴びたように、ほのかに光り輝いて見えるのは、私の希望が視覚に現れたからだろうか?
当のみつは、私が立ち上がったのを見て、バッと私の腕を掴んで、走り出した。
「今のでも、時間稼ぎにしかならない! 走ってかおちゃん! 逃げなきゃ」
みつでも、駄目なのか。一瞬恐怖が心をよぎったが、掴まれた腕の確かさ、熱さに、その恐怖は薄れた。
私も、自分の足で、また走り出す。
みつは、走るのが早い。引っ張られるようにして走る。
後ろで、うめき声と、たくさんの怨嗟の声が聞こえる。怖い。
みつに手を引っ張ってもらってなければ、足が、動くのをやめてしまいそうになる程の、恐怖。
でも、みつが居る。それに、さっきと違う事が起こりはじめていた。
まだはるか遠くに見えていたハズの林が、走るにつれ近づいているように見える。さっきまでは、いくら走っても、近づいているような感覚が無かったのに。
彼岸花はまばらになり、目の前には、まっすぐ立ち並ぶ大きな木々。
ついに、林に足を踏み入れた。
逃げ切れる!
そう、思ったのだが、後ろからのプレッシャーは、変わらず追いかけてくる。
「なんで、逃げられないの!」
半ばパニックになりかけるが、みつが、足を緩めず走り続けるので、それにならい私も足を動かす。
林の中を走り続けていると、木々がまばらになっている所に出たようだった。
空を見上げると、冗談みたいに大きな満月が私達を照らしていた。足元さえ見える程の、明るさ。あの彼岸花の広場で見た時とは、くらべものにならない大きさ。ときおり白い靄に隠されるが、それでも輝いて見える。
ふと、横をみると、音も無く影が動いた。
犬、だろうか。大きな犬が何頭も、私達に並走するように、走っているようだった。なんで? もしかして野犬?
違う命の脅威の出現だろうか。後ろからのプレッシャーもまだ続いているというのに。
絶望しかけた時、みつが、
「送り狼だ!」
声を上げた。それは、まるで歓喜の声。何、その、今には場違いな言葉と、それを喜ぶみつの歓声は。
「かおちゃん、オオイヌ様だよ! 助けにきてくれた! いい、かおちゃん。絶対後ろを振り返っちゃダメだよっ。転んでもダメ。もし転んだら、すぐ立ち上がって、走って。他は、あとで説明するから。今は、とりあえず逃げ切ろう! いけるよ!」
「わ、わかった」
何もわかって無いけど、とりあえず、後ろを見ず、転ばず、走り続ける事は、わかった。みつがそう言うのなら、逃げ切れる希望があるのだろう。少し、希望が湧いた。
横を走る生き物の気配は、スピードを落とし、後ろに向かったようだ。振り返れないからわからないけど。
後ろにいる、生き物の集団の気配。そして、いまだなお背中に迫る恐ろしいプレッシャー。時折響く、犬の咆哮。……悲鳴。
とにかく、走るしかない。逃げ切れるか、まだわからないけど、この手を信じて、走る。
どれだけ走ったかわからない。それでも途切れない木々が、動かない月が、ここが現実ではないことをまざまざと伝えてくる。
あと、どれだけ走るのか、わからない。
でも、帰りたい。現実へ。
玉葉くんも迎えたいし、シロくんやマルちゃんにもまた会いたい。年取った祖父母に、孫が先にいなくなる不幸や悲しみを味合わせたくない。
そして、あの、みつといる探偵事務所の日々が、何より愛おしい。ヒトは、何かを惜しむ時はじめて、それを愛していた事を知るのだろうか。
私は、みつと、玉葉くんと、あの事務所に居るのが、好きだ。仕事だからだけではない、家族のような、違うような、絆。それを感じる事が出来る、場所。
あそこに、あの日々に、戻りたい!
ひと際強く願い祈ったとき、急に空が割れた。いや、上空をさえぎる木々が、白い靄が、唐突に無くなったのだ。
冗談みたいに大きく、銀色に煌煌と輝く月が、私達を見下ろしている。
「あそこだ!」
みつが、一点を見つめている。そこには、あの村へ来たときにみた、小さな男女の地蔵。道祖神、といったっけ。
「あの外は、もうあいつの領域じゃない! 行こう! かおちゃん!」
「うん! 帰りたい! あの事務所に!」
本心が出た。
みつももちろん振り返れないので、どんな表情をしたかわからなかったけど、私の腕を掴む手が、ぎゅっと強くなった。
走ったら、走った分だけ、あの地蔵が近づく。
走る。
確信と希望が、胸の中に確かに灯るのを感じた。
走る。
あの地蔵まで、あと、少し。
良かった、帰れる!
そう認識した次の瞬間、後ろからクイッと小さな手で服を引かれた気がした。
思わず、振り返ってしまう。
あっと、思った時には、みつの手をすり抜けていた。
後ろには、ニタァと笑う、黒い不気味な化け物。
心臓が早鐘を打ち、終わった、と思った。
振り返って、しまった。
諦めが、私の全身を支配する。
後悔より、恐怖より、純粋に、みつの無事を祈った。
と、胸ポケットから小さなお守りが、何故かスルリと滑り落ち、地面に落ちる前に、小さな仔犬になった。まるで、玉葉くんの変化のように唐突に。と、驚いて見ていたらそれは、化け物を飛び越え、後ろへ弾んで行った。
化け物が、ソレに、気をとられた。
真っ赤にただれた目でソレを追い、振り返る化け物。と、同時に鳴り響く、獣の幾つもの咆哮。轟々(ゴウゴウ)と、怒り狂い、食べつくそうという、咆哮。
実際、何十匹かわからない程の犬の影が、その黒い化け物に群がっていた。化け物はその中心地で、踊るように手足を、いくつもの手足をばたつかせていた。
まるで、狼が群れで捕食しているかのような光景だった。私が振り返ってから、本当に一瞬のような、あっという間の時間だった。
私は、その凄まじい光景に圧倒されて膝が笑ったのか、尻もちをついてしまった。
いけない。すぐ立ち上がらなければ。
走らなければ。
「よいしょ」
頭は、それどころじゃないと警報を鳴らしているのに、そんなのんびりした事しかできなかった。みつの言葉に、従うしか今の私には思考できない。
ふらふらと立ち上がり、前に向かって足を踏み出す。
一歩。また一歩。
走っているのやら歩いているのやらわからない足取りだったが、確実に前に進んでいた。
何も起こらない。
後ろから、何も、聞こえなくなった。それはそれで、怖い。
走る。ふらふらと。
あの、みつが指した地蔵が見える。
地蔵の先は、何も見えない暗闇だった。
「かおちゃん!」
暗い向こうの道の先から、かすかにみつの声が聞こえる。
あの向こうに、みつが、いるんだ。
あと一歩踏み出せば、闇に入る。
でも、本当に、大丈夫なんだろうか。
少しの恐怖が胸に戻ってきたその時、
わふっ
優しい声が、響いた。
私はそれを聞いた事がある気がして、また振り返ろうとしてしまった。が、それは、私の背中を押した柔らかい肉球のせいで、叶わなかった。ただ、白いモフモフのなにかが、視界の端に映っただけだった。
暗転。
暗闇だ。
闇しかない。
何も、見えない。
でも、聞こえる。みつの声。
かすかに、だが確かに私を呼ぶ、必死の、声。
応えたい。
帰りたい。
此岸へ。
満月と、狼と、彼岸花の群生が本当に書きたいものでした。




