彼岸の夢
目が覚めた、と思った時、周りは白い靄で覆われていた。
「なに、ここ? 私、確かあの人の家でお茶を飲んで……?」
頭が、痛い。
戸惑いながら、目の前を見る。
白い闇だ。何も、見えない。いや、何か、見える。
うつ伏せに寝ていたようなので、上半身を起こして、周囲をぐるりと見回した。
よくよく見ていると、白い靄がゆらゆらと、緩やかに細い茎と花弁の影を形作っていた。
なんだ、ここは。
もっと遠くを見ようと、私は立ち上がった。
改めて遠くまで見渡すと、そこは、細い茎と花弁を持つ、満開の彼岸花の群生地のようだった。
向こうに行けば行く程、白い靄は薄くなり、彼岸花本来の赤さが、絨毯のように見渡す限り広がっていた。しかし白い靄も、霧のようにどこまでも彼岸花にまとわりついていた。ところどころ、彼岸花を黒い影として映している。
本当に、見渡す限り彼岸花だけの花畑だ。
水の音がかすかに聞こえるので、川もあるのだろうか。奥の奥は、白い闇で見えにくいが、どうやら木々がそびえ立っているみたい。
山の中にポツンとある広場。そんな感じだろうか。
これは、もしかして夢なんじゃないかな。
ふと、そう思った。
確かに此処にいる、という感覚はあるが、なんというか、現実味が無い。上を見上げても、白い靄が覆い、太陽も月も見えない。
どうしていいのかわからないが、とりあえず、水の音がする方に歩いて行くことにした。本当に川があるなら、川下に歩いていけば、何かあるかもしれないからだ。
せっかく満開に咲いている彼岸花を踏みつけないように、慎重に歩いていく。
時折、風が吹くのか、彼岸花が揺れる。
だが、靄は晴れない。
どれだけ歩いたかわからないけど、少し疲れた。時間の感覚もおかしくなっているみたい。
歩き続けていたら、私が目覚めた所よりも、彼岸花の咲いている感覚が密になってきた気がする。
あそこも、パッと見沢山咲いているようだったが、水の音に近づく程、まさに密生して咲いているようだった。
街で見かける彼岸花に、恐ろしいとか、不吉とか、思った事は無かった。ただ、赤くて細い花だなあ、ぐらいしか思ってなかった。
だのに、ここの、群生して咲いている彼岸花達には、なにか、そう、不安なものを感じた。怖い、わけじゃないけど、ちょっと、違うような?
そんな事を思っていると、遠目に、水の流れが見えて来た。やっぱり川が流れていたようだ。ちょっとホッとしながら川に近づく。
ふと、彼岸花とは違う影が見えた。
思わず身構えたが、靄が少し薄れていくと、それは、赤い着物を着た、髪の長い少女だと、わかった。少女は彼岸花の中しゃがみ込んで、地面の何かを観察しているようだった。
こんな夢のような場所で会うなんて、ちょっと怖いなぁ。
みつが居たら、相談できるのに。みつは、大丈夫だろうか。あのお茶が怪しいから、飲んでないと良いんだけど。みつは、無事だろうか。
私が、ふと意識を他に向けた次の瞬間、こちらに背を向けてしゃがんでいた少女が、バッとこちらを振り返った。それは、人間には、不可能な、角度で。
『あそぼー』
ヒッ、と私が声を漏らすと、その少女、それは、真っ赤な唇を開いて、そう、言った。
妙な色気のある、少女だった。
顔だけ見れば普通の範囲なのだが、行動が普通では無かった。私が恐怖したように立ちすくんでいるのを見て、自分の顔を両手で挟み、首と身体の向きを、普通の人間と同じ角度に直した、
逃げ出したい。一刻も早く、この、わけのわからない存在から、離れたい。そう、思うのに、足は後ずさるだけで、私の脳の恐怖を理解しない。
『あそぼー』
それはまた、そう言った。
さっきと同じ、抑揚、声音で。まるで、同じ音声を再生しているだけのように、ピッタリと。
何か、行動をとらなければと思うのに、口も、足も、動いてはくれない。
『あそぼー』
少女の形をしたそれは、こちらに少しずつ近づきながら、そう言った。
こてんと小首を傾げ、可愛らしい様子をしているのに、先ほどの一連を見ているせいで、少しも心を動かされなかった。いや、マイナスには動いたな。
ひた。ひた。
それが、近づいてくる。
『あそぼー』
ひた。ひた。
もう、彼女のまつげまで見える距離。私は、まだ動けずにいる。
小首を傾げた、それが、より深く首を横に倒す。そして、
『……あ そ ば な い の ?』
そう、言った次の瞬間。
首がギュルンと下に90度周り、完全に口と目の位置が逆位置になった。そして、なにか、黒い、恐ろしい形相に、なった。
私の足は、ようやくここで動く事を思い出した。
「ぁあああ!!」
ソレが、走ってくる。
反対方向に走る私。
恐怖。
私の足を動かす原動力は、ただただひたすらの、恐怖。捕まったら駄目だと、本能が警鐘を爆音で鳴らす。
必死で走る。
息がすぐ乱れる。だけど、足を止められない。足が地面を蹴る度に、そこにある彼岸花の花弁を散らしてしまう。だが、そんな事を気にしている余裕はなかった。
早い。
まるで重力など無いように、こちらに走ってくる、それ。さっきより、足が増えてないか? さっきより、大きくなっていないか? わからない。とにかく、必死に走り続けなければ、いずれ追いつかれてしまう。
どこまで、いつまで走って逃げればいいの。
それすらもわからない。だが、捕まるわけにはいかない。遠くの方に見える森か林まで行けば、少しはまくことができるだろうか。それまで、私の足はもつだろうか。日頃の運動不足が呪わしい。
遠くに見える林を目指し、ひたすら走る。
後ろからは、異様なプレッシャー。チラリと見てしまったそれは、腕が増えて、四つん這いで迫ってきていた。怖い怖い怖い。
林は、まだ遠い。なんて遠いんだろう。こんなに頑張って走ってるのに。
ちょっとめげかけて、目線を上にあげると、白い靄が少し晴れて、月が見えた。あれ、月? 今は、夜なのだろうか。それにしては、辺りが明るい気がする。
天空の小さな光。でも、今はそれすら心のよりどころになる。アレに向かって、走ろう。どうなるかわからないけど、そうするべきだ。直感でそう思った。
走る。
走る。
足が、もつれる。なんとかこけなかったが、痛いロスだった。
プレッシャーが近づいたのがわかる。もう怖くて、後ろを振り向けない。
走る。
息が上がる。
「……」
何か、聞こえる。恐怖のあまり、幻聴が聞こえたのだろうか、それとも後ろ、からだろうか。何もわからない。ひたすら、走る。
「……!」
また、聞こえた。調べたくても、調べられない。走る。
「……ゃんっ!」
人の、声のような?
つい、そのどこから聞こえるかわからない声に気を取られた次の瞬間、足が、何かに躓いた。思いっきり、前方に倒れる。咄嗟に腕でかばったせいで、腕に痛みが走る。目をつむったのは一瞬だったと思う。ハッとして、また走ろうと立ち上がる。追いつかれただろうか。心拍数が一気に上がる。と、
ぎゃあ!
後ろから、人とも獣ともつかない悲鳴が上がる。立ち上がり、思わず後ろを振り返るとそこには、みつが、居た。




