~思い出~ 結子・サーマル
暗い中を歩くのは慣れている。
夜明け前の寒空は体の芯まで凍てつかせ、足取りを小さくさせる。草木が生い茂る林道はほとんど獣道同然で、どうにか馬車一台ほどの幅に樹木が切り倒されている程度のつくり。
野鳥の鳴き声、虫たちの合唱が背中を押す。
「…………」
獣道を行くのは、一人の東洋系の少女だ。暗闇に溶け込む長い髪を古びたリボンで束ね、幼い顔立ちと奥ゆかしいスレンダーな体型。身にまとう服は時代の先を見据えたような綿密で丈夫なものだ。山岳ブーツ、ショートパンツ、黒のロングコートと今のヨーロッパ圏では珍しい格好だ。
すぅっと真っ暗な空に青みがさし始めるのを、視界の端に捉える。
「朝……」
か細い声でつぶやいて少女、結子・サーマルはほぉっと白い息を空に向かって吐き出した。
鮮やかな青に代わる空模様に白い雲が浮き上がって、梢がざわめく。コートをはためかせる冷たい風に、ぎゅっと襟元を寄せて足を速める。
ふと彼女の中で思い出がよみがえった。
今日のような冷たくも、空気の澄んだ朝の出来事だ。
薄暗い小屋。そこが幼少のころ両親とともに暮らしていた宿舎だった。
ガラス窓と小さなストーブ、簡素なベッド、申し訳ない程度の調度品と聖書。就寝するための部屋で、別段面白いことなどない。
しかし、結子は早起きの両親とともに胡乱な瞳をこすって起床する。麻で作られた服では冷たい空気が肌に容赦なく突き刺さり、震えてしまう。
結子がくしゃみを一つした瞬間、ドンドンッと小屋のドアが叩かれた。
「結子。お嬢様よ、きっと」
「ん……」
母に言われて、結子はベットから降りてぼろぼろの靴を履くと千鳥足でドアの前に歩く。木製の床が軋み、足裏に凍てつくような冷たさが残る。
背伸びをして、ドアを開けると朝日を浴びた顔がにこっと笑いかけた。
「おはよっ、結子! おじさん、おばさん、朝ご飯ですよ」
「おう。いつも、ご苦労様です、お嬢様」
父が気さくに言って、上着を羽織る。
結子は呆けたまま、体を左右に小刻みに揺らしていた。一瞬、目の前に立つ少女が何者なのか理解できなかった。
ドアに立つ小さな女の子は恥ずかしそうに髪を掻く。寝癖の付いた髪を見る限り、かなりずぼらな女の子だ、と結子は常々思う。そして、泥のような意識がゆっくりと冷たい空気に濯がれて、彼女が何者かを思い出す。
「お嬢様はやめてよ。いっつも迷惑かけてるんだし。結子にもお世話になってるし」
お嬢様と呼ばれる少女。
結子の両親の雇い主、というより所有者の姪っ子。家庭の事情はよくわからないが、とにかく海外から連れてこられた結子たち、労働者を手厚く迎えに上がる立場ではない。
オーバーオールにぶかぶかのシャツ、首にもぶかぶかのマフラーを巻かれている。それでも寒いのだろう。鼻頭が赤くなっていた。
と、背後から外套を来た母が歩み寄って、結子の飛び跳ねた髪を束ねる。優しい手つきでぼさぼさの髪をまとめるその感触を結子は恥ずかしくもうれしく思う。
「今日は教会の子はどうしました?」
「ん? お向かいさんのところ。結子もいくよっ」
「んあー」
結子は元気ハツラツなお嬢様とは違い、眠気が取れず大あくびをする。毎日の仕事として、朝昼晩の食堂への呼ぶ係を務めている。しかし、お嬢様とその友人である教会で勉強する女の子とは違い、彼女には自分が働いているという自覚はなかった。
何しろ、三人一緒が当たり前で当然のことだと思っていた。別れが来るなどとは考えもしなかった。
その間にも後ろ髪を母が手早くリボンで結って、短い尻尾のように仕立てた。綺麗な指先が離れると、結子は目をこすりながら、振り返った。
「行ってきます……」
「行ってらっしゃい。お嬢様に失礼のないようにね」
「今日は大仕事になりそうだ。あまり工房には入らん方がいいぞ」
父の声を耳にしながら、結子は頷く。
幼い結子では彼らの仕事場、工場で働くことなどない。専門的な知識か力仕事、精錬された技術力がなければ、少女が立ち入ることなどできない。そういう意味では、両親は腕利きの技術士である。
それでも、労働者階級から脱することはできず、主人にこき使われているのが現実だ。
「ほら、時間ないよ。早くしないと」
お嬢様が煮えを切らしたように、結子の手を引いて小屋から連れ出す。
結子は正面に向き直り、彼女の横顔とその先で手を振って待つストールの女の子を見た。
小屋が立ち並ぶ宿場に小さな影が三つ並んだ。整理された区画で、乾いた土が舞い、木星の小屋が行儀よく立ち並ぶ。
「おはよう。結子、眠いの?」
ストールの少女がやんわりと問うた。
結子は首を横に振って、大丈夫とつぶやく。彼女も朝早くには勉強するために、教会に出向かなければならない。熱心な信奉者というほどでもないが、結子たち以上には信仰の念は強いだろう。
この町もノード教が根強く、ほとんどの住民が信奉者だ。結子のような労働者にはそうした義務はないも、この町で生まれ、祝福を受けた子供は教会の勉強会に参加するのが普通なのだ。
お嬢様がぽんっと結子の頭に手を置いた。
「もう時差ボケは直ってると思ったんだけど、まだなのかな? それよりも、みんなを呼ばなきゃ」
「そうね」
ストールの女の子が頷いて、微笑みかける。
それから、三人は残りの小屋を回って食堂に集まるよう知らせて回った。誰もが疲れた体を起こして、次々と外套を羽織り、食堂へ向かっていく。
そんな光景を横目で送りながら、三人は歩いていく。
記憶の中の想い出、九年という歳月を一気に跳躍して、現実へと意識を戻した。
いつの間にか立ち止まっていた結子は、自分に課せられた任務を思い出して唇を動かす。単純な偵察任務だ。時間通りに行動すれば、なんら問題はない。
「…………」
結子はすっと先を見据えて歩き出す。ノード教が流布している地域での活動は慎重にしなければならない。
ノード教会。昔の神から受けた教典をもとに、今の世の秩序として広く民衆たちを統べる組織だ。人は神に隷従し平和な世界を構築する一片である、と定義して世襲制を促している。それぞれに与えられた役割を担い、尽力する。それは互いを支える基盤となり、隣人がいなければ暮らしていけない神様の寵愛と共存を目指す社会構造であった。
しかし、その陰に苦しむ人もいる。海外から連れてこられた労働者たちや生まれ持っての低い身分。覆ることのない体制の中で酷い仕打ちを受けることだってある。
みんながみんな、良心的ではない。結子の人生が変わってしまったのも、そうした体制の悪癖からだった。
だからこそ、今所属している組織に誇りを持っていた。
自由主義を掲げて、人と人が本当の意味で助け合う世界を実現しようとするフライハイト。絶対主義に喘ぐ人々を先導し、民主主義へと移り変わるきっかけを作る組織。絶対王政に反旗を翻し、新たな信仰と自由を求めて戦うのだ。政教分離の時代を築く力を人は持っている。否、すでにそれだけの力を持っていたのだ。だからこそ、フライハイトは拡大して勢力を強めていた。
神様に祈りをささげるよりも、自由の旗本に人が理想を築いていく。考え、行動し、誰もが平等でいられる世界を迎えるためにも、彼らは蜂起して拡散する。
「……見えた」
獣道を抜けて、山間にひっそりと構える町を一望する。丘陵から見下ろした町は木造建築が多く、北に位置した町ならではの様相をしている。舗装路は少なく、中心にある広場くらいだ。
「ん……」
広場に目が止まり、凝視する。
広場に人が集まりだしていた。民家から買い物籠を持った人、何かの骨組みや、ホロをかかえた人たちもいる。
「朝市……」
風習なのだろうか。ギルドの商人が荷馬車を引いてきて開くのではなく、彼らは彼らで商売をしているようだった。
政教区らしい市場。
同時に閉鎖的な環境ともいえる。通ってきた道を振り返ってみれば、うっそうと茂った獣道だ。木漏れ日が差し込んでも、歩いてきた道はほの暗い。こんな道をわざわざ通って、田舎町に商売に来ようという酔狂なものはいないのだろう。
ただここに教会の査察が入っている感じもまたしない。辺境の土地とも会って、おろそかになっているのだろうか。
期待半分、不安半分に鼓動が早なる。
よそ者がめったに来ないのだろう町に一人偵察、ましてや異邦人となっては目立ってしまう。このあたりの領地も不安定で、領主の意が強いかもしれない。
結子は逡巡して頭を振る。
「大丈夫。大丈夫……」
そう言い聞かせて、朝霧にまぎれる町へと歩を進める。
これにて序章は終わりです。来週から本編に入っていきます。
稚拙な文章ではありますが、暖かく見守ってください。また、ご意見、ご感想がありましたら、ぜひお聞かせください。よろしくお願いします。