~思い出~ フォノ・アインリヒ
談話室のストーブに薪をくべて、鞴で空気を送る。
四角い薪ストーブの小窓から、パチパチと杉の枝が弾けて火の粉が舞った。中で火が躍る様に燃え上がる。
その世話をする少女は徐々に顔がひりひりするのを覚えながら、順調だと一つ頷いた。
ある程度空気を送り終えると、あとは自然の力に任せて、かぎづめ状に曲がった鉄製の棒で小窓を閉める。手にしていた厚手の手袋を取りながら、鞴ともどもストーブを囲う煉瓦の壁に置いた。
「ふぅ。これでいいかな」
少女、フォノ・アインリヒはまだ冷たい談話室の気温に身震いして、腕を摩った。
まるでお伽噺のお姫様のような愛くるしい少女だ。金色に輝く長い髪、透き通った白い肌、整った顔立ちと大きな瞳、豊満な体つきは、誰もが思い描くだろう女性像だ。しかし、不可侵を主張するような小さな背は、妖精のごとき神秘な魅力をも持っている。
神様に選ばれた少女、と言われても不思議ではない。
そんな彼女の身にまとうのは、そうした高潔さを隠すような薄汚れたエプロンドレスと古びたストール。灰被りもいいところで、古い屋敷に仕える女中にしか見えない。
フォノは薪ストーブの上にあるやかんの蓋を開けて、水が入っているかを確認する。
「やかんも準備よし」
にこやかに言って、ふっと懐かしい思い出が読みがる。
フォノは白い息を吐きながら、ぐるりと談話室を見た。こことは違う、昔にいた部屋の一角が脳裏に蘇った。
小さいころの記憶。
それはまだ、フォノが六歳になったばかりのころ。世界を知らない箱入り娘だったころ。暖かい暖炉を前にして、広げたお伽噺を朗読していた。
二人の女の子が両隣に座って、広げている絵本を一緒に覗き込んでいる。
「そして、二人の勇者は悪魔を倒しました」
「悪魔って?」
リボンをしている女の子が、控えめに尋ねた。
すると、反対側でぶかぶかのマフラーをした女の子が悪戯な笑みを浮かべる。
「悪いことするお化けだよ」
「えぇ……」
リボンの女の子は煤けた服の裾を掴んで、臆病な声を上げる。
幼いフォノは二人のやり取りを横目に見て、次のページを開く。乾いたパリパリの紙の手触りが、すっと指先を撫でる。
次のページは悪魔の怨念で埋め尽くされていた。べっとりとインクで塗りたくられた紙と、吹き出しだけの虚無なページ。
「しかし、悪魔は言いました。『われ、死すとも、この血肉にて世を穢す。魂は深くに沈みて、やがて招来されん』と。そして、悪魔は黒い水となって大地に溶けていきました」
フォノは悪魔の最後の言葉と理解できた。しかし、その言葉の意味することをうまくとらえられない。
両隣の女の子たちもまた、一様に小首をかしげて真っ黒となページを見つめる。
「どゆこと?」
「わからない。字、読めないから」
マフラーの女の子の言葉に対して、リボンの女の子はそう返した。
フォノは絵本を真剣に読み進める。両親からもらったこの絵本はシリーズとして刊行されており、この十巻で終幕を迎えるのだ。
悪魔と二人の勇者が世界をかけて戦うお伽噺。オーソドックスな筋書きだが、彼らの戦いで多くの人は死に、勇者に随伴していた妖精もまたこの世界から離れた。
悲しいというわけではない。ただぽっかりと心に空洞ができた錯覚がある。
次が最後のページ。物語の終わりは、救世主の言葉とその人物画だった。
後光を背にして、二人の勇者を断罪する人。
「しかし、世界は新しく生まれ変わります。舞い降りたる神、ノードは勇者らのもとへ来ました。そして、二人の勇者は言います。『我が血にて、清き世界を』、『我が肉をもって、命を』。ノードはそれを受け入れ、二人の勇者が首をはねました。『黒き者の血により、穢れを払おう。白き者の肉より、世に命を与えよう。その魂は天へと召し上げられる。我が手に眠れ、勇者らよ。ノードの手によりて新たな世界は幕を開ける』と。こうして、新たな世界が生まれたのです。おしまい……」
長い長いお伽噺の最終巻を呼んで、ほっとフォノは息をついた。
しかし、物語で勇者を導いた存在、神様であるノードが勇者を犠牲にしたのを心苦しく思った。
「勇者様は死んじゃったの?」
リボンの少女は青っぽいインクで描かれた勇者に触れて、何かを感じ取ろうとしていた。
「そうみたい」
「変なの。神様なのに」
オーバーオールの女の子は頬を鬼灯のようにふくらませる。
絵本で活躍した英雄の最後ほど、もの寂しいものはない。ノード神は万能神である。そうした描写はいくつもあり、勇者たち以上に力強い存在だった。
なのに、自らは何もしなかった。気ままに人の願いを聞き入れて、時に断罪を執行する。
それが神様であると教え、諭す絵本。彼女に勉学を教えるノード教の教典の一説だ。
「神父様、教えてくれるかな? このお話?」
「わかんない。あたし、教会でお勉強しないもん」
「あたしも……」
二人の反応は微妙で、フォノはすっきしりしない。
絵本をもう一度見て、なぜこのような本を両親が渡したのか疑問に思った。
思い出というのが常に楽しいものを思い起こさせるものではない、とフォノは改めて実感する。
「八年も前になるのよね……」
いろいろとあって、今は田舎町で平穏に暮らせている。
幸せなことだ。これ以上の幸福を望むものはない。だが、唯一の心残りを晴らしたいと強く思う。
締め切ったカーテンの隙間から光が差し込みだす。ひんやりとした空気は徐々にストーブで温められて、肌寒さも和らいだ。
フォノは木製の床を歩いて、靴の底を鳴らす。
カーテンを開けると、山間から差し込む光が朝を告げる。