彼女が愛した絵本
長い黒髪を持つ彼女は、いつも一冊の本を持ち歩いていた。それは彼女が言うには、世界一有名な絵本だった。バオバブという厄介な植物の脅威に晒された、一人ぼっちの王子さまの話。長い旅の果てに地球へやってきて、砂漠で飛行士と出会う話。バラと羊。狐と蛇。
地元の中学校で同じクラスになり、始めて出会った時も、彼女はその本を持っていた。放課後の図書室で彼女を見つけ、僕は「同じクラスだよね。その本、面白い?」と話しかけた。すると彼女は「面白いよ」と言って、その本を僕の前に差し出した。
「この本、私の私物なの。貸してあげるから、読んだら私に返却して、感想を報告すること」
僕はその本を半ば無理矢理に借りさせられた。The Little Prince。英語だった。おせじにも英語が得意でなかった僕は、その日の夜から、テレビゲームをする代わりに英和辞典を引くはめになった。それで僕の両親は、ついに息子が勉強に真面目に取り組んだものと勘違いし、お小遣いを増やしてくれた。まあ、それはどうでもいい。問題はその英語の絵本で、僕は彼女に舐められてなるものかと読解にいそしんだ。
あっという間に二週間が経ち、僕は放課後の図書室で、申し訳無さそうに彼女に本を返却した。
「第一章、うわばみの話までしか読めなかった。だから感想はまだ分からない」
すると彼女は彼女は僕をしげしげと眺めた。
「本当に読んだの?」
そしてひとしきり彼女は笑った。あらためて見ると、とてもかわいい笑顔だった。
「ばかじゃないの。この図書室に日本語版が置いてあるじゃない。『星の王子さま』。まずそっちを読みなさいよ」
そうか。そんな手があったのか。くすくすと笑う彼女を見て呆然としていると、彼女は急に笑うのをやめて、すました顔をして言った。
『僕は彼らに大蛇ボアのことも原始林のことも星のことも話しませんでした。彼らの理解できる範囲にとどめておいたのです。僕は彼らにブリッジのことやゴルフのこと、政治のこと、そしてネクタイのことなどを話しました。すると大人たちは、話のわかる男だと思って満足するのです』
彼女はその絵本の内容を全部そらで言えるらしかった。変な女の子だな、と思った。そしてその第一印象は、僕らが付き合い始めるまで、ずっと変わらなかった。
僕と彼女は付き合いだした。彼女は一学期から図書委員で、僕も二学期から図書委員になった。もちろん友達には、彼女のことが目当てなんだろう? とからかわれた。彼女は基本的に、読書と本が好きらしかった。週に一回は図書委員の仕事という名目で、彼女と一緒になった。彼女はいろんな本を僕に勧めてきた。僕は最初はしかたなく、だんだん面白く、後に熱中して、それらの本を読んだ。
というのも、僕は彼女のことをもっと知りたかったし、彼女の輪郭を理解したいとも思っていたからだ。
僕は変な形で始まったこの関係が嫌いではなかった。もっと分かりやすく言えば、僕は恋をしていた。この時期の、子供らしい甘酸っぱい感覚のことは、今もまだはっきりと覚えている。
僕が東京の大学に進んだ後も、彼女との関係は続いていた。いつものように、メールで本のタイトルをやりとりし、二週間以内に読んで、電話で感想を語り合う。そして時々、彼女は僕の借家にふらりとやってきて、泊まっていく。そんな日常。
大学を出ていいところに就職したら、あるいは彼女が妊娠したら、僕らは結婚するのだろうか。そんな淡い思いを悟られまいと、僕はキッチンで彼女のために朝食の目玉焼きを作る。ベッドから彼女が起き上がる気配がする。振り向いて「おはよう」と声を掛けようとして、僕は寝巻き姿の彼女が泣いていることにようやく気付いた。
「私、死んじゃうんだって。白血病なんだって」
その言葉は、僕の甘っちょろい世界観をぶち壊すのに十分だった。いざ割ろうとして手に持っていた卵が、床に落ちて砕けた。僕はフライパンをあぶるガスコンロの火を止めるのも忘れて、ベッドルームまで歩いていき、彼女の体を前から強く抱きしめた。彼女は泣いていた。涙がTシャツの左肩にシミを作った。そんな些細なことを気にする自分がうらめしかった。
半熟の目玉焼きが完全な炭に変わるまで、煙で火災報知機が鳴り始めるまで、僕は彼女を放さなかった。そうしなければならないと思ったのだ。僕は、彼女が消えてしまうのに耐えられなかったのだ。
「火、止めなきゃ」
涙を拭って、彼女はキッチンに歩いていった。ガスコンロの火を消し、火災報知機のボタンを押して警報を止める。そしてまたベッドルームに戻って、長い髪を揺らして彼女は見事に笑った。
「ありがとう、もう大丈夫。でも、私のせいであなたが不幸になったらって思うと、それが悲しいの」
彼女は優しかった。その涙は、たぶん死への不安からのものではなかった。それは残された僕のことを憂う涙だった。少なくとも彼女はそう言っていた。
一年の闘病生活の末、彼女は死んだ。残されたのは、The Little Prince。『星の王子さま』の、英語版だけ。これが彼女の形見です。そう言って彼女の両親に渡そうとした絵本は、それはあなたが持っているべきだからという言葉と共に、見事に突き返された。
宙ぶらりんになった絵本が、僕の手元に残った。
冬が来て、春が来た。大学の読書サークルに新入生が入ってきた。僕は絵本を、大学の読書サークルの部室の共有本棚に突っ込んだ。僕は愚かにも、その本を捨てて、彼女のことをすっかり忘れてしまおうとしたのだ。けれどもある新入生が、場違いな絵本の存在に気付いて、声を張り上げた。茶髪でショートカットの、目がくりくりとした新入生だった。僕と同じく英語のプリントが入ったTシャツを着ている。
「これ、古い本ですけど、誰の本ですか? 借りてもいいんでしょうか?」
軽いデジャヴを覚えながら、僕は言った。
「この本は僕の私物。貸してあげるから、読んだら僕に返却して、感想を報告すること」
「でもこれ英語ですよ。私、英語苦手なんですよ?」
「大丈夫。僕もそうだったから」
中学校での、放課後の図書室のやりとりが思い起こされ、僕の心臓はしめつけられた。この新入生は彼女の生まれ変わりなのだろうか。いや、そんなはずはない。馬鹿馬鹿しい。どうかしている。
しかし記憶の再生は止まることなく続き、僕は死んだ彼女との思い出を振り返って、一人呟いた。
『すいません……僕のために羊を描いてくれませんか』
僕は自分が『星の王子さま』になったような気持ちがした。何のメタファーかは分からないが、僕にはいますぐ羊が必要なのだった。あるいは僕は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』でいう、『羊つき』になったのかもしれない。いまさらながら、僕は『星の王子さま』を全部覚えていた彼女のことを、ほんの少し理解できた気がした。
それからきっかり二週間後、新入生は読書サークルに顔を出した僕を見つけ、絵本を返してきた。
「先輩。ええと、感想の件なのですが……」茶髪のショートカットの新入生は顔を曇らせる。
「どうせうわばみの話までしか読んでないんだろう?」僕は言った。
「な、なんで分かるんですか!?」
僕は苦笑して、少し大人ぶって言った。
「新入生。いいことを教えてあげよう。この大学の図書館には日本語版の『星の王子さま』が置いてある。英語が苦手だというなら、それを参考にしながら読むべきだったな」
新入生は笑われて馬鹿にされたと思ったらしく、反論してきた。
「笑うなんてひどいですよ。私、英語苦手で、それで英和辞典たくさん引いたんですから!」
「僕も同じく英和辞典をいっぱい引いたんだよ。そして二週間後に思い切り笑われた」
「誰にですか」
「その本の前の持ち主、死んだ元カノに」
読書サークルの部室に、沈黙が落ちた。新入生は自分が地雷を踏み抜いてしまったことにようやく気付いたらしいが、僕は容赦しなかった。
「新入生。ここは読書サークルだ。いろんな人が、いろんな本を読んで、いろんな感想を言い合う場所だ。たまには、彼女に先立たれた可哀想な先輩とかもいる」
続けて、僕は暗唱した。
あるいはそれを言うべきではなかったかもしれない。彼女が死んだことは新入生とは何の関係もないのだから。それでも、言うべき時に言わなくては、一生言えないまま終わるのではないかという恐怖が、僕の口を動かし、台詞を紡いだ。
『だから、僕はこの本を軽々しく読んで欲しくはないのです。その思い出を語ることに、僕はひどい悲しみを感じるのです。僕の友だちが羊と一緒に去ってからすでに6年が経ちました。僕がここに書き留めておくのは、そのことを忘れないためです。友だちのことを忘れてしまうのは悲しいことです。すべての人が本当の友だちを持っているわけではありません。そのうち僕も数字以外に関心を持たない大人たちのようになるかもしれません。だから、僕はもういちど絵の具箱とエンピツを買ったのです』
新入生はそれを聞いて押し黙った。うつむいて、何か深く考え込んでいるようだった。言い過ぎたかな。そんな気持ちが湧き上がってきた。何か声をかけようかと思ったとき、新入生は唐突に顔を上げ、きっぱりと言った。
「先輩。私と付き合ってください。あと、新入生って呼ぶのやめてください。私にも名前がありますから」
僕はその時になって始めて、新入生の名前をまだぜんぜん聞いていなかったことを思い出した。それで新入生は、彼女が愛した絵本を手にとって、誇らしげに自己紹介を始めた。
「私の名前は――」
ああ、そうか。僕は了解する。
だからこの話は、また一冊の絵本から、『星の王子さま』から始まるのだ。