第四話『 夜の風、姫の夢 』
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姫と別れの抱擁と言葉を交わしたあと、乳母は転がるように塔の階段を駆け下りました。
宮殿の通路から通路へと走り、門と言う門をくぐり、掴みかかる兵士たちの腕をかいくぐって、ついに大広間に辿り着きました。
大広間では、今まさに明日の犠牲者を決めるための儀式が始まっていました。
次なる生贄の名前を刺し貫こうと、槍を掲げる王妃の前で乳母は叫びました。
「皆さま、お聞きください! ペルラさまが生贄に志願しました! わたしの娘の代わりに、今宵の生贄になってくださるとおっしゃったのです!」
一瞬、大広間からすべての音が失われました。
その次に起きたどよめきの波は、宮殿を土台から揺さぶるほどでした。
誰も彼も、呼吸する暇も惜しんで話し続ける中、王妃はただ一人、立ち尽くしていました。
仮面のごとく顔を白く強張らせ、息を殺し、手の中の槍を軋むほど強く握りしめながら。
そして、長い長い沈黙の後に、深く深くため息をつきました。
さて、大広間の騒動の後、ただちに王国の重鎮が呼び集められました。
王が倒れた日のように、大臣たちは禿げ頭をつき合わせて、再び話し合いを始めました。
しかし、今度の会議は前回のように長引くことはありませんでした。
先王の長子を塔に閉じ込めたことは家臣たちの良心に釘を打ち込み、魔女の恐怖は石のように彼らの背中に圧し掛かっていました。
口では嘆きつつも、大臣たちは心の中で、生かすことも、殺すこともならぬ不安の種を厄介払いできるのを密かに喜んでいたのです。
日の沈む前に、会議は全会一致で、ペルラ姫の意見を支持することに決まりました。
その日の夕餉に、宮殿の人々はペルラのために小さいが豪勢な宴を開きました。
宴会の席で、ペルラは人形の微笑みを被ったまま、自分をほめたたえる貴族たちの言葉を受け流し、心のこもっていない抱擁や口づけを受け取りました。
宴の参加者たちが、次々に別れのあいさつを済ませる中、最後に残ったのは王妃でした。
王妃は長いこと迷った末に言いました。
「ペルラよ。ペルラよ。我が娘よ……」
そして機械仕掛けのからくりのようなぎこちない動きで、ペルラの肩に腕をまわしました。
こうして、王宮の住人たちは、彼らの王の娘の死を受け入れました。
ただ一人、王国の所有者であるはずの、小さな女王アンブラを除いて……。
ひと月の間、アンブラは母親に言われるまま、大人しく女王の役を演じていました。
王妃も大臣も、自分たちの決断は正しく、アンブラは成長し、変わったのだと思いました。
しかし、それは間違いでした。大きな間違いでした。
いかに小さくなろうとも火は熱く、爪を引っ込めようと虎は虎なのです。
その夜、アンブラは自分の部屋で食事を取っていました。
姉姫が生贄に志願したことを、女王に知らせるべきではないと、皆が判断したからです。
しかし、どんなに上手にすくっても、水は指の間からこぼれ、頑丈な堤防が小さなアリ一匹のせいで崩れることもあります。
給仕をしていた侍女(そう、得意げにペルラ姫の噂を流していたあの侍女です!)が、うっかり口を滑らせたせいで、アンブラは自分が騙されていたことを知りました。
すると、さあ大変です!
小さな女王は、この世で何よりも嘘と侮辱を憎んでいました。
そして、一ヶ月の間ため込んだ分、その怒りの爆発は凄まじいものでした。
アンブラはテーブルの上の料理を全て叩き落とすと、駆け付けた兵士を、まだ中身がたっぷり入っていたスープの壺で殴り倒しました。
そして、気絶した兵士から剣を奪うと、たった一人で姉姫を助けに飛び出したのです。
さて、怪物が現れるようになってから、生贄が逃げたり、自殺をしたりしないように、兵士たちが見張りにつくことになっていました。
王宮にいる者は、ペルラが逃げるとは露ほども考えていませんでしたが、それでも念のために三人の兵士たちが、北の塔に派遣されました。
この運の悪い兵士たちに、燃え盛る怒りの火の玉となったアンブラが、猛然と襲いかかりました。
小さな女王は、抵抗する暇も与えず、三人の兵士を切り伏せ、蹴り伏せ、叩き伏せ。
切り傷、擦り傷、やけどにたんこぶと、ありとあらゆる傷を与えた上で、塔の窓から投げ出しました。
人間離れした怪力で、塔の三つの階にある三枚の扉を全部叩き壊し、ついに四階にあるペルラの部屋についに辿り着いたのです。
これが普通の生贄であれば、アンブラは姉を助け出し、とっくに逃げのびていたでしょう。
ただ一つ、小さな女王にとって誤算だったのは、ペルラが助けを拒み、その場からがんとして動こうとしなかったことでした。
そして、姉姫の説得に手間取っている間に、母上である王妃が、もっと多くの兵士を連れてやってきました。
アンブラは暴れました。わめきました。
自分を捕まえようとする兵士たちに噛みつき、引っ掻き、ペルラの腕にしがみつき、その袖を引き裂いてしまいました。
そして、ついに五人の屈強の兵士たちが傷だらけになりながら、暴れる幼い女王を姉姫から引き離したのです。
塔から引きずり出される瞬間、アンブラは絶望の雄叫びを上げました。
その声の凄まじいこと、まるで心臓を生きながら、抉り出される動物の悲鳴のようでした。
一粒以上、泣いたことのないペルラさえも、妹の叫びに胸が張り裂け、涙が次から次へとこぼれて止まりませんでした。
乳母はドレスの着替えをすすめましたが、ペルラはこの申し出を断りました。
引き裂かれた袖に、まだアンブラの指のぬくもりが残っているように思えたからです。
最後まで残った乳母も部屋から出ていき、ペルラは塔に一人取り残されました。
日は完全に、地平線の彼方に沈み、世界は闇に沈んでいました。
今まで怪物に捧げられた生贄たちは、この時間になると、泣きわめいて王妃をののしるか、兵士たちから逃げようと無駄な努力をするか。
いずれにしても、ひどく取り乱したものです。
しかし、ペルラは……。
ペルラの心は、風のない時の水面のように、静まり返っていました。
その一生を、死と向き合いながら生きてきた姫にとって、死の恐怖は何度も入れたお茶のように味気ないものになっていたのです。
心から、自分の死を悼んでくれるのも、妹と乳母だけ。
思い残すことと言えば、丹精込めて育ててきたアンブラと薬草のことのみ。
死を恐れることはないが、自分の人生を愛したこともないペルラ姫なのでした。
それでも時おり、静かな水面の下を、小さな魚のような感情が、ちょろちょろと顔をのぞかせることがありました。
感情の名前は、好奇心。
これまで、ペルラにとって死とは熱や苦痛、悪夢のような幻覚のあとにやってくる夢のない暗黒でした。
しかし今晩、姫のもとを訪れる死には、はっきりした形が持ち、温かい血と肉を具えているのです。
ペルラは部屋に置いてある本棚の中から、一冊の本を抜き取りました。
それは幼い頃、太陽の下に出ることもできず、哀しげに外で遊ぶ子供たちを見ていたペルラに、父王が与えた本でした。
いく度も繰り返しめくられ、擦り切れたページを開くと、鮮やかな筆使いで描かれた野獣たちの姿が目の前に現れました。
草原に立つ黄金の獅子、森林の中を歩く宝石のような豹、美の化身のごとき虎。
大鷲は翼を広げて山脈を越え、牡鹿と巨大な牛は角をぶつけて雌たちの愛を誘います。
ペルラが死ぬほど憧れ、しかし死んでも手に入れることのできない強靭な肉体を持った、美しく、気高い獣たち。
果たして今宵、自分の肉を食べ、骨を噛み砕くという怪物は、どの動物に似ているのだろうか……。
羊皮紙の上の獣を撫で、想像に耽るうちに、姫は眠りの境界線を踏み越えました。
そして夢と現の狭間でさ迷ううち、ペルラは気付いたのです。
――来たと!
◆ ◆ ◆
月が天の頂点で輝くころ……。
その獣は、まるで王のような足取りで、森の中から歩み出ました。
力強い後ろ足で大地を蹴ると、馬よりも速く、生贄の待つ都へと一直線に走り出しました。
獣の接近を察した都の鳥たちは、夜にもかかわらず、一斉に飛び立ちました。
犬たちは威嚇の唸り声を上げ、獣が街中に入った途端、尻尾を巻いて家に逃げ帰りました。
猫たちは犬のように逃げ出したりせず、夜のように優雅な影をほれぼれと眺めていました。
賢い彼らはあの強くも大きな獣が、自分たちを決して傷つけないことを知っていたのです。
冷たく白い星と月の光に照らされた都は、遥かな昔に滅びた廃墟のように見えました。
都の住人はベッドの中で布団を被り、眠れない夜が早く過ぎることを祈っていました。
兵士たちは兵舎の中で酒と賭け事におぼれ、誰も夜の見張りに立とうとしません。
泥棒たちさえも、仕事を休み、息を殺しながら、夜明けを待っていました。
人間たちを脅かすために、わざと鉤爪で石畳を引っ掻きながら、獣は走りました。
膨れ上がる人間たちの恐怖を、鋭い耳と鼻で楽しみながら、街を駆け抜けました。
そして、何百年もの間、一人の敵も通さなかった宮殿の城壁に近づくと、これを一息に飛び越えました。
宮殿の中に入ってあと、獣は寄り道を繰り返しました。
庭師たちが心血を注いだ庭園で爪をとぎ、花壇の花を丁寧に踏みならしました。
王が妃のために立てた、四季の離宮を珍しげに眺め、海を模して造られた湖に浮かぶ月をすくい、そしてついに辿り着いたのです。
姫君の塔の上にはためく白い旗を見つけると、獣は蔦の這う壁に爪を食い込ませ、まるで地面を歩くように容易に塔を這いぼっていきました。
一歩、また一歩、最上階から漏れるオレンジ色の明かりを目指して……
◆ ◆ ◆
冷たい夜風に頬を撫でられて、ペルラは目を覚ました。
先ほどまで、部屋の中を照らしていた蝋燭は、風に吹き消されていました。
母の手のように優しい風の出所を探ると、開かれた窓があり、窓の先には星明かりに照らされたバルコニーが見えました。
そのバルコニーの上で、くろぐろと横たわっていたのは、姫君の夢。
怪物は金を溶かしたような目を輝かせ、白い牙を剥いて、ペルラに笑いかけました。
第五話『名前のない怪物』に続く。
本当は怪物との会話まで、書こうとしたのですが……。
書きはじめたら、予想以上に伸びて、前後編に分けることにしました(汗)
次の更新は、明日か水曜日になる予定です。