第三話『 白髪の魔女、檻の中の小鳥 』
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日の出と共に、床に伏せた王は、太陽が西の地平線に隠れても目覚めることはありませんでした。
急いで呼ばれた国一番の名医は、国王の脈を取るなり、言いました。
「黒い服を着たご婦人が、枕元に立っておられる」
それは、医師たちの間の言い回しで、もはや打つ手なしと言う意味でした。
愛する妻の死、望まぬ結婚、二人の娘がもたらした喜びとそれ以上の苦悩。
あい続く心労が、もはや若くない王の体から、病気に抵抗する力を完全に奪い去っていたのです。
ペルラ姫は、自分も病の身でありながら、付きっきりでお父上の看病をし、片時もそばを離れませんでした。
アンブラ姫も隣りに座っていましたが、心配しているのは、眠り続ける父ではなく、眠ろうとしない姉姫の方でした。
王宮の大広間では、大臣たちが姫君たちとはまた別の理由で、胸を痛めておりました。
真っ白な髭と髭とくっつけて、話し合うのは、王がお亡くなりになった後のこと。
誰が、この国の玉座を引き継ぐのか、それが問題でした。
大臣たちの禿げた頭を悩ませていたのは、二人いる姫君のどちらにも大きな長所と短所があったことでした。
姉のペルラ姫は英明ですが、生来病気がちで明日をも知れぬ身です。
妹のアンブラ姫は生まれながらの暴君ですが、丈夫で風邪一つ引いたこともありません。
議論はまるで自分の尾を追いかける犬のように、同じところをぐるぐる回り続けました。
それでも、一晩眠らず話し合っているうちに、次第にアンブラ姫を王におす者が増えていきました。
皮肉なことに、ペルラの教育がアンブラを変えたことが、玉座をかけた天秤を、妹姫の方に傾けたのです。
そして、アンブラ姫を支持する者たちを、さらに勢いづかせるような出来事が起こりました。
国王が倒れたその日を境にして、さまざまな妖しいものが王宮の中に姿を見せるようになったのです。
侍女らは人間の顔をしたネズミたちがひそひそ話をしているのを見たと言い、料理人は小鬼が煮込み料理を盗み食いしたと言いました。
青白い顔を血で濡らした亡霊らが昼夜の区別なく王宮の廊下を出歩き、姿の見えない呻き声や泣き声が至る所で聞こえました。
数ある怪談の中でも、特に不気味な出来事は、三日目の夜に起こりました。
その晩、年寄りの召使いが、国王の看病をするペルラ姫たちのために夜食を持ってきました。
寝室を覗いた召使いは、姉妹の影が一つ寄り添っているのを目を細めましたが、すぐに奇妙なことに気付きました。
寝室の燭台は姫君らの右手に置かれてありました。
それなのに影は真後ろに伸びていたのです。
よく目を凝らせば、地面に落ちていたのは影ではありませんでした。
蟻のように黒く小さな生き物たちが寄り集まり、少女たちの影を形造っていたのです。
無数のきらきらと光る目で見つめられ、召使いは悲鳴を上げて逃げ出し、絨毯に躓いて気を失いました。
こうしたことが重なるうちに、廷臣の中に暗い感情が頭をもたげるようになりました。
麹がパンを膨らますように、王宮に跋扈する妖物は人々の心に眠る猜疑心や偏見を膨らませたのです。
そしてあるとき、誰とも知らぬ口が囁きました。
「知っているか。ペルラ姫が生まれになる前、姫の母君はお山の聖者殿のもとへ、子宝を祈願しに行ったそうな」
別の口が、その言葉に応じました。
「俺は見たぞ。聖者の住処に至る石段の上で、姫の母君、前の王妃さまが目に見えぬ何者かにひざまずき、祈るのを……その後だ、程なくして姫さまがお生まれになったのは」
この話を耳にした産婆が言いました。
「わしは見たのじゃ。黒い衣を着た乙女が、お妃さまの枕もとに立つのを。去り際に、その乙女は、生まれたばかりの姫さまの頭を撫でていったが、その指は血と肉ではなく、磨かれた骨で出来ておった。わしは、恐ろしくて息もできんかったわい」
前の王妃の葬儀に参加した神官の一人が、控えめに呟きました。
「拙者は見た、あの葬儀の最中、我が王のお傍に、黒い衣のご婦人が立って、何事か囁いたのを。拙者は、王族のどなたかと思ったが、顔を上げた瞬間、そのご婦人の顔を隠していた絹がはためき、その下にあったのは……いや多くは申すまい。とにかく、王が姫君にあの哀しげな名前をつけられたのは、その直後であった」
そして、アンブラ姫のお付きの侍女が、
「あたし見たわよ! 何時だったか、アンブラさまが癇癪を起されて、お城に火をつけようとしたことがあったわ。ペルラさまが妹さまを捕まえて、止めさせたんだけど……そのとき、アンブラさまの持っていた蝋燭から、火がペルラさまの服に燃え移ったの。でも、あのお方は傷一つつかなかった! 髪の毛一本焦げなかったわ。ええ、そうよ。わたしは見たのよ!」
と、興奮に顔を赤らめ、さも得意げに新米の侍女の耳に吹き込みました。
当時、姫の髪の焦げる匂いに取り乱し、泣き出したことも忘れて……。
宮殿で働きはじめたばかりの少女は先輩の言葉を真に受け、それをまた他の友人に話しました。
噂はまるで生き物のように、人間の口から口へと渡り、その都度、宿主の脳から様々な妄想や思い込みを取りこんで成長しました。
こうして、二日と経たぬうちに、宮殿の片隅で羽ばたいた一つの言葉は、空を覆い尽くすような怪物に生まれ変わっていたのです。
人々は、ペルラ姫の白い髪や銀色の瞳に、美しさだけではなく、不吉な影や薄気味悪さを見出すようになっていました。
こうなると、今まで気にもしなかった姫の些細な性癖も、魔女の特徴のように思えてきます。
「姫は薬草を育てるのが好きだが、あれは魔法の材料なのではないか?」
「誰にも馴れなかった、アンブラさまがなついているのは、魅了の魔力に違いない」
中には、「母上に続き、お父上が病に倒れたのは、もしや……」などと不届きなことを考える者まで現れました。
最初の頃こそ、このような根も葉もない噂に対してうなずく者は余りいませんでした。
しかし、お父上の病状が悪化するのに従って、噂を聞いて首を横に振る者は減り、上下に動かす者が増えていきました。
そして、速やかな毒のように、噂は国の隅々に行きわたり、もはやペルラ姫を女王に望む者は、ほとんどいなくなったのです。
王が床に着いてから、太陽と月が七回、王宮の上を横切りました。
その日、王国を支えてきた大きな柱が、音も立てずに、崩れ落ちました。
国王は、ついに後継者を示さず、愛する娘たちと言葉を交わすことすらなく、眠ったまま息を引き取りました。
残された人々は、しゅくしゅくと王の葬儀を上げ、その後に盛大に新しい女王の即位を祝いました。
大きな王国の大きな玉座には小さなアンブラ姫が、居心地悪そうに座っていました。
母上である王妃さまは後見人となり、姫が大人になるまでの間、娘に代わって国を治めることになりました。
そして新女王即位の宴会が終わったその夜、鬼灯色のドレスに身を包んだ王妃が、ペルラ姫の部屋にやってきました。
ペルラは宴を欠席し、まだ身には喪服を、目には涙を留めたままでした。
王妃は姫の私室を舐めまわすように眺めた後、言いました。
「最近の王宮のうるさいこと、まるで蜂の巣を投げ込まれたみたいだよ。立て続けの騒ぎは、さぞかしその身体に応えただろう?」
「いいえ、お父さまのことで、頭がいっぱいで、何も耳に入りませんでした」
ペルラは泣き疲れ、しかしなおも美しい顔を横に振りました。
王妃は、まるで娘の言うことを聞いていない様子で「そうかい。そうかい」と一人うなずきました。
「とにかく、この宮殿は騒がし過ぎる。こんなところにいては、治る病気も治らないよ。そこで、お前の療養のため、王宮の北にある古い塔を開けておいた。しばらくあの塔で暮らして、静かに病気を治してみてはどうだい?」
ペルラ姫は数秒の間、静かに考えこみ、その後で「お義母さまが、そうおっしゃるのでしたら……」と、大人しく申し出を受け入れました。
王妃の狙いは明らかでした。
アンブラが玉座に着いた今、自分の娘よりも年上の姫君が王宮にいては、何かと都合が悪いのです。
そこで、ペルラが誰にも会わないように、王宮の外れにある塔に死ぬまで閉じ込めようと思ったのです。
聡いペルラは、こうした王妃の思惑を知りながら、あえて逆らおうとはしませんでした。
一言でも不満を漏らせば、その言葉は小さな不和の種を生み出します。
心に野望を秘めた者がその種を見出せば、かならず陰謀の水を注ぐでしょう。
そして、種から生えた剣の形をした根が国を真っ二つに引き裂くことになるのです。
そのとき、苦しむのは罪もない国民であることが、ペルラにはよくわかっていました。
気丈で我慢強いペルラ姫でしたが、二回だけ堪え切れずに、涙をこぼしたこともありました。
一度めは、半身のように愛していたアンブラと永久に引き離されたとわかった時。
二度めは、父上と母上の形見である、一着のドレスを奪われた時でした。
そのドレスは、お父上である国王が、ペルラの嫁入りに備えて、特別に作らせたものでした。
生地には最上の絹が使われ、スカートの上では銀のユニコーンと金の不死鳥の刺繍が踊り、裾や袖を輝かせるのは、夜空の星のようなダイヤ。
そして、ドレスの胸を飾るのは、ペルラの母上が故郷から持ってきた、一つの貝から生まれた七つの真珠で作られたボタンでした。
至高の素材を惜しげもなく使い、最高の職人たちが技術の粋をつくした、それはまさに世界でただ一着のウェディング・ドレスでした。
そのことを知っていた王妃は、「子を産むことはおろか、結婚も出来ぬような娘が、こんな立派な服を持っていても、しょうがあるまい」とでも言わんばかりに、ドレスをペルラから取り上げました。
妹のために一滴、父と母の形見のために一滴、涙をこぼした後、ペルラは泣くのを止めました。
そして、育てていた薬草と愛読していた書物、わずかな身の回りの物、幼いころから世話をしてくれた乳母を伴って、北の塔に移り住みました。
その石と煉瓦で出来た鳥かごの中で、さびしく、孤独に生涯を閉じる運命を受け入れたのです。
奇妙なことに……。
ペルラ姫が北の塔に移り住んでから間もなく、宮殿に溢れんばかりだった亡霊や妖怪たちが一匹残らず、姿を消しました。
廷臣らは顔を見合わせ、噂は正しく自分たちの判断は間違っていなかったのだと、密かに安堵の息を漏らしました。
◆ ◆ ◆
さて、時はさかのぼり、ペルラの母上が『死』に祈り、子宮に一粒の宝石を授かったころのこと。
一匹の大きな『怪物』が現れ、地上の人々を脅かしていました。
この怪物は竜のように恐ろしい奴で、しかも竜よりも恐ろしいことに、人間しか食べなかったのです。
誰もが怪物を恐れましたが、誰もこの怪物の姿をはっきり見たことはありませんでした。
あるものは、怪物が豹のような姿をしていると言いました。
またあるものは、牛のような角を生やしていると言いました。
さらにあるものは、怪物の背中に猛禽の翼を見たと言いました。
本当のことはわからず、人々はただ、星光を遮る黒い毛皮や夜空に響く雄叫び、闇の中に引きずり込まれる悲鳴と輝く金色の瞳で怪物の訪れを知るしかありませんでした。
ただ一つ確かだったのは、この怪物が途方もなく強く、信じがたいほど殺しにくいと言うことだけ。
剣や槍を携えて、怪物退治に出かけたものは数知れず、しかし帰ってきたものは一人もいませんでした。
不死身の竜であれば、怪物を殺せるかもしれないと考え、海を越えて竜を探しに出かけた者もいました。
しかし、苦労の結果わかったことは、怪物と竜が、どうも喧嘩友達のような間柄だということだけ。
言いだしっぺの勇者が竜に食べられたあとは、誰もこのアイディアについて語ろうとはしなくなりました。
その間も、人間の努力を嘲笑うように怪物は、襲撃を繰り返しました。
鋭い爪と牙を逃れる方法は一つのみ、毎日一人ずつ、怪物に生贄を捧げることだけでした。
生贄を断って、戦うことを選んだ場合は、怪物はさらに荒れ狂い、村や街、ときに国を丸ごと食べつくすことすらありました。
ちょうど、ペルラ姫が塔の形をした牢獄に閉じ込められたころ。
この恐ろしい怪物が、ペルラたちの国へやってきたのです。
怪物の到来を察することは、簡単でした。
つぎつぎに空になる村、街道に置き去りにされたぼろぼろの馬車。
それなのに金貨一枚手をつけられていない宝箱、無傷の馬や家畜。
間もなく、怪物はついに宮殿のある王都のそばまでやってきました。
夜な夜な怪物は都の壁を越え、一人また一人と住人たちをさらって行きました。
王妃と大臣たちは一縷の望みを託して、ぴかぴかの槍と鎧で武装した兵士たちを差し向けました。
しかし、予想していた通り、槍は砕かれ、鎧は引き裂かれ、兵士たちは一人も戻ってきませんでした。
すぐさま、王宮で会議が開かれ、すばやく結論が下されました。
その日の内に、都の住人の名前を書いた札が作られました。
札は大釜の中に放り込まれ、王妃その人が槍を握り、釜の中の札を一枚刺しました。
そして、札に名を書かれた家には、生贄の証である白い旗がはためき、その夜、一人の人間がこの世から消え去ったのです。
こうして恐るべき儀式が繰り返されました。
都に住む人々は、生贄の儀式が行われる昼に一回、怪物が忍び寄る夜にまた一回、心臓が止まるような恐怖を毎日味わいました。
しかし、浮世から切り離されたペルラ姫は、このような国民の悲しみや苦しみを全く知りませんでした。
姫が怪物や儀式のことを知ったのは一月たったころ、三十人余りが怪物の胃袋に消えた後のことでした。
その日、乳母に髪をすかせていたペルラは、くしを握る手が震え、冷たい滴が自分の髪に滴り落ちるのを感じました。
振り返ったペルラは、乳母が堪え切れずに、嗚咽と涙をこぼしているのを見ました。
血色の好い乳母の顔は青白くやつれ、ふっくらとした頬から肉がごっそりと落ちていました。
「乳母や、どうしたの?」ペルラは聞きました。「この間まで、愛娘が結婚すると言って、あんなに喜んでいたではないか?」
「おお、姫さま。そのことでしたら、もう終わりました。あの娘はもう結婚することはありません」
「まさか……破談になったの?」心配げに、ペルラが言いました。
「いいえ! わたしの娘は、もう誰とも結婚することは出来ないんです! 私の可愛い孫を生むこともありません! あの可愛い顔で笑いかけてくれることも、もう二度と、二度と……あの子は死ぬのです。今夜、死ぬのです!」
堤を破られた河のように、言葉があふれ出しました。
乳母は全てを話しました。
王国を襲った怪物のことを話しました。
一日に一回行われる儀式のことを話しました。
そして、自分のたった一人の娘が今夜の生贄に選ばれたことを話しました。
ペルラ姫は、大地が雨水を吸い込むように、乳母の言葉を受け止めました。
そして、全部聞き終わった後に、乳母を安心させるように、微笑みながら言いました。
「乳母や、お忘れではないかしら? 貴女の娘は一人じゃないわよ。昔、言っていましたね。赤ん坊の頃、私は貴女の左のお乳を吸い、自分の娘は右のお乳を吸っていたと。ならば、貴女は私の母親も同じ。貴女の娘は、私の姉妹も同然です」乳母の痩せた頬を撫でて言いました。「こんな形でしか、恩返しができないけど……貴女の娘の代わりをさせてもらえるかしら、お母さま?」
「おお、姫さま……もったいのうございます! もったのうございます、姫さま!」
一滴ずつ流れていた涙が、滝のように乳母の両眼からこぼれ落ちました。
しかし、ペルラ姫を引きとめようとはしませんでした。決して、しませんでした。
ペルラは、何も言わずに、白髪の増えた乳母の頭を優しく、胸に抱き寄せました。
第四話『 夜の風、姫の夢 』に続く。