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第十四話『 満ちてゆく月のように…… 』(完結)

この作品は、舞さんのホームページ、Arcadiaにも投稿しております。

http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=original&all=21573&n=0&count=1


 

 長いこと、姫君と小人は、一言も話さずに、お互いを見詰め合っていました。

 ペルラは、礼儀正しい彼女にしては珍しいことに、挨拶も忘れて、じっと小人を観察しました。

 博識な姫君も、こんなに小さな人間を見たのは、初めてだったのです。

 蛇のようにだらだらと尾を引く沈黙を破ったのは、年寄りの小人のほうでした。


「何があったんじゃ! おまえさん、服が血だらけじゃないか」

「あ、これは……」


 壁から漏れる薄明かりの下、ペルラは改めて、自分がどれほど多くの血を失ったか、気づきました。

 この一滴一滴は姫の命、白い服についた赤い染みは、彼女の時間でした。

 もうこの体に残された時間は多くない、無駄遣いする余裕はありませんでした。

 ペルラは顔を引き締めて、小人に聞きました。


「おじいさん、貴方はさっき、この城にはもう私たち以外、誰もいないといいましたね。私はずっと牢屋にいたので、何も知らないのです。外で起きたことを教えてください」

「それはかまわんがな……」小人はちらりと横を見ました。「その前に椅子にでも座ったらどうだい? 娘さん、あんた倒れそうなのを通り越して、今にも死にそうじゃぞ」


 小人に言われるまま、姫らは看守たちが使っていた椅子を出して、腰を下ろしました。

「ふう、この年になると立ち話は応えるわい」小人はでっぷりしたお尻で、椅子のすわり心地を試しながら言いました。


「外で何が起きたか聞いたね。では、こっちも聞こう。あの怪物は知っておるか? おお、もちろんこの国で、知らぬ者などおらん。あまたの王国を食い尽くして、この地に流れ着き、姫君に飼いならされたあのでっかい化け物さ。その怪物が昨晩、王宮の中から逃げ出したのじゃ。

 しかも――ところで娘さん、あんた雪合戦をしたことは? ない? ああ、そうだろうと思ったさ。とにかく、雪で埋まっている坂から、小さな雪球が転がり落ちたと想像してごらん。あの化け物は、その雪だまみたいにどんどん大きくなったのじゃ。それから、泣き叫びつつ、地平線の方に逃げていった。

 昨日の晩、地の果てから山も崩しそうな凄まじい雄叫びが聞こえてきたのじゃ。『ペルラ姫、良くも裏切ったな』、とその声は言っておった。それから『八つ裂き』だの、『丸かじり』とか、若い娘さには話しづらい言葉もたっぷりとな。

 仲たがいした姫が、怪物を殺そうとしたと言う者もおる。いや、王妃が姫に化けて、怪物に毒を盛ったのだと言う者もおる。真相は闇の中じゃ。だが、あの化け物が近いうちに戻ってくるのは確か。そのとき、姫と怪物の間に立ちたい思う者は、誰もいなかったんじゃろうな。みんな逃げてしまったよ」

「アンブラは、この国の女王は、どうしましたか?」ペルラは聞きました。

「あの有名なちびっ子女王さまなら、馬車に乗って、とっくに消えちまったよ。しかし、あれが女王さまを乗せる馬車かね。わしの目には、まるで象を閉じ込める檻のように見えたぞ」


 ペルラはほっと胸を撫で下ろしました。

 少なくとも、これで心配事が一つ減ったことは、わかりました。

 姫はもじゃもじゃの眉に隠された、小人の目をじっと見据えて言いました。


「……それで、お爺さん。貴方は誰もいなくなった城に、火事場泥棒をしに来たわけですね」

「泥棒? このわしが? とんでもない!」


 小人は視線を明後日の方に向け、手でポケット隠そうとしました。

 だが、指の隙間から、きらめくコインや小物の光までは隠せませんでした。

 ペルラはくすくす笑いました。こんなに心から笑ったのは、何時以来でしょう。

 微笑み方を、忘れたような気すらしていたのに……。


「隠さなくてもいいのですよ。ところで、金貨や宝石のピンだけで満足していますか? 私はお城の宝物庫に用があります。手を貸してください。そうしたら、好きなものを持って帰っていいですよ」

「宝物庫のお宝を、このわしが?」

「ええ、貴方の小さな手で持てる範囲ならなんでも」 

「そりゃありがたい! しかし気になることが一つがあるぞ」

「なんですか?」

「その手の中に、足を一本入れてもいいかの?」


 ペルラはまた笑い声を上げました。


 

  

   ◆  ◆  ◆




  こうしてペルラは小人の手を借りて、牢獄を抜け出しました。

 宮殿の地下から宝物庫まで、普通の人なら二十分とかからない程度の距離でしたが、弱っていたペルラにとっては長く、くたびれる旅になりました。

 階段を三段昇るたびに一休みし、日の光を避けながら、半日かけてようやく宝物庫の扉に辿り着きました。


 姫たちにとってありがたいことに、宝物庫の扉はすでに開けられていました。

 よほど急いで運び出したのでしょう。中身はまだ半分近く残っていました。

 自分の背丈より高く積み上げられた宝の数々を前にして、小人は狂喜しました。

 小躍りしながら、目につくものを手当たり次第、ポケットの中に入れて行きます。


 ペルラは小人のあとに続いて、宝物庫の中に入りました。

 燦然と光を放つ宝の間をゆっくりと歩きながら、たった一つのものを探していました。

 やがて、姫の目が部屋の一角に吸い寄せられました。

 そこにあったのは、人の手で運び去るには些か大きすぎる鉄の箱でした。


 ペルラは机ほどもある大きな鉄の箱の前に立ち、髪飾りのピンを使って鍵を開けました。

 鉄の箱の中には、滑らかな檜の箱があり、木の箱の中には乳色の象牙の箱がありました。

 そして、象牙の箱の中にあったのは、ビロウドのように艶やかな黒豹の毛皮の包み。


 その包みを解いて、最後に露わになったのは、白銀の一角獣と黄金の不死鳥。。

 それは父が作らせ、母の形見である七粒の真珠をボタンに使った姫の花嫁衣装でした。

 ペルラは継母の王妃が奪い取った、そのドレスを胸に抱きました。

 父母の愛が幻の温もりとなって伝わり、枯れたと思っていた涙が、頬を流れました。


「なるほど……それじゃ、お前さんがあのペルラ姫だったというわけじゃね」

「はい、その通りです」姫は振り返って、小人に答えました。「ありがとう、お爺さん。これでもう、思い残すことはありません。さあ、私の近くにいたら、危ないですよ。気にいった宝物を持って、早くこのお城からお逃げなさい」

「言われんでも、すぐに逃げるわい……」


 小人は毛深い眉を上げて、きらきら光る黒い目で姫を見上げました。


「じゃが、その前に一つ聞いておきたい。お前さん、ほんとに思い残すことはないのかい?」

「……と言いますと?」


 小人は短い足でよちよちとペルラに近づきました。

 山と積まれていた宝箱の一つによじ登り、姫と目線を合わせてから言いました。


「実はこの城に来る前に、街で石のように歳をとって、石よりも頭の固い医者の爺さんに会ってな……。その爺さんは、隣人の忠告にも耳を貸さずに、人気のない街の中で、お前さんを探しておったぞ。わしはその爺さんに言伝を頼まれたのじゃ。『姫よ、まだ生きておられるなら、私のところへ来ておくれ。薬の心配はいらない。蓄えはたくさんある。何があっても、私は姫を待っている』とな。味方になってくれる者がおると言うのは、ええものじゃな」


 姫は小人の様子が変わったことに気付きました。

 具体的にどこが変わったのか、はっきりと言うことは出来ません。

 ベールに隠されていたものが、針ほどの隙間から、その素顔を覗かせたのです。

 

 だが、嵐雲が近づいた時のように、小人の声を聞くたびに、幾千もの細かい雷が皮膚の下を這いました。

 ペルラは気付きました。

 怪物にも、『死』にも怯まなかった自分が、この小さな老人に畏怖していることに。


「さて、姫よ、どうする?  わしは、あの怪物の手の届かない遠い土地に行く方法を知っておるぞ。そこで、残りの人生を穏やかに過ごしてみたいとは思わんかね? お前さんがただ一言、『望む』と言えば、あの老いぼれ医者のところに連れて行ってやろうじゃないか」


 言葉や理性の及ばない、深い魂の領域で、姫は小人の言葉を信じました、。

 どんな願いであれ、この小人は叶えてくれるだろうと確信しました。

 

 閉じた瞼の裏に浮かぶのは、今までの短い人生の中で、特に短かった幸福な時間。

 老医師の家にいた時は、愛し愛され、生涯で最も充実した日々を過ごすことができました。

 魔女姫も、人食いの怪物も知らない人々の間で行けば、またあの優しい世界を取り戻せるかもしれない。


「しかし」と姫は考えました。

 あんなにも幸せな時間を送ることが、誰のおかげだったのか。

 毎夜毎夜、不器用に手折られた花と一緒に、新しい喜びを与えてくれたのは……。

 最後に脳裏に浮かんだのは、窓辺で月の光を浴びながら、おぼろに輝く一輪の薔薇でした。

 

「いいえ」と姫は答えました。「どうか、あのお医者さまにお伝えください。今宵、この身に何が起ころうとも、それは私自身が望んだこと。そして、私の願いはただひとつ、あの怪物ひとのもとに参ることです、と……」

「ならば、お前さんの願いは、このわしが叶えるまでもない」


 小人は悲しげに笑いながら、首を横に振りました。


「ペルラよ、王の娘よ、魔法使いの子よ。今日、陽が沈むのを待たずして、お前さんの夢は現実となるじゃろう」


 

    

   ◆  ◆  ◆




 気がつけば、ペルラは北の塔にある自分の部屋に戻っていました。

 満遍なく地上を照らす太陽をどうやって避けたのか。

 三階まで続く、螺旋階段をどうやって登ったのか。

 記憶は一昨日の夢のようにあやふやで、掴もうとするたびに手をすり抜けてしまいます。

 ただ、ぼんやりと小さく柔らかな手に、導かれたことだけは覚えていました。


 ペルラは自分の部屋を見渡しました。

 たった一日、留守にしていただけなのに、まるで何十年も経っているような気がしました。

 姫の寝室もそのぐらい時間が流れていたように、さま変わりしていました。

 

 特に目につくのは、床から壁、天井の一部まで走る無数の爪痕でした。

 部屋の中で、椅子より大きなものは、すべて壊されていました。

 丹精をこめて、育てていた薬草は石畳の上で干からびていました。

 大切にしていた書物は、床にばら撒かれ、ページが一枚残らず引き裂かれていました。


 ぐるりと頭をめぐらしていたペルラは、最後に壁の染み付いた血の跡に目を留めました。

 王妃の形をしたその血痕は、誰かに抱きとめて欲しいと、言わんばかりに腕を広げていました。

 最後の最後まで、姫は継母を憎いと思うことは、出来ませんでした。

 苛立ちを覚えたことはあります。怒りを感じたこともあります。

 しかし結局、泥沼で孤独に足掻いていた義母への憐れみが、全てに勝りました。


 ペルラは地下牢から持ってきた、傷だらけのルビーを血痕の足元に供えました。

 頭を下げ、体に残っていた最後の涙を、赤い石の上に落としました。


 姫にとって運の良いことに、砕けた甕の中に、綺麗な水が見つかりました。

 ペルラは半分の水で命をつなぐ薬を飲み下し、残った半分の水で血に汚れた体を清めました。

 そして、父母の形見である花嫁衣裳を身にまといました。

 袖を通した途端、絹と金の糸は、両親の愛のようにペルラの体を抱きしめました。


 これでお迎えの準備は整いました。

 姫は破れて中身の飛び出たクッションを積んで、その上に腰を下ろしました。

 死んだ鳥のように折り重なった本の中から一冊を取り出し、ページを開きました。

 それはペルラが乳母の膝の上で、初めて読んでもらった絵本でした。


 物語はひとりの少年は山の恐ろしい獣を殺し、七人の英雄を倒し、王になるまでを描いていました。

 お話の終わりに、少年王は塔に閉じ込められた姫を救い出し、二人は当然のように結ばれます。

 だが、幸福な結末が待っているはずのページは、怪物の爪でズタズタに切り裂かれていました。

 ペルラは紙の上に走る黒い亀裂に、指を走らせました。

 そこから、文字ではなく、怪物の心を読み取ったのです。


 東の端から、夜がスミレ色の波となって押し寄せてきました。

 闇の潮は塔の根元を洗い、最上階にいる姫のつま先まで押し寄せました。

 ペルラは本を置いて立ち上がりました。

 砕かれた窓の前で、夕暮れに臨みました。


 死に掛けた太陽から、刃のような一筋の光が部屋の中に差し込みました。

 弱々しいその明かりには、姫の皮膚を焼くほどの力はありませんでした。

 その代わりに、紅い光はペルラの花嫁衣裳を火のように燃え上がらせ、七つの真珠を血の粒に変えて見せました。


 そして、西の彼方、マグマのように煮えたぎる地平線から、黒く巨大な影が近づいていました。

 影は動くたびに形を変え、その様子はさながら暗黒の火柱が、大地から立ち上っているかのごとし。

 それは、まるで地獄の釜が、大口を開けたような光景でした。


 しかし、ペルラは動じる様子もなく……。

 初めて会ったその夜のように、蝋燭の明かりに火をともしました。

 初めて会ったその夜のように、手をさしのべ、変わり果てた怪物に言ったのです。


「どうぞ、明かりの中へ。このままでは、お顔がよく見えません」   

 

 姫の言葉に答えるように、怪物の体から生えた無数の獣頭が雄叫びを上げました。

 山のような巨体が、畑や丘を跨ぎながら、目に見える速さでどんどん近づいてきました。

 そして怪物が城下町に一歩、足を踏み込んだ途端、左の肩に生えていた羊の頭がぽろりと抜け落ちました。 

 その次は右の肩に生えた獅子の頭、その次は背中の鷲のくちばし、その次は……。

 一つまた一つ、街を歩いて、宮殿に近づくたびに、体の一部がこぼれ落ちていきます。


 小人は雪だまの例えを使って、ペルラに怪物が膨れ上がっていく様を説明しました。

 今、大きくなった怪物の体はまさに、朝日を浴びた雪人形のように溶け、崩れ始めたのです。

 かなりの労力を払って、宮殿の城壁を乗り越えた時には、怪物の体は元通りの大きさに戻っていました。 


 しかし、なおも怪物は、姫の塔を目指して、進み続けました。

 塔の根元に着くと、石壁に爪を食い込ませて、上へ上へと昇り始めました。

 少しずつ少しずつ、塔を昇るたびに、怪物の体はさらに縮み、衰えていきます。


 ついにペルラのいる部屋のベランダにたどり着いたとき、もう歩く力も残されていませんでした。

 山の洞窟の中にいたあの子供のように、足を引きずりながら、両手の力で、床の上を這い回りました。


「……ペルラ、どこにいる?」


 視力も失われたのか、黄金の瞳も白く濁っていました。

 それでも、砂漠の中で水を求める人のように、怪物は手探りで姫を探し続けました。

 

「ペルラ……いないのか?」


 怪物の声には、残酷な希望が潰えたことに安堵している者の響きがありました。

 そこまでが、ペルラの限界でした。

 姫は蝋燭の影から進み出て、怪物の手に指を伸ばしました。


「貴方、ペルラなら、ここにおりますよ」


 過去への旅の中、姫は闇の中で死に掛けていた子供に、同じように手をさしのべたことがあります。

 あの時、何の抵抗もなくすり抜けた指が、今ははっきりと怪物の体を掴み取ることが出来ました。


 一瞬、怪物の顔はこの上ない幸福に満たされ、つづいて恐るべき恐怖に引き裂かれました。

 悲鳴を上げ、罠にかかった獣のように、その場から逃げようとしました。

 だが、柳のように繊細な姫の手は、鉄の鎖よりもしっかりと怪物の体をつなぎ止めて、離しませんでした。


「どうして逃げなかった!」


 怪物は大声で泣き叫びました。


「なぜ、逃げてくれなかったんだ! 俺はお前に逃げて欲しくて、あんなに叫んだのに! 遠くに行って欲しくて、お前を八つ裂きにしてやるとまで言ったのに!」

「どうして」と姫は聞きました。「私に逃げて欲しかったの」


 怪物はすすり泣き、床を拳で殴って、爪を引っ掻きました。

 母の腕の中でむずがる幼子のように、ペルラの手の中でもがきました。

 だが、最後には逃げ場がないとわかったのでしょう。

 暴れるのを病めて、ぽつりぽつりと、胸の奥にたまった言葉を漏らし始めたのです。


「……以前、俺が話した黒い炎の話を覚えているか?」

「憶えているわ、貴方の話したことは、一言残らず」

「ペルラ、お前と会うようになってから……俺は次第に、憎いとも、苦しいとも思わなくなった。食べた連中の声が聞こえなくなる代わりに、腸を焼く火の熱さも感じなくなった。俺はあの黒い炎が消えたと思った。自分は変わったんだと……でも、それは間違いだった!」


 ちらりと濁った視線を、王妃の血痕が張り付いている壁のほうに向けました。

 牙の間から絞り出す声には、心臓を齧る激しい憎悪が、燃え盛っていました。

  

「あの女に毒を盛られて……やっとわかった。俺の黒い炎は消えていなかった。薄皮一枚の下に隠されて、ずっと燃え続けていた。毒の苦しみが気が遠くなったとき、それが皮を焼き尽くして、外に噴き出した! その時、俺が何を考えていたと思う!」


 怪物は手で覆って、自分の顔をペルラの目から隠そうとしました。

 あまりに力を込めたために、爪が肉を抉り、血が涙のように指の間からこぼれ落ちました。


「俺はお前を食べたいと思った! この世の誰よりも、お前が食いたくて仕方なかったんだ! 王妃をかばったあの日、お前の手から流れ落ちる血を見たときから、いやもっと前から。何とか自分を騙してきたが、もう限界だ。毛一筋だって、お前を傷つけたくないのに……このまま一緒にいたら、俺はお前を殺してしまう!」


 ペルラはそっと顔を覆っていた怪物の手を掴み、どかしました。

 傷と血にまみれた面は、途方もない苦痛にゆがみ、本物の涙に濡れていました。

 姫は黒い毛皮に覆われた肩に頭を預け、怪物の耳元に囁きかけました。


「貴方が心のうちを打ち明けてくれたように、私も貴方に話したいことがあるの。聞いて、貴方が旅をしている間、私も旅をしていた。そして、その旅の中で、全てを知ったのよ」


 そして、ペルラは『死』から見せてもらった光景を、余さず怪物に伝えました。

 怪物は姫の言葉に耳を傾け、全て聞き終わった時に、引きつった笑い声を上げました。


「……お前の名付け親も酷なことをする。これで全て納得がいったが、なんの救いにもならない」

「いいえ、今お話したことの中に、貴方を苦しみから救う鍵が隠されているわ」


 ペルラは顔を起こし、怪物と向き合いました。

 傷つきやつれたその顔を優しく撫でながら、母が我が子に子守歌を唄うように、語って聞かせました。


 つまるところ、怪物が呑み込んだ竜の卵の力とは、このようなものでした。

 夢の結晶である星を含んでいたゆえに、隠された願望を呼び起こすことが出来ました。

 罪がとけた溶岩に包まれていたゆえに、歪んだ欲望を現実に変える力があったのです。

 心の中に食べ物と人肌に餓えていた幼子は、卵の力で人を食らう怪物になりました。

  

 生きた人間を食べて、血肉で胃袋の上を満たし、魂で心に開いた穴を塞ごうとしたのです。

 世界が自分を愛してくれないのなら、せめて憎しみで孤独を紛らわせようとしました。

 でも、それは餓えを満たすために水を飲み、渇きを癒すために雪を食べるようなもの。


 腹の中で自分を呪う相手のおかげで、確かに一時は寂しさが紛れます。

 だが、内臓に響く恨み言が消えた後の孤独は、いっそう耐えがたくなるのです。

 飲めば飲むほどに餓え、食べれば食べるほど虚しさと心の飢餓はつのるばかり。

 これが黒い炎、消すことも出来ずに、怪物の中で降り積もった憎悪の正体。


「私の妹、アンブラは生まれつき、嘘を見抜く力を持っていた。そのせいで、一つの嘘も許せず、周りの人々を傷つけ、自分も酷く傷ついた。あの子に必要だったのは、百万のお世辞よりもたった一言の真実だった。貴方も同じよ。何万人もの犠牲者は必要なかった。貴方の餓えを満たすのに、必要だったのは一人。怪物のために進んで命を捧げる人間が、たった一人いればよかったの」


 姫の言葉を理解するにつれ、恐怖が怪物の体の隅々まで染み込みました。

 と同時に、どうしようもなく熱い感情が、腹の底から込み上げてきました。


「なぜ、そんなに死に急ぐ。お前は生に倦んだのか、それとも死を望んでいるのか?」

「いいえ」ペルラは笑って首を横に振りました。「私は今、生まれて初めて、自分の命を愛しいと思っている。もっと早く貴方に会いたかった。もっとたくさん、貴方と話したかった。もっと……生きたかった。でも、良いの。今、死を前にして私の白い炎は、かつてなく明るく燃えている。だからこそ、貴方の中の黒い炎と釣り合う。だからこそ、貴方を癒す薬になることができる」


 ペルラは手を放しましたが、怪物はもう逃げませんでした。

 姫は何も言いませんでした。黒い獣も何も言いませんでした。

 言葉で何かを伝える時期は、もう終わっていたのです。

 鼓動は胸から溢れ出て、水面の波紋のように混じり合い、時は窓から漏れる光と一緒に凍りつきました。 

 今世界にあるのは姫と怪物、それから司祭のように二人を見守る純白の月だけでした。

 と、姫が近づいてくる怪物の顔を押しとどめました。


「あの……」と言うペルラの耳元まで真っ赤です。

「どうした?」

「私、あまり美味しくないけど」怪物の胸に顔をうずめて囁きました。「我慢して食べてくださいね」

「そんなことはないさ」


口づけのように姫の顔を舐めて言いました。


「ほら、お前はとても美味しいよ」


 


   ◆  ◆  ◆




 見渡す限りの小麦畑を、銀色に輝く一筋の道が貫いています。

 かつて怪物の背に乗った姫が、ほうき星のように駆け抜けたその道を、背の高い影が歩いていました。

 その姿は二本足で歩いていながら、どこか獣めいたところがあり、蠱惑的でありながら、単純に美しいとは言い難いものがありました。

 強いて例えるなら、その生き物はどこか草原の王である獅子に似ていました。


 生き物の体は光の加減によって、黒にも金にも見える不思議な毛皮に覆われていました。

 大股で歩くたび、黒い毛皮の草原の下で、鉄のような骨や水のように滑らかに動く筋肉が見えます。

 どこまでも異形でありながら、骨格は人間のそれであり、歩みは王者そのものでした。

 ペルラ姫の白い火は、怪物の体に会った黒い炎を洗い流し、彼を本来なるべき存在に戻したのです。

 月の光が、鬣のような長い黒髪を、銀の冠で飾りました。


 と、不意に怪物が足を止めました。

 あぜ道に生えた花が、猫のようにそのふくらはぎに擦り寄りました


「どうした、ペルラ、なぜ黙っているんだ」胸元を抑えて、怪物は聞きました。

『私が何時まで、一緒にいられるのだろう、と思って……』怪物の胸から、声が返ってきました。

「その答えなら決まっている。最後までだよ。俺は少しでも命と心を持ったものを食べないことにした」

『そんな……それでは貴方が死んでしまう』

「食べなくたって、死んでしまうさ。この姿になって初めて気がついたのだ。あの谷で自分に呪いをかけた時、憎しみが俺の命となった。憎しみがある限り、怪物は不死だった。剣で傷を広げることは出来ても、痛みを消すことは出来ないからな。だが、お前は俺の傷を癒してくれた、俺の痛みを鎮めてくれた。賢いお前なら、もう分かっているだろ」


 怪物は盃のように満ちた月を見上げていました。

 こぼれ落ちた光に酔いしれたように笑っていました。


「 ――ペルラよ、お前は俺を愛してくれた。姫よ、ゆえにお前は怪物を殺したのだ」


 麦畑を渡る風のように、静寂が二人を包み込みました。

 姫も怪物も、しばらくの間、その静けさを味わっていました。

 やがて、怪物は胸元をさすりながら、その奥で控える姫にささやきかけました。


「なあ、月は毎日見るたびに形を変えるよな。あの月はいったい幾つあるのだろう」

『全部で四種類あると言われているわ』微笑みを含んだ声で、姫が言いました。『でも、本当の月は一つだけよ』

「いやいや、お前は矛盾しているぞ」怪物もどこか楽しそうな声で答えました。「もし、月が一つしかないのならな……」

 

 問いと答えを繰り返しながら、二人の声は地の果てへ消えて行きました。

 恋人の指のように絡み合い、或いは月のように満ち足りながら……。




 Fin 

 


この話は愛の物語です。溢れんばかりの愛が入っております。

前の王妃の夫に対する愛。

若い王の王妃に対する愛。

新しい妃の王に対する愛。

アンブラのペルラへの愛。

乳母の娘と孫に対する愛。

そして、怪物と姫様の愛。

たった一つを残して、他の愛は全て的を外しました。

マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言っていました。

ならば、憎しみの反対とは?

これはそう言うお話しです。


ちなみに、りゅう~と違って、かいぶつ~にはちょっとしたトリックが隠されています。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、ペルラと怪物の微妙な感情を表現するために、この二人の間で『愛や恋』と言った言葉を使いませんでした。

だから、最後の最後まで怪物も姫も、相手のことを『好き』とか『愛している』とか言わなかったのです。

この手法が効果的だったかどうかは……読者の皆さんのご判断を仰ぐしかないですね(汗)

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