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第十二話『 絶望 』

この作品は、舞さんのホームページ、Arcadiaにも投稿しております。

http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=original&all=21573&n=0&count=1





 あくる日、王妃は自ら料理の盆を持ち、侍女らを引き連れて、姫君の塔に登りました。

 出迎えたペルラに、にっこりと笑って言いました。


「見よ、娘や。先日、都の近くの泉で紅玉の鱗と金の背びれをもった魚が取れてな。それを宮廷の料理人に手を尽くして、調理させたのだ。美しいとは思わないかえ? これならお前の怪物の胃袋を満足させるとは思わないかえ?」


 一晩休んだペルラは、いくらか元気を取り戻していました。

 厳しい眼つきで、王妃が差しだした料理を眺めると、取りばしで揚げた魚をひっくり返し、じっくりと調べました。

 すべてが済んだあと、ペルラは彼女にしては珍しく、棘のある声で言いました。


「……お義母さま、私は病弱ではありますが、そのおかげでこの国の誰よりも薬と毒に詳しくなりました。毒見をした私が死なないように、魚の裏側に毒をぬったことは感謝します。しかし、この料理をあの怪物ひとに出すことは出来ません。どうぞ、お引き取り下さい。そして次は毒のついていない料理を持ってきてください」


 ペルラは王妃が怒ったときに備えて、身構えました。

 ところが、王妃は怒るどころか、溢れんばかりに悪意に満ちた笑顔を浮かべたのです。

 義母のその満足げな笑顔を見た瞬間、ペルラは自分が間違いを犯したことに気付きました。

 

「愚かな小娘め。それで知恵比べに勝ったつもりかえ? お前に料理の毒が分からないと、この私が考えていたと思うかえ?」


 ペルラの耳元で、ささやくその声は針よりも細く鋭く。

 次いで王妃は雷のように大きく断固とした声で、周りに控えている侍女らに命じました。


「ペルラを捕らえよ! 思っておった通り、我が娘は乱心のようじゃ、我が王国を脅かす怪物をかばうとはな。傷をつけてはならぬぞ。だが、私の邪魔をせぬように、その子を地下の牢獄に閉じ込めておくのじゃ!」

 

 たちまち、侍女らは姫君を囲み、弱っていたペルラはなす術もなく押さえ込まれました。

 姫は侍女の優しくも容赦のない腕に抵抗しながら、義母の名前を呼びました。

 王妃はそんなペルラの様子を凍えるような眼つきで見つめながら言いました。


「おお、そうじゃ。薄着のドレスで地下牢に入るのは寒かろう。その子の服を脱がし、もっと暖かな服を着せてやるがよい。脱がした服は……あとで私のところに持ってくるのじゃ」


 

  

   ◆  ◆  ◆




 侍女らは命じられた通り、ペルラが着ていた服をはがし、新しい服を着せました。

 宮殿の地下にある、王国そのものと同じくらい古い牢の中に姫を閉じ込めました。

 王族のためにつくられた贅沢な檻の中で、ペルラは苛立ち、ぐるぐると歩き周りました。


 深い焦りと怒りに囚われていましたが、絶望はしていませんでした。

 結局、ペルラがいなくては、怪物を毒殺することは不可能なのです。

 おそらく、王妃は姫を牢に閉じ込め、時間をかけて説得するつもりなのでしょう。

 

 ならば日没まで王妃の要求を拒み通せば良いだけです。

 日が沈んで怪物がやってくれば、姫を牢屋から出さないわけにはいかないのですから。

 そのとき、地下牢の扉の鍵が音を立てました。

 ペルラは足を止め、当然そこにいるはずの義母の姿を求めました。

 

 その瞬間、驚きが痛みとなって姫の胸を貫きました。

 生まれたときから、ペルラは病を通してあらゆる痛みと苦しみを味わってきました。

 だが、稲妻のように心臓を撃つ、これほどの衝撃は今まで経験したことがありません。


 地下と地上を繋ぐ階段の上に立っていたのは、ペルラにそっくりな少女でした。

 白い髪も銀の瞳も、輝くようなその美貌まで瓜二つ。

 着ている服を除けば(侍女らの手で脱がされたあの服です)、まるで等身大の姿身がそこに置いてあるようです。

 

「ほう、さしもの恐れ知らずの姫も言葉が出ないようじゃな」

「お義母さまっ?」少女の声を聞いて、ペルラが喘ぎました。


 姫の顔と王妃の声を持ったその少女は、牢屋にあった松明の明かりの下に出ました。

 そうすると、その顔が思っていたほど、ペルラに似ていないことがわかりました。

 両の瞳がオレンジの光を浴びて、細い金色の切れ込みと化したからです。


「この目が気になるかえ?」からかうように笑いました。「これはわが祖先の置き土産よ。私が『山の王』の出身なのは知っておろう? かの山の上には魔法の泉があり、百年に一度その泉に竜の形をした流れ星が落ちるのじゃ。だが、今から三百年ほど前、山が年老いたか、星の力が強すぎたのか、山肌が崩れて、竜の血が下界まで流れ落ちた。それを口にしたのが、名も知らぬ私の祖先よ。たった一口であったが、以来我が一族は獣のような外見を持って生まれるようになったのじゃ。熊のように大きな者、山羊のように毛深い者、蛇の瞳をもつ者、或いは……狼の牙と虎の爪をもつ者」


 王妃は口元を歪め、その笑みに皮肉な苦みを加えました。


「先王は、ずっとお前の白い髪とお前のアンブラの歯について悩んでおった。自分の呪われた種のせいだと思っておった。しかし、この通り、少なくともお前の妹に関する限り、我が夫君に非はなかったというわけだ」

「では……お父さまが病に伏せたおり、現れた亡霊や子鬼は、貴女の仕業だったのですね」

「うすうす感づいておったのではないか? 勘のよい娘や。竜の血が与えたのは獣じみた姿ばかりではなかったのさ。我が一族は、みな妖術師か魔女なのじゃ。山を動かし、河の流れを変えたと言う伝説の魔法使いほどの力はないが、鷹や犬に姿を買え、雲と風を操り、或いは……」


王妃の手が、ゆで卵のようにつるりとしたその頬を撫でました。


「どうじゃ、似ているとは思わないかえ? 幻とはいえ、たっぷり手間と時間をかけたのじゃ。お前の愛しい怪物もこれは見抜けまい。そして全てが終わった後、下々の者は声をそろえて言うであろう、王の妃にして女王の母、黄昏時に怪物を殺した、魔女の中の魔女とな! もはやペルラを女王にと叫ぶ舌は一枚もなくなるであろうよ」


 毒の蜜を滴らせる花のごとく、ペルラの顔をした王妃は艶やかに美しく笑いました。

 自分に向けられたその悪意の濃密さに、姫は眩暈すら覚えました。

 それでも、ペルラは何とか言葉で義母を説得しようとしました。


「お義母さま、お聞きください。私は今まで王位を欲しいと思ったこともなければ、これから欲しいこともありません。アンブラを、愛しているのは貴女だけではないのです。あの子を傷つけるぐらいなら、私は死を選びます」


 この言葉を聞いて、王妃の顔から表情が消えました。

 ドレスの懐を探り、その中から取り出したものをペルラに見せました。


「ペルラよ、これが何か分かるか?」

「ルビーです。面に大きな傷のある……」戸惑いながら、姫は答えました。

「違う!」


 王妃は咆えました。

 その声の大きさに牢獄の壁までも震えました。


「これは石じゃ、お前が昨晩、忘れて省みなかった石ころじゃ。だが、知っておるか、かつてはこの石を巡っていく度も戦が起き、何千と言う血が台地に流されたのだ。お前が捨てた石ころのために、命を賭けた者もおったのじゃ。清らかなペルラ、優しいペルラ、お前が王位を望んでいないと、この私が知らなかったと思うのか!」

 

 刹那、王妃が被った幻が破れ、その下にどす黒く煮えたぎる感情が外にこぼれ出しました。

 酸に似た憎悪の匂いが牢屋の空気を焼き、姫は背中があわ立つのを感じました。

 自分に対する義母の怒りが、王族の権力争いを越えて、遥かに根深いものであることに知ったのです。

 

「お義母さまのお怒りのほどは良く分かりました。私が目障りとお思いでしたら、今すぐこの王宮から立ち去ります。怪物と一緒に人のいない土地へ移り、そこで誰の目に入らないよう生きていきます。そうすれば、怪物を追い払ったと言う名誉はお義母さまのものになるでしょう。ですから、どうか、どうか、私たちを捨て置いてください!」


 ペルラは冷たい石の床に膝をつき、王妃に懇願しました。

 しかし、慈悲を請うその声は、義母の胸の中で燃え立つ想いに油を注いだだけでした。

 王妃は手に持ったその宝石を、牢屋の壁に打ち付けました。


「この私の怒りが、私の気持ちが分かっただと!」


 宝石がぶつかったところが火花が散り、松明の火が狂おしく身をよじりました。


「ならば、貴様に死んだ薔薇と比べられる花の気持ちが分かるか! 床の中で、夫の口から他の女の名を聞いた妻の気持ちが分かるか! 腹を痛めて生んだ我が子に、目を向けてさえもらえない母親の気持ちが分かるか! 王に、アンブラに、民に、怪物にさえ愛されたお前に、生まれながらの宝石であるお前に、石ころである私の気持ちがわかってたまるかっ!」


 王妃はいく度もいく度も、壁を殴りつけました、石が手を切り、血が流れ出た後も。

 そのたび、ルビーからほとばしる稲妻が天上を焦がし、松明の火は次々に色を変えました。

 憧れの白、妬みの緑、血を流す痛みの赤と悲しみの青を経て、ついには失意と苦悩と苦い紺色に……。


「魔法の力は私の最後の誇りだった。それすらも、お前は魔女の名前と一緒に私から奪い取った。お前など死んでしまえばよかったのだ、あの怪物に食われて死んでおれば、そうすれば――」


 次々と飛び出た叫び声が途切れました。

 そして、喉の奥に詰まった嗚咽と一緒にこぼれ出たのは、


「少しは、お前を愛してやることができたのに……」


 皮膚が破れ、血に濡れた王妃の指から、ルビーが転がり落ちました。

 ふたたび橙色に戻った松明の火が、涙に濡れた二人の顔を照らしました。

 王妃は自分が吐いた言葉に鞭打たれて泣き、姫は知らぬ間に人を傷つけていた惨い事実に涙を流しました。


 もはやここに至っては、どんな言葉も王妃を説得できるとは思えません。

 だが、ペルラは床に座り込んだまま、王妃に向かって手を差し出しました。

 倒れた赤子が母親を求めるように、無心に助けを求めたのです。

 その無防備さ、その無垢さに一瞬、王妃も進み出て、ペルラの手を取るかに見えました。


 しかし、彼女の傷はあまりに深く、傷つけられていた時間はあまり長く、王妃は結局足を止め、姫に背中を向けました。

 最後に呟いたその言葉は、謝罪であったのか、あるいは別れの挨拶であったのか、小さすぎてついにペルラの耳に届きませんでした。

 こうして、義理の母と娘の最後の会話は、嘆きと涙のうちに終わったのです


 

  

   ◆  ◆  ◆




 ペルラを悲嘆と檻の中に残して、王妃は北の塔にある姫の部屋戻りました。

 目の前には、温めなおされ、毒を塗りなおされた揚げ魚が湯気を上げています。

 姫の幻を衣のように纏いながら、王妃は日没と怪物の訪れを待ちました。


 熱く沸き立った感情は潮を引き、後に残されたのは、砂のように不毛な物憂さだけでした。

 牢の中でペルラに吐きつけた言葉の数々が、ただの逆恨みであることを、王妃自身が一番良く分かっていました。

 だけど、王妃は自分の感情を抑えることができなかったのです。 


 半生を通じて、彼女は良き王妃、良き妻、良き母親になろうと努めてきました。

 しかし誰よりも努力してきたのに、その努力が報いられることはありませんでした。

 誰よりも愛して欲しかったのに、誰も彼女を愛してくれませんでした。

 

 一体、誰が悪かったのでしょう。

 誰がこの灰色の人生の責を負うべきなのでしょう。

 自分ではありません。そんなはずはありません。

 もし、過ちを認めれば、唯一支えてくれた誇りが挫け、もう立ち上がることができなくなります。 


 自問自答を繰り返す王妃の耳に、乾いた音が届きました。

 気づけば、太陽は既に地平線に顔を隠し、世界は青紫色のベールに覆われていました。

 夕暮れとともに、怪物がやってきたのです。


 鋭い爪が石をこする音が、次第に近づいてきました。

 掌はじんわりと汗にぬれ、息を吐くたびに、電気のように緊張が背中を走り抜けます。

 そして、怪物がその黒い身体で、夜空を遮りながら、部屋の中に入ってきました。


 王妃は喉もとまで込み上げた悲鳴を辛うじて押し殺しました。

 間近に迫った怪物の姿は見上げるほど大きく、記憶にあるよりもずっと恐ろしく映りました。

 身体が恐怖で痺れるのを感じながら、王妃は何とか声を絞り出しました。


「よ、ようこそ、お待ちしておりましたわ」

「ペルラ……?」怪物が首を傾け、顔を近づけてきました。「元気になったみたいだが、お前、ちょっと太ったんじゃないか?」


 もう少しで跳び上がって、逃げ出しそうになりました。

 完璧な幻を作り上げていたはずなのに、姫の服を着て匂いまで同じだったはずなのに!

 どうやってか、この怪物は、魔法を見破りかけているのです。


 王妃の胃はすくみあがり、血と肉はその場から逃げろと急き立てました。

 彼女をその場に踏みとどまらせたのは、自分を見つめる怪物の金色の眼でした。

 思いやりの篭ったその眼差しの暖かいこと、慈しみに満ちたその声の滑らかなこと。

 王妃の人生の中で、こんなに愛情に満ちた目で話しかけられたことは一度もありませんでした。


 アンブラにはペルラがいました。ペルラには怪物がいました。

 だが、王妃には誰がいたでしょうか?

 彼女は嫌われていました。彼女は疎まれていました。

 一国を治める立場にありながら、彼女はどうしようもなく孤独でした。


 消えかけていた怒りが再び腹の中で燃え上がり、恐怖の闇を押し返しました。

 王妃は獲物に忍び寄る猫のような優しさで、毒料理の皿を捧げました。


「このお魚を食べたおかげですわ、愛しい人。あなたに精をつけて欲しいと、特別に料理をさせたのよ」

「ああ、確かにこいつは美味そうだ……」


 怪物はペルラの振りをした王妃の言うままに、料理に手をつけました。

 尾びれを摘まんで魚を持ち上げると、まるごと口の中に放り込みました。

 狭い部屋の中に、頑丈な歯が魚を骨ごと噛み砕く音が響き渡りました。


 傍らに立つ王妃にとって、息の詰まるような時間が過ぎていきました。

 もし、怪物に毒が効かなかったら?

 たくらみを見破られ、呑み込む前に吐き出されたら?

 蝶の羽根のように薄い時が一瞬また一瞬と積み重なり、ふいに怪物が肩を震わせました。


 それから、血も凍るような雄叫びが、牙だらけの口からほとばしりました。

 怪物の巨体が跳ね上がり、天上にぶつかって、塔をゆるがせました。

 床に落ちてのた打ち、前足後ろ足をばたつかせ、空気をめちゃくちゃに引っ掻きました。

 そして、激しい痙攣の後、血を吐き、ついに怪物は動きを止めたのです。


 怪物の爪を避けて、逃げ回っていた王妃は、恐る恐る倒れた黒い獣に近づきました。

 毛深い前足を爪先で軽く蹴ってみました。怪物は動きませんでした。

 次に体重をかけて踏んでみました。怪物はやはり動きませんでした。


 ようやく怪物の死を確信し、安堵と誇らしさが胸一杯に広がった、そのときでした。

 死んだと思っていた怪物の腕が跳ね上がり、王妃の腰を捕まえました。

 万力を思わせる凄まじい力に、肋骨と内臓が悲鳴を上げます。


「お前、は、ペルラじゃないな……」怒りにまばゆく輝く両目「俺に、何を、食わせた!」


 恐慌に襲われた王妃は、言葉の代わりに雷を呼び出し、投げつけました。

 魔法が生み出した小さな火花は、怪物の中で燃え盛る暗黒の炎にかき消されました。

 しかし、顔をチクリと刺され、激怒にかられた怪物は、王妃の体を力任せに壁に投げつけました。


 壁にぶつかる一瞬前に、王妃の脳裏を今までの人生が矢のように通り過ぎていきました。

 結婚式の日、ベールの間から覗いた若い王の顔、苦痛に始まり、失望に終わった出産、無残に捨て置かれ、鏡の前で積み重なる顔のしわと時間を数えるだけだった日々。

 その全てが駆け抜けたあと、瞼の裏によみがえったのは、花嫁の輿から見た『山の王』の雄姿、ああ夕焼けを浴びてお山の肌は黄金に輝き、山頂には透き通った氷の冠が……。


 一瞬のあとに、体がバラバラになりそうな衝撃が背骨を貫きました。

 そして暗黒が王妃の全てを包み隠しました。

 

 王妃が壊れた人形のように崩れ落ちたあとも、怪物は荒れ狂うのをやめませんでした。

 咆え猛り、ペルラが育てた薬草の鉢をひっくり返し、本棚を倒し、貴重な書物を紙くずの山に変え、手の届くところにあったあらゆるものを壊しました。

 それでも内臓をかじる苦しみの蛇は、その牙を休めようとはしません。


 同じころ、地下牢では、ペルラもまた苦しんでいました。

 怪物の悲鳴は壁を伝わって、地下にも届き、姫の神経をかきむしっていたのです。

 怪物が泣き叫んでいたように、ペルラも泣き叫びました。

 牢獄の鉄格子を叩き、我が身も砕けよとばかり、体をぶつけました。


 と、姫の体の中で何かが弾けたような感触がありました。

 生温かい塊が、泣き声を押しつぶしながら、喉の奥からこみ上げました。

 口を押さえようとした指の隙間から真っ赤な滴が滝とこぼれました。

 

 自分が吐き出した大量の血を、信じられない目で見ているうちに二度目の吐血。

 視界は急速に狭まり、鉄格子を掴もうとした指は空を切って……。

 手折られた水仙のように、ペルラは自分の血だまりの中に倒れて、気を失いました。


 そのとき、怪物はついに激痛に耐えかねて、ベランダから飛び降りました。

 地面に激突し、起き上がり、叫びながらまた走りだしました。

 走るうちに怪物の肩が裂け、その傷口から牙が生えて新しい口が出来ました。

 

 それから一筋、また一筋、黒い毛皮に傷が開きました。

 その傷は全て顎となり、顎は目や鼻や角を備えた新しい首に変わりました。

 山羊のような首がありました。

 虎のような首がありました。

 人のような首もありました。

 まるで体の中に激しい爆発が起きているみたいに、怪物の体はよじれ歪み、変形しながらも膨れ上がり続けました。

 

 王宮の城壁に達する頃には、怪物の体は壁をひと跨ぎできるほど大きくなっていました。

 その壁を押しつぶし、城下町の建物を揺るがしながら、怪物は走り続けました。

 姫君の塔に背を向け、遠く、遠く、地平線の果てまで。

 まるで何かが逃げるように……。


 その晩、怪物が逃げ去った方向から、地を揺るがすような雄叫びが聞こえてきました。

「ペルラ、俺を裏切ったな!」とその声は言いました。「ゆるさないぞ! 絶対に許さないぞ! かならずお前を食ってやるからな!」

 声は夜通し鳴り響き、そのせいで都の住人誰一人眠ることさえできませんでした。


 城下町の住人は不安にかられて王宮の扉を叩き、王宮は混乱の極みにありました。

 姫君の塔で王妃は義娘の服を着たまま見つかったのも不思議でしたが、それ以上に不可思議だったのは、ペルラ姫がどんなに捜しても見つからなかったことです。

 実は王妃の侍女らは姫の居場所を知っていたのですが、彼女らは血を吐いて倒れたペルラを死んだものと勘違いし、女王の逆鱗に触れることを恐れて、とっくに逃げていたのです。

 

 打つ手も見つからぬまま、廷臣らはついに命惜しさに王宮から逃げ出す道を選びました。

 そのとき宮殿に残ろうと言う人間は二人しかいませんでした。

 

 一人はペルラの乳母でした。

 乳母は行方不明の姫を探すために、城に残ろうとしました。

 しかし、彼女は愛娘と生まれたばかりの孫の涙にほだされ、「姫は先に逃げた」との言葉を信じて、最後には王宮から落ちのびました。


 もう一人は、ペルラの妹であるアンブラ女王その人でした。

 女王は怒り狂って剣をふるい、自ら軍を指揮して怪物を迎え撃とうとしました。

 だが、王家の血を惜しんだ家臣らは、薬で女王を眠らせると、こっそり彼女を王宮から連れだしました。


 そして、寂れた王宮に、血の中で眠り続けるペルラがただ一人で取り残されたのです。

 

 



 第十三話『 名付け親の贈りもの 』へ続く




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