第十一話『 炉の中の火、咆えぬ虎 』
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西に傾きかけていた太陽は、夜の君に天の玉座を譲り、闇の衣をまとった月や星が開け放たれた窓から、塔の中を覗き込みました。
塔の最上階では、地上の月であるペルラ姫が夜よりも黒い怪物の毛皮にしがみ付きながら、泣いていました。
姫君の涙も悲嘆も尽きることなく、怪物はどうすることも出来ずに、ペルラを抱いたまま、彼女を慰めることしかできませんでした。
やがて流れ出る涙と共に体力も限界に達し、ペルラは怪物のたてがみを掴んだまま、泥のような眠りに落ちて行きました。
姫君が目覚めないのを確かめると、怪物は鋭い爪でたてがみを切り、ペルラをベッド寝かせてから、そっと離れました。
そして、心配そうに姫の方を何度も振り返り、幾度も心の中で詫びながら、昼のあいだ棲家にしている森へ戻りました。
目覚めた姫が傷つき、さらに酷く嘆くことはわかっていました。
しかし、他にどうすることが出来たでしょう。
怪物がそばにいる限り、姫の世話をする人間たちは塔に近づけないのです。
天球が一巡して、怪物と一緒に夜が地平線の彼方に去り、再び太陽が顔を覗かせたころ。
廷臣たちを引き連れ、王妃が北の塔の階段を登り、姫の部屋の扉を叩きました。
王妃は返事も待たずに、部屋の中に踏み込み、目を覚ましたばかりのペルラを言いました。
「娘や。今朝、忠実な兵士らより、奇妙な報告があった。あの怪物の住む森から、お前の塔まできらめきが、星の足跡のごとく続いておったそうな。近づいて拾ってみれば、なんと、これがすべて形も色も見事な宝石であったとか。何か心当たりはないかえ?」
ペルラは義母の問いかけに答えませんでした。
それどころか、今が朝であること、部屋の中に自分以外の人間がいることにも気付いていないようでした。
「行ってしまった」呟く声には血が滲んでいました。「あの人が行ってしまった。そばにいてくださいとあれほど言ったのに……」
ペルラの様子がおかしいことに気付いた王妃は、そばに歩み寄りました。
子羊の毛皮のスリッパを履いた爪先が、何かに硬いものに躓き、そして――姫を除く、その場にいた全ての人間が驚きに息を呑みました。
一番最初に目についたのは五重塔を象り、七種類の宝玉で飾られた重い黄金の王冠でした。
それから、太陽の涙のような黄色のダイアモンドに、砂漠の王が焦がれ死んだと言う滴るような緑のエメラルド。
少し傷がついていますが、王妃の掌に余るほど大きなルビーもありました。
名高く、歌にも唄われた伝説の宝の数々が、暗い蝋燭の光を浴びて、あちらこちらで赤く鈍く輝いていたのです。
たちまち、王妃もお付きの廷臣たちも我を忘れて、床に転がる宝物を拾い集めました。
その騒ぎの中で、ペルラだけは回りに血生臭い宝物に目もくれず、自分の手元だけを見つめていました。
姫君の指の中にあったのは、夜の切れ端のごとく黒い怪物のたてがみ。
血が出るほど強く握り締めたその一束のうえに、また新しい涙がこぼれ落ちました。
◆ ◆ ◆
さて、王妃と廷臣らが豪華極まりない収穫を手に、急ぎ足で立ち去った後、姫君の塔に近づく一組の影がありました。
ひとりは姫の世話係である乳母、もうひとりはペルラの妹であり、この国の女王であるアンブラその人でした。
見張り番の兵士が慌てて、塔に入ろうとする二人を遮ろうとしましたが、小さな女王の一睨みを浴びてその場に凍りつきました。
その眼差しはこう言っていました。
「わたしはお前の女王だ。今はそうではないかもしれないが、いずれはそうなる。一言でも気に障る言葉を吐いてみろ! その無礼な舌を切り取って、きさまの頭に釘で打ちつけてくれるぞ!」
今や石像になりきっている兵士の隣りを、ゆうゆうと通り抜けて、女王は塔の階段を登りました。
部屋の門を開き、悲しみにやつれたペルラを見たとき、乳母は心痛のあまり悲鳴を上げ、アンブラは声を出しませんでしたが、喉の奥で猛獣のような唸り声を漏らしました。
アンブラと乳母は力をあわせ、ペルラから服を脱がせ、暖かな湯でていねいに身体を拭いて、優しくベッドに寝かせました。
その間、姫は血の通わぬ美しい人形のように、なすがままになっていましたが、ときおり思い出したように愛しげに妹君の琥珀色の髪を撫でるのでした。
そのたびに、小さな女王は鼻の奥に刺すような痛みを感じ、目が涙で一杯になりました。
半年近くのあいだ、アンブラは母親である王妃とペルラ自身の命で、塔から遠ざけられていました。
もちろん、それにはちゃんとした理由がありました。
半年前、ペルラは初めて、愛しい妹を怪物に紹介しようとしました。
ところが、怪物と女王は顔を合わせるなり、まるで不倶戴天の敵同士のようにいきり立ったのです。
アンブラは赤茶色の髪の毛を根元から逆立て、毒蛇みたいにしゃーしゃーと威嚇の声を上げました。
怪物もまた、赤ん坊の虎をからかう獅子のごとく、牙を剥いて怒り狂う女王をせせら笑いました。
ペルラが急いで妹を怪物から引き離さなければ、その場で凄まじい殺し合いが起こっていたのは間違いないでしょう。
その結果、小さな女王が死せる女王になっていたこともまた……。
虎と獅子は一つの森では、暮らしていけません。
その気性も姿も、ペルラを慕っているところも含めて、アンブラと怪物はあまりに似すぎていたのです。
大切な妹を守るために、ペルラがアンブラを怪物の立ち寄る塔から閉め出したのも無理からぬことでした。
しかし、遠ざけられたせいで小さな女王は姉君と怪物の間に何が起きたのかを知りませんでした。
二つの心が響き合ったことも、姫君と怪物が一つの体を持っているように離れがたい存在になっていることも知りませんでした。
何も知らないアンブラにとって目に見える事実こそ全てでした。
山猫のように光る眼に映ったのは、透き通るほど痩せた青白い裸体、痛々しいほどに浮き出た肋骨。
ほっそりした肩には太陽の激しすぎる口づけのあと、銀色にひきつった火傷の痕跡がありました。
ペルラの眼もとには一晩中泣き明かしたあかしが残っていました。
アンブラは尖った舌を伸ばし、姉君の涙を舐め取りました。
その味は口には苦く、はらわたの底で蛇の毒よりも熱く煮えたぎりました。
◆ ◆ ◆
さて、ここでペルラの妹である小さな女王についてちょっと話しておきましょう。
怪物が姫君のそばで暮らすうちに変わっていったように、姉君から引き離されている間、アンブラの身に同じように変化が訪れました。
姫君であったときも、女王になったあとも、アンブラにとって姉姫こそは唯一の理解者であり、道を照らしてくれる太陽でした。
ペルラから引き離された後、女王の激しすぎる性格と溢れんばかりの活力は、光を見失いねじ曲がったまま、成長を続けました。
今も昔も宮廷の人間たちにとって恐怖の的でしたが、その恐怖の質が変わりました。
以前の女王は気の狂ったやかましい子猫であり、突然現れては雷鳴とともに立ち去っていく通り雨のような災害でした。
だが、今のアンブラは王宮を支配する神、それも常に血に飢え、いつ牙を剥くかわからない恐ろしく冷酷な女神でした。
アンブラはもう大声で喚き散らしながら、暴れるようなことはしなくなりました。
代わりに、無言で壁紙を引き裂き、何の前触れもなく高価な壺を床に叩きつけました。
アンブラは怒りに我を忘れて、侍女や召使いを殴りつけることはしなくなりました。
代わりに、爪で血が出るほど侍女の肌をつねり、針で召使いたちを刺して回りました。
このとき、女王のお爪は伸びに伸びて三センチ余りになり、その先端は鉄の板に傷痕を残せるほど鋭利でした。
またその針と言うのは、髪の毛のように細く、血を流さずに骨に響くほど酷い苦痛を与える残忍な道具でした。
西の国には、このようなことわざがあります。
炉の中に隠されてこそ、火はもっとも熱く燃えると。
また東の国には、このようなことわざがあります。
吠え声を上げず、静かに忍び寄る虎こそ、もっとも恐るべしと。
愛する姉から引き離されたこと。
息も詰まるような宮殿にただ一人孤立し続けたこと。
合い続く不幸は幼い女王の心に深い傷を残しました。
傷口から溢れ出た血は、アンブラの魂の炎に新たな彩りを添えました。
夜の一番深い闇に似た色合いを。
あるいは怪物の毛皮によく似た色合いを……。
◆ ◆ ◆
その夜、王妃はペルラの寝室から持って帰った何十個もの宝石を眺めていました。
王妃のお気に入りは、傷の付いた大きなルビーでした。
その傷物の紅玉は、怪物が持ってきた宝物の中では大した値打ちものではありませんでしたが、何故か王妃はその石に強くひきつけられるのを感じました。
石に透かした明かりをうっとりと味わっているうちに、視界の端で何か動くのが見えました。
次の瞬間、王妃は口から飛び出しかけた悲鳴を、辛うじて掌で抑え込みました。
蝋燭の光が生み出した錯覚でしょうか、一瞬、王妃の目には奇妙なケダモノがそこにうずくまっているように見えていたのです。
「ま、まあ、女王陛下。ノックもなさらず、どうしたというのですか?」
震える声で、扉の影に佇んでいるアンブラに声をかけました。
心から自分が産んだ娘を愛していたものの、彼女の激しすぎる性格を同じくらい恐れてもいました。
「お母さまが、こんなに遅くまで何をなさっているのかと思って……」
小さな女王はゆっくりとした足取りで蝋燭の明かりの中には入ってきました。
王妃は戸惑いを隠せませんでした。自分のお腹の中から出て以来、アンブラが母親にこんなに優しい言葉をかけたことはありませんでした。
鋭い爪の生えた指を背中に隠し、はにかんだ微笑みで獣のような牙を隠していると、アンブラはまるで年相応の愛らしい少女のように見えました。
しかも、その声の甘さときたら、
「お仕事も大事ですが、お母さまのご健康はもっと大切です。貴女さまは、私にとってなくてはならないお方。愚かにも最近、ようやくそのことがわかってきたのです」
「ま、まあ、なんともったいないお言葉……」
王妃は恐怖以外の感情で、胸が熱く震えるの感じました。
長い間餓えていたもの、肉親の愛情に満たされ、涙で目が見えなくなりました。
そう私はずっと信じていたのよ。私のアンブラはあの女の娘にけっして劣らない、美しくて賢い子だと。いつか女王に相応しい人物になると。誰も気付かなかったけど、私だけは、私だけは!
「あの恐ろしい怪物が、陛下の姉さまに贈り物を持って来たのです。姉さまはお疲れのようだったので、私が代わりにその宝石の見聞をしていました。ああ、ご覧くださいませ、このダイアの美しいこと!」猫撫で声で言いながら、宝石の一つを差し出しました。
「へえ、まあまあ、と言ったところかしら?」
アンブラは渡された宝石を指の間でもてあそぶと、テーブルの上に放りだしました。
王妃は顔をしかめて、
「ああ、なんということを。それは太陽の黄玉と言いまして、聖人の手で掘り出され、太陽神の像の眼に嵌めこまれ、何万という信徒に崇められていた、たいへんな宝物なのですよ」
「そう。確かに、ここにあるのは、あの怪物の宝物の中でも一番大きな宝石の一つかもしれない。でも、怪物の蓄えの全部じゃないわ」
長い爪で、宝石をおはじきのように弾きながら、アンブラが言いました。
王妃は返事に困りました。
血がつながっているにも関わらず、娘が何を言っているのか分からなかったのです。
アンブラは口元に謎めいた微笑みを浮かべたまま、母親の側にそっと体を寄せました。
「あの怪物が滅ぼした国の数を思い出して下さいませ、賢いお母さま。あいつの寝床にはきっとこの何倍ものお宝が眠っていますわ」
「え、ええ、そのとおり。でも、それは決して手に入らない宝物よ」
「怪物が生きている限りは……なら、簡単じゃないですか」
くすりと笑って、アンブラは蜜のような声で王妃の耳に毒を注ぎました。
「あの怪物を殺しましょうよ」
雷で撃たれたように、王妃は飛び上りました。
指の先まで震えながら、信じられないものを見るような目で、娘の顔を見下ろしました。
「なんという、なんという恐ろしいことを言うのです!」
「どうして、優しいお母さま? 私はそんなにおかしなことを言ったかしら?」
「殺すなどと……あの怪物を怒らせるだけです。陛下も御存じでしょう。あいつは槍でも剣でも殺すことは出来ないのですよ」
「怪物を武器で殺せないことは間違いないわ。でも、毒ならどうかしら?」
「毒でも駄目です!」王妃は叫びました。「あいつに毒は効きませんわ。何故なら……」
「何故なら、怪物は生きた人間以外食べないから。そして、人間一人を殺す程度の毒では怪物を殺すことは出来ないから」女王は歌うように言いました。
「でも、今はそうじゃない。そうでしょ?」
王妃は絶句しました。
黙り込んだ母親の逃げ道をふさぐように、アンブラはじわじわ近寄っていきます。
気のせいでしょうか?
蝋燭の明かりの外に出た時に、女王の体がうっすらと光を放っているように見えました。
アンブラは王妃の手に自分の手を重ね、耳元に唇を寄せて、さらに言葉をささやきかけました。
「想像してごらんなさい、ああお母さま、怪物を殺したあとのことを。この国すべての人間が声を揃えて、お母さまをたたえるわ。見て、あの人を、王の妻にして女王の母。女の身でありながら怪物を殺し、天の下に並ぶ者なき英雄となったあの女性を! そして、お母さまの足元には怪物の死体とその宝が横たわるのよ」
アンブラの目が王妃を覗き込んでいました。
王妃は、その目の中に果てしない栄光と歓喜に包まれた自分の姿を見ました。
黄金を溶かしたように輝くその両目の中に……。
「ああ、でもまだお姉さまがいるわ。怪物の食事は、あの方も毒見をするのですよね」
アンブラは今さら思い出したように付け足しました。
「もちろん、賢いお母さまには、どうすればよいのか、もうおわかりなのでしょうけど」
姉君は傷つけないように、怪物を殺せと釘を刺したのです。
王妃はもう何も言い返しませんでした。
第十二話『絶望』へ続く
ペルラの父親がなくなった章で一部が抜けていることに気付きました。
アンブラの出生や次の章に関わる大事な伏線なのに!!
早いうちに修正するように気をつけます(汗)