第十話『 果ての見えない奈落 』
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怪物が王妃を襲ったその日を境に、ペルラは再び孤独の衣を纏うようになりました。
他の人間を塔に招き入れるのは昼の間だけ、夜になれば親しい乳母と言えども、容赦なく塔の中から締め出しました。
そして、日が沈んでいる間は、病弱な身体に鞭打って、身の回りのことも、怪物の食事の給仕も全て一人でこなしました。
今になってようやくペルラは、知らないとはいえ、自分がどれほど危うい綱渡りをしていたのか、分かりました。
塔に出入りする人間が怪物に慣れることはあっても、怪物が人間に慣れることはありません。
小さな間違いや些細な行き違いで怪物がかんしゃくを起こせば、いつでも血が流れ、命が失われる危険があったのです。
恐れは幸福に浮かれていた姫の心に冷水を浴びせ、瞼を開かせました。
目の前を覆っていたもやが晴れて、初めて見えたのは未来へ通じる二本の道。
王国の民を生かすために、自分を信じてくれた怪物をだまして飢え死にさせるのか。
それとも、怪物を生かすために、自分を慕ってくれた人々を生け贄に差し出すのか。
一つ目の道は冷たい闇に消え、今一つの道は真っ赤な血の海の中に沈んでいました。
闇の道を選ぶにはペルラはあまりに優しく、血の道で狂うにはあまりに賢すぎました。
姫が選んだのは第三の道、民衆も怪物もひとしく救う方法を探すことだったのです。
しかし、それは例えるなら砂漠の中に一粒の宝石を求め、麦わらの中の黄金の糸を見出そうとするようなもの。
もっとも険しく、厳しく、苦しみ多くして、報われる可能性は限りなく少ない道でした。
ペルラは希望を過去に託しました。
怪物の正体とその憎しみの理由さえ分かれば、この出口の見えない迷路に一筋の光が差し込むかもしれないと思ったのです。
けれども、時の川をさかのぼるにしたがって、伝説や噂は数を減らし、姫はついに怪物にまつわる人々の記憶の源流に辿り着きました。
ペルラが怪物のことを調べ始めてから、どれほどの学者や哲人、僧侶らが北の塔を訪れたでしょうか。
しかし、最後に姫の塔に足を踏み入れたのは、哲学にも学問にも縁のなさそうな太っちょの行商人でした。
商人はたっぷりと脂肪の詰まった腹を抱え、ひいひい呻きながら階段を上り、汗だくになった身体をペルラの足元に投げ出し、跪きました。
「これはこれは姫さま。このたびは、あっしのような卑しいしもべにお声をかけてくだすったこと。まことにまことにありがとうございます」ここでちらっとたるんだ瞼の間から姫の様子を伺い「いやはや、まったく噂に違わずお美しいお方でござります。まさに真珠の中の真珠、銀の中の銀。あけ行く空の彼方に浮かぶ月のごとき―――」
「顔をお上げなさい」商人の言葉を遮って、姫が言いました。
「今日、貴方を呼んだのは、お世辞を聞くためではありませんよ、お爺さん。私が欲するのはまことの言葉のみ。真実には銀を持って報いますが、いつわりにはいつわりに相応しい報いが与えられるでしょう」
商人は命じられるままに顔を上げ、噂に名高い、白い姫君のお姿を眼に焼き付けました。
姫の美しさは蜜酒のように老いた心を蕩かせましたが、目から溢れる知性は氷の刃となって商人の背中を撫でました。
(こりゃ心してお答えせねばならんようじゃ)冷や汗を流しながら、商人は世間知らずの姫君のために用意した血沸き肉躍る冒険や砂糖のように甘い恋の作り話を心のひだの中に仕舞い込みました。
「貴方は怪物を見たことがあるそうですね」
「はい……ああ、いいえ。見ることには見ましたが、あっしが目にしたのは、怪物そのものじゃなくて、そいつの影の影みたいなもんだったのです。ありゃはあっしがもっとスリムで男前だったころのことです……」
まだ若かったころ、商人は儲け話を求めて国中を旅しておりました。
財布も腹も空っぽのときが多かったのですが、胸にはいつも満杯の野心が燃え盛り、若い手足は疲れを知らず、商人を国の隅々まで運びました。
そして十と八年前のある日、ついに国境のはしのはし、老いた獣の牙をかたどった荒山のふもとに、しがみつくように息をひそめている小さな村に至ったのです。
この村は見るからに貧しく、みすぼらしく、銀貨はおろそか銅貨すら見たことがないようなお百姓たちが暮らしていました。
男は商人らしい親しげな態度で村人たちに接しました。つまり、網のように甘い言葉を投げて、漁師のように村人の懐をさらおうとしたのです。
ところが、岩山と同じ灰色の顔をした村人たちは商人の言葉に耳を貸さず、(商人いわく)珍貴な品物を見ても、興味を示すどころか唾を吐きかけようとしました。
ふつうの物売りならば、痩せた意地悪な雄鶏たちに呪いの言葉を浴びせ、もっと純朴なよく太った鴨たちのいる土地に向かったことでしょう。
しかし、雄鶏のように誇り高くも冷たい村人たちの態度は、商人の中に眠る一匹の獣を目覚めさせてしまいました。
ほら、数多の英雄や賢者たちを破滅に追い込んだ、あの猫によく似た魔性のケモノ……好奇心です!
商人は石のように頑なな村人の中では口の軽そうな男を一人探しだすと、その男を酒場に誘いました。
酸っぱくも薄い安酒で攻めること六杯、商人はついに酔いつぶれた男の心の城門を突破し、その中に隠された秘密を暴くことに成功しました。
その秘密とはこのようなものでした。
いわく、この地には力強き神がおわし、村人らは一年に一度、秋の満月の夜に岩山にある秘められた祭壇に赴き、秘密の神を祭る秘密の儀式をするというのです。
岩山の神はまた恐るべき荒神であり、そのことを余所者に話すのは御法度、もし儀式を見られたのならば、かならず血を流して許しを請わねばなりません。
そして、商人が村にやってきたのはまさに秋、その夜の月は杯のように満ちようとしていました。
古来より、鍵を閉めれば必ず開けられ、塀を造ればそれを乗り越えようとする者が出てきます。
見るなと禁じれば禁じるほど、余計に眼を見開くのが人間の性と言うものです。
商人はさらに三杯、安酒をおごって口の軽い男を酔い潰すと、荷物をまとめて村から出て行く振りをしました。
道の途中で引き返し、遠い昔に死んだ薮の残骸の中に身を潜め、じっとそのときを待ちました。
そして夜、果たして男の言った通り、村から松明の行列が現れ、荒山目指して行進を始めました。
商人はじっと息を殺しながら、村人の列の後ろに付いていきました。
いく度、足を止めて、安全だが退屈な行商の旅に戻ろう、と思ったことでしょう。
天を貫く山々の穂先は真っ黒、その間を歩く人々の列は、さながら地獄の山脈を彷徨う亡者の群れのように見えました。
しかし、足を止めるたびに、好奇心の獣が長い尻尾で背中を鞭打ち、商人はまたしぶしぶと村人たちのあとを追って歩き出すのでした。
ついに一行は枯れた河で出来た谷に辿り着き、村人たちはそこで足を止めました。
手に持ったいくつもの松明が、枯れ谷の不気味な光景を照らしてします。
正面、小さな人影らにのしかかるようにそびえ立つのは、黒曜石を削って造った神の像。
その顔は見るも恐ろしく、まるでライオンの身体に人間の首をつけたような姿をしています。
そして獣神の足元、松明の赤い光を受けてきらきらと輝いているものがありました。
あれは無数の骨、少年や少女、もっと小さな子供、あるいは……。
そのとき、甲高い泣き声が儀式の荘厳さに凍りついた夜の闇をつんざきました。
獅子の仮面をかぶった神官が、村の女から何か包みのようなものを取り上げたのです。
商人は恐怖に心臓をかじられながらも、もっとよく見えようと、隠れていた岩陰から身を乗り出しました。
神官の持っている包みの中から、丸々とした小さな足が見え、手が見え、涙で潤んだ黒い瞳が商人の目を覗きかえしました。
商人は冷や汗でつま先までずぶ濡れになりながら、なんとか自分のほうをじっと見つめる赤ん坊をあやして、黙らせようとしました。
ここで見つかれば、命はありません!
商人の必死な形相がよっぽど可笑しかったのでしょう。
赤ん坊は涙を忘れ、口元を押さえてくすくす笑い、隠れている商人に向かって手をパタパタと振りました。
(商人は恐怖のあまり、もうちょっとで気を失いそうになりました)
しかし、儀式に夢中だった神官は何も気づかず、角で出来た杯から酒のようなものを赤ん坊に飲ませました。
気づけば神官も村人たちも姿を消し、商人と赤ん坊は二人きりで、獣の神の前に取り残されました。
先ほど飲まされた薬のせいか、赤ん坊は目を擦り、可愛らしくあくびをすると、祭壇の上で横になり、すやすやと眠り始めました。
その小さく、あまりに無防備な姿を見ているうちに、商人の心の中に恐怖や好奇心を押しのけて、新しい感情が込み上げて来ました。
この子を連れて逃げ、守り育てたいと言う、強い強い思いでした。
しかし、祭壇に向かって一歩足を踏み出そうとしたそのとき、遠雷のような音がごろごろと山肌を震わせ、小石の雨を商人の頭の上を降り注ぎました。
とたんに恐怖が全ての感情を押しつぶし、商人は悲鳴を上げながら、その場から逃げ出しました。
神に、祭壇に、夜に、そして何より助け育てるはずだった幼子に背を向けて……。
「今でもどきどき夢に見るのです」赤くなった目から涙をふき取り、鼻を啜り上げて言いました。「あっしが見捨てたあの子のことを。あの子につけるはずだった名前のことを考えるのです。男の子だったらシャムシャール、女の子だったらシャルトル……きっと美しく育ったはずです。赤ん坊のときですら、あんなに愛くるしい子だったのですから。でも、あっしにどうすることができたでしょう? あっしは戦士でもなければ、呪い師でもありません。ただの商人なのです。そしてあの枯れ谷には何かがいました。何かは分かりませんが、恐ろしい何かがっ!」
ペルラは商人が描いたという、獣の神の絵を見ました。
確かに、いくらか怪物に似ているところがないではありません。
しかし、この絵には牛のような角がありません。
背中に曲がった翼もなく、あの蛇のような尻尾も見当たりません。
「その村がどこにあるのか教えてください。村人を呼んで話を聞きます」
「残念ですが、それは無理でしょう」老いた商人は悲しげに首を振りました。「あの村はもうこの世から消えました。あっしがあそこから逃げ出してちょうど一年後、天に大きな流れ星と小さな流れ星が走った夜に。食べつくされたのです。つまり……」
『姫様の怪物に』と言う言葉をかろうじて、老人は呑み込みました。
失望が槍のように心臓を貫きましたが、ペルラは泣きませんでした。
涙を流す代わりに、目を閉じ、石で出来た天井に向かって細く長いため息をつきました。
そのとき、姫君がたった一つの希望を託して、たどり続けた糸がついに途切れたのです。
◆ ◆ ◆
長い思い出話の代価として、ペルラは商人に約束どおり、一袋の銀貨を与えました。
商人はずっしりと重たい報酬を抱えながら、登りよりもはるかに軽い足取りで、塔の階段を駆け下りました。
外はすでに薄暗くなっていましたが、老人の未来は明るく輝いていました。
この銀貨と長年の蓄えをあわせれば、都で念願の店を出すことが出来ます。
老人は店が繁盛したら、若くてまろやかな腰つきをした娘を嫁にもらうことを夢見ました。
子供も生まれるでしょう。何人もの息子や娘たちが。
でも、最初の子供の名前は決まっています。
それは彼があの赤ん坊につけるはずだった……。
そのとき、薔薇色の夢は突然色あせ、夕焼けの闇の中へ逃げていきました。
商人にとって最悪の悪夢が、あの獣神の像が息をし、黄金の目を輝かせながらそこにいたのです。
名高いあの人食いの怪物が、庭園の奇怪な彫像の間を王のような足取りで、近づいてきました。
夕闇の中に立つ怪物はさながら一つの音楽でした。
黒い毛皮を撫でた風の中に、裂ける皮膚の、砕ける骨の、命尽きる無数の人間の声が聞こえてきます。
老いた商人はすぐさま、潰れた蛙のように芝生の上にひれ伏し、必死に息を殺しました。
怪物はアブラムシみたいな汗がびっしり浮いた商人のうなじを、好奇心と困惑が入り混じったような目で見つめました。
「はて? 昔どこかでお前を見たような気がするのだが、どこだったかな?」
「どんでもございません! 森の王よ、獣たちの神」(このとき、怪物が不機嫌そうな唸り声を上げたので、商人は慌てて言い換えました)「王女さまのご友人よ! 前に貴方様にお会いしたことがあるのなら、どうしてあっしのように脂の乗った人間が生きていられるでしょうかっ!」
「ははは、確かにお前は美味そうだ。俺がペルラに会っていたことを、神に感謝するんだな」
それっきり、商人に興味を失ったのか、怪物は姫君の塔に向かって再び歩き出しました。
商人はそのあとも窒息する寸前まで伏せっていましたが、怪物の気配が完全に消えたとわかると、衰えた手足と腹のぜい肉の許す限りの速さで王宮から立ち去りました。
少しでも過去を振り返る余裕が出来たのは破れそうな心臓を押さえて、安宿の寝床に横になった後のこと。
相手に見覚えがあったのは、怪物ひとりだけではなかったのです。
商人はベッドの中で呟きます。あの顔、黒いたてがみと角に隠されたあの顔。
思い出そうとしても思い出せないと言うよりも、忘れようとしても忘れることが出来ないあの顔はいったい誰のものであったのか……。
◆ ◆ ◆
その日、最後の希望を断たれた後も、ペルラは何時もと変わりなく優しく怪物に接しました。
自分の手で食べ物を与え、べっ甲の櫛を使って、艶やかな光を放つまで黒いたてがみをとかしてあげました。
そして髪に隠された少し尖った耳にささやきかけたのです。
「ねえ、今日あるおじいさんに聞いたわ。貴方は昔、山の神さまだったそうね。 なら、なぜ自分の山を降りてきたの? なぜ貴方を崇めていた人たちをみんな食べてしまったの?」
「そんな昔のことは忘れちまったよ」眠たそうに怪物は答えました。「そんなことより、歌を聞かせてくれ。楽器のやかましい音は吐き気がするが、お前の声は聞いていると幸せな気持ちになってくる」
姫君は請われるままに、静かに歌い始めました。
その歌は子守り歌でしたが、曲は哀しげな響きを帯び、聞く者の瞼を重くする代わりに、涙をにじませました。
怪物はすこし目を開いて、ペルラの顔を見ました。透き通るように白いその肌と骨の下に、隠された深い苦悩と痛いほどの悲しみを見出したのです。
はじめて塔の中であったあの日から十日よりも、百日よりも長い時間が経っていました。
千日にはまだ届いていませんでしたが、怪物にはもうペルラを食べるつもりはありませんでした。
二人の間には、魂の底まで続く深い絆が生まれていたのです。
ペルラが喜んでいるとき、怪物の世界は、たとえ冬でも春色に輝き、刃のように鋭い北風も絹のごとく感じられ、ささやき交わす小鳥たちの声はまるで天から降ってくる銀の粒のようでした。
しかし、姫君の心が悲哀に閉ざされた今、怪物の眼に見える世界もまた、灰色のベールに閉ざされ、鳥や獣たちの鳴き声はまるで、亡き人をいたむ挽歌に変わったのです。
ペルラと怪物の世界が、物言わぬ青い悲しみの結晶に包み込まれてから、一月ほど経った後のこと。
黒い鷹のような翼が、怪物のすむ森に珍妙な客を運んできました。
不死身の竜の名で知られる巨大な獣は、木々をばきばきとへし折りながら、森に降り立つと大きな声で叫びました。
「おうい、バケモノ! 俺が遊びに来たぞ」
竜は耳を済ませました。しかし、聞こえてくるのは自分の大声のこだまだけです。
そこで竜は「あいつめ、どこへ行ったんだ?」とぼやきながら、怪物を探し始めました。
杉やヒノキをかけ分けても見つかりません。
洞窟の中を覗いてみましたが、空っぽです。
熊や鹿を小虫のように追い回しているうちに、竜はついに泉のほとりで怪物を見つけました。
久しぶりに会う怪物は酷くやつれているように見えました。
艶のないたてがみの上に萎れた花や色あせた鳥の羽を乗せて、じっと泉の水鏡を覗き込んでいました。
「おい、何で俺が呼んでも返事をしなかったんだ」竜は爪の先で軽く怪物を突っつきました。
「なんでもねえよ……」怪物は気のない返事をしました。
「声に元気がないぜ。具合が悪いのか?」竜はちょっと心配そうに聞きました。
「なんでもねえよ……」怪物は上の空で答えました。
「何か悪いものでも食ったのか?」竜はだんだん不安になってきました。
「なんでもねえよ……」しかし怪物の返事はやっぱり同じです。
竜はしばらく考えた後に聞きました。
「お前の鼻の穴の数は?」
「なんでもねえよ……」
どうやら、けっこう深刻のようです。
竜は怪物の隣にでっかいお尻をどすんっと下ろしました。
怪物もかなり大きいほうのですが、こうして竜と並ぶと、まるで象の隣に座った子犬のように見えます。
「なあ、俺たちはいつも顔を付き合わせるたびに喧嘩ばっかりしているよな。でも、人間どもと違って、お前と殴りあった後は、なんと言うか、こう、すっきりして良い気分になるんだよ」うんうんっと竜はひとりうなずきます。「逆にお前が落ち込んでると、俺もじめぇっとしたいやな気分になるんだ。だからさ……何か悩んでることがあるのなら言ってみろよ。力になるぜ」
怪物は水面に向けていた顔を上げ、竜のほうをちらっと見ました。
竜は牙を剥いて、にこっと笑い返しました。
怪物はため息と一緒に、しぶしぶ言葉を吐き出しました。
「まあ、困ったときには猫の手だってないよりマシだって言うしな……」
それから頭の上の花びらや羽毛を取りながら、少しずつ話し始めたのです。
いつも通り、ある国で生贄を求めたこと、そのとき自ら生贄に志願した一人の少女がいたこと。
その少女の強さと美しさと脆さ、そして彼女をいま包み込んでいる深い憂いの影について竜に話しました。
「俺はあの子に笑って欲しいんだ。感情を押し殺したような作り笑いじゃない。心の底から笑って欲しい。だけど、どうすれば良いのかさっぱり分からない」
そう呟く怪物の顔は、本当に苦しげでした。
怪物の中には、何千人もの死人たちの記憶や経験が眠っています。
だけどその血まみれの記録のどこを探っても、白い姫君を笑わせる方法一つ見つからないのです。
しかも、ペルラと一緒に過ごすようになって以来、なぜか自分の中にある屍の山から知識をあさることが段々と難しくなっていました。
竜は神妙な顔で、怪物の話を最後まで聞き、そして言いました。
「一緒に牛を盗みに行けば良いんじゃねえか?」
「ペルラは王女だぞ、王女がなんで牛を盗みに行く!」
「牛がだめなら、二人で空を飛んで気晴らしするとか?」
「お前とは違うんだ、俺もペルラも空は飛べねえよ!」
「じゃあ、じゃあ、一緒に火を吐いたり、引っかいたり、噛み付き合ったり……」
「それ全部、お前の好きなことばかりじゃないか、さては、何も考えてないな、この野郎!」
それからも、竜はいろいろと提案してみたのですが、どれもしっくり来ません。
こうして、この世で女心からもっとも程遠い二匹の生き物は頭をつき合わせ、どうやって女の子を喜ばせるのか、うんうんと唸りながら、考え続けました。
と、竜の鼻の穴から小さな太陽のような火の玉が飛び出し、ぶ厚い頭蓋骨の中に名案が浮かびました。
「そうだ、良いことを思い出したぜ!」
「なんだ、それは?」疑いのまなざしを向けつつ怪物が言いました。
「昔、俺がでっかい農場から牛を盗んでたときのことなんだけどさ。俺が牛を一匹ずつ丸呑みしてたら、屋敷の中から歌声が聞こえてきたんだよ。その歌が言うには、どこかの竜がお姫様をさらって、山の中の洞窟に隠したんだそうだ。それから、さすらいの騎士だの、うさぎに化けた魔法使いだの、面白い話が一杯出てきた。これは楽しそうだと思って、俺はさっそく自分でもお姫さまをひとりさらって、山の洞窟の中に隠してみたんだ」
「で、楽しかったか?」
「いや、ぜんぜん! そのお姫さまときたら、泣くわ、叫ぶわ、お漏らしするわ。うるさくてたまんなかったよ。おまけにいくら待っても、勇敢な騎士とかやってこないし、牛で腹も膨れてたから、けっきょくお姫さまをもとの城に戻すことにしたんだ」
「その話と俺の姫を笑わせることと、どう繋がるんだよ」ちょっとうんざりした声で怪物。
「最後まで聞けって。俺がそのお姫さまを背中に乗せて、城に戻る途中のことだ。突然、さっきまで生まれたてのコイヌみたいにやかましく泣いていたお姫さまが急に黙ったんだ。何だと思って、見たら、そのお姫さま、俺が鱗を飾るのに使っていた大きなダイアモンドに見とれて泣くのを忘れてたのさ!」
竜はちょっと得意げな顔で、怪物を見下ろしました。
「なるほど、宝石か……」空を見上げながら、怪物がひとりごちました。
今まで、なぜそのことに気づかなかったのか、不思議といえば不思議でした。
思い返してみれば、ペルラはこの大陸で一番大きな国の姫君だというのに、ほかの貴族のように貴金属を身につけているのを見たことがありませんでした。
これはきっと、あの意地悪な継母の王妃の仕業に違いありません。
怪物は飛ぶような勢いで泉の岸から走り去ると、住処にしていた洞窟の中に飛び込みました。
そこには、今まで彼が食いつぶした国のさまざまな宝物が山のように積み上げられていました。
その中でもいちばん大きく、一番見栄えのする品をいくつか選んで、また洞窟から飛び出した。
泉の前を通りかかったとき、竜はまだそこに座っていました。
怪物は足を止め、ちょっと迷いながらも、自分を見下ろす大きな獣にたずねました。
「なあ竜、お前、自分の親が誰か知っているか? どうやって生まれたのか、覚えているか?」
「ほとんどぜんぜん!」
「じゃあ、お前がどこから来たのか、気になったことはないか? 自分が誰なのか探ってみたことは?」
「まったくぜんぜん! それがどうしたのさ。親がいなくても、俺はここにいるぜ。昔の思い出なんかなくたって、今日の牛は美味いじゃないか」
それは竜にとって考え込んだり、悩んだりする価値もない、当たり前の答えでした。
しかし、その答えを聞いた怪物は息に詰まり、一瞬、その場に凍りつきました。
今まで竜がどんなに強く噛んだ時よりも、深く傷つけられたという風に。
「俺は……お前をたった一人の友達だと思っていた」辛うじて絞り出した声で言いました。
「俺も、お前を友達だと思っているぜ、バケモノ!」竜は何時もどおり明るく言いました。
「いろいろと話を聞いてくれて、ありがとうよ。助かったぜ……」返ってきた声は深く沈んでいました。
両腕の中にいっぱい、王冠や首飾りや指輪を抱えたまま、怪物はそこから逃げるように走り出しました。
あとにひとり残された竜は、呆然とした声でその背中に呼びかけました。
「おーい、相談に乗ってやったのに、俺と遊んでいかないのかよ」
◆ ◆ ◆
竜と分かれた後、怪物はわき目も振らずに走り続け、太陽が地平線に顔を隠す前に姫君の塔に着きました。
日も沈まぬうちにやってきた怪物を見て、ペルラと困惑と喜びの入り混じった声で言いました。
「今日はずいぶんと早くいらっしゃったのね」
「ああ、良い物を持ってきたんだ。お前にひと目見て欲しくてな」
そう言って怪物は、腕一杯に抱えた荷物を姫君に見せました。
蝋燭の薄明かりを浴びて宝物はさん然と光を放ち、塔の一室を七色の輝きで彩りました。
ペルラもまた息を呑み、声を失いました。
と言っても、ペルラが驚いたのは貴金属の細工の見事さでも、宝石の麗しさでもありませんでした。
姫君が視線を注いだのは、王冠に絡まった髪の毛、指輪に残る血痕、宝物の美の陰に隠れた犠牲者たちの断末魔の名残りでした。
このとき、ペルラは初めて自分の前にいる怪物がただの美しい獣ではなく、人食いの魔性であることを言葉ではなく、眼に見える証拠として突きつけられたのです。
小さく細く、しかし針のように尖った恐怖が、姫君の心臓を突き刺しました。
残酷な痛みのあとに、心は張り裂け、その傷跡から長い間、押し殺してきた感情がこぼれました。
青い高波は恐れも痛みも呑み込んで、姫君の胸の中を満たし、ついに銀の瞳から溢れ出しました。
「ペルラ、何故、泣くんだ、誰かお前をいじめたのか? 教えてくれ。そいつを懲らしめてやるぞ!」宝物を放り出して、怪物が吠えました。
「いいえ、違うの……」悲しみに息も止まりそうなペルラが言いました。「私に優しくしてくれたあなたを、怖いと思ってしまったことがつらいの、近くにいるあなたはとても遠いところにいるのが悲しいの」
「俺は、どうすれば良い、俺にどうして欲しいんだ?」姫君の涙に溺れそうになった怪物が言いました。
「側にいて」ペルラは怪物の身体にしがみつき、黒い毛皮を透明な涙で濡らしました。「お願いよ、私の怪物、いっしょにいて、離れないで、私をひとりにしないで!」
(それは矛盾しているぞ、俺のお姫さま)ペルラの肩を優しく抱き寄せながら、怪物は心の中で漏らしました。(俺と一緒にいたら、お前はひとりになってしまうじゃないか)
怪物は決して盲目でも、おろかでもありません。
彼はペルラが自分のために他の人間を遠ざけていることに気づいていました。
あれほど狭かった部屋が、たった二人でいるだけでなんと空っぽで大きく感じられることでしょうか。
怪物は恐る恐る、ペルラを抱き寄せました。
ああ、望めば、この世で引き裂けないものはないのに……。
この鉤爪の生えた指では、姫の涙をぬぐうことすら出来ません。
第十一話『咆えぬ虎、炉の中の炎』へ続く
どうも、皆さま、お久しぶりです。
ちょっとした事故のせいで、病院で年を越すことになった作者です。
一人暮らしで、入院すると大変です。
インターネットは見れないわ。更新は出来ないわ(;ω;)
まあ、とにかく私は戻ってきました。
これからもお話を書いていきますので、またよろしくお願いいたします(平伏)