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第九話『 変わりゆく世界 』

 この作品は、舞さんのホームページ、Arcadiaにも投稿しております。

 http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=original&all=21573&n=0&count=1


 


 さて、月が地平線に姿を隠すように……。

 ペルラが乳母に手を引かれて塔の階段を上ると、姫を迎えに集まった廷臣たちはようやく一息ついて、胸を撫で下ろしました。

 厚化粧のごとく塗り固めた笑顔がほころび、その下に隠された安堵や疲労が外に染みだしました。

 ペルラが宮殿を離れていた一月の間、貴族たちはひたすら姫の安全を願い、食物も喉を通らぬ日々を過ごしていたのです。

 

 といっても、別に彼らは死ぬほど、前王の姫君を敬愛していたわけではありません。

 宮殿の住民たちが心配していたのは、ペルラが亡くなり、姫と怪物の約束は反故になることでした。

 そうなれば、再び怪物の狩りが始まり、恐るべき生贄の儀式が復活するのは眼に見えていました。

 怪物が城下町の住人を食べつくすのが早いか、我慢が限界に達した民が反乱を起こすのが早いか。

 いずれにしても、想像するだけで身の毛もよだつような未来が貴族たちを待っていたはずです。


 ともあれ、待ち焦がれていた姫君は戻ってきました。

 ペルラの家出は、宮殿の日常に一石を投じ、大きな波風を起こしました。

 が、その波紋はもはや薄れて形を失い、消えかけています。

 後はこの宴の始末をすれば、再び平穏な日々が戻ってくると貴族たちは考えました。

 

 しかし、それは大きな間違いでした。

 音なき流れは水深し、との言い伝えのごとく、大きな変化は常に眼に見えぬ深みで起こるものです。

 そしてそれが水面に顔を出すころには、もはや後戻りすることなど出来なくなっているものなのです。

 その変化とは、このようなものでした。


 ある日、ペルラの世話をしている乳母が、彼女の愛する姫君の様子がおかしいことに気づきました。

 普段、ペルラは鏡を眺めることもまれで、姫の化粧箱はいつもほこりをかぶっていました。

 皮肉なことに、同い年の貴族の娘たちが、武器を丹念に磨く騎士のように、自分の美しさに磨きをかけている間、王国で一番美しい姫君はその輝かんばかりの美貌にずっと無頓着だったのです。


 いや、ひょっとしたら、ペルラは自分のことを美しいとすら思っていなかったのかもしれません。

 宝石よりも絹よりも、獣の牙や毛皮、羽毛を愛していた姫君のこと、美について普通の人間とは違う考え方を持っていた可能性もあります。

 ところが、老医師の家から戻ってからと言うもの、ペルラが鏡で自分の顔を眺める回数が増えました。

 愁いを帯びた面持ちで、鏡に映る月の女神のようなお顔を見つめ、しきりにため息を吐きました。


 草原で太陽との謁見を果たし、死の淵を眺めてからというもの、ペルラは自分と怪物の将来について思いを馳せることが多くなりました。

 この先何が起こるのかはっきりとはわかりませんが、もし始めて会った夜に交わした約束に従えば、ペルラはいずれ怪物の餌食になることになっています。

 姫の白い肌に怪物の青い唇が触れ、ゆで卵のようにつややかな肌を鋭い牙が裂き、切り開かれた傷口から血が赤い玉となって浮かび、こぼれ落ちるのです。

 その血を怪物の舌が舐めとり、さらに桃色の肉を白い骨から引きはがし、すらりとしたお腹を食い破って……。


 その様子を想像するだけで、ペルラは自分の中に怪しいざわめきが生まれるのを感じました。

 それは例えるなら、姫の胸の奥に小さな雨雲があって、自分が食べられる様子を思い浮かべるたびに、細い雷の爪先を伸ばして、ペルラの心臓やお腹の中を甘く痺れるような感覚で引っ掻いているようでした。


 しかし、その雨雲の中に小さな氷の欠片が宿ったのは何時のことだったでしょうか。

 たおやかなその腕を見るたびに、ペルラは思い出すのです。

 この腕を見て、怪物は言いました。それは骨か皮か、肉はどこへ行ったのかと。

 そしてその手で頬に触れるたびに、ペルラは思い出すのです。

 この頬を舐めて、怪物は言いました。うえ薬臭いと……。


 最初は気にもしなかったそれらの言葉は、胸の中を巡るうちに、冷たい触手を伸ばし、鋭い棘を生やし、大きな雪の結晶となって、ちくちくと姫の心を突き刺しました。

 死ぬことは怖くありません。苦痛には慣れています。あの優しい怪物に食べられるのなら、本望です。

 でも、食べられるなら、せめて美味しく食べて欲しいと思う。



 ―――わたしは、そんなに不味そうに見えるのかしら……。


  

「ねえ、乳母や。私、もうちょっと太ったほうがいいのかしら?」独り思い煩うことに疲れた姫が、乳母に聞きました。

「何を言っているんですか。お野菜しか受け付けないお体なのに! この間お肉を無理に召し上がろうとして、お腹を壊したのを忘れたんですか?」


 呆れた顔で乳母が言いました。

 姫はため息を吐いて、哀しげに肩を落としました。

 しかし、しばらくするとまた顔を上げて、乳母に聞きました。


「ねえ、乳母や。私、ちょっとお薬の量を減らしたいと思うのだけど……」

「冗談じゃありませんよ! 一月前に、お薬を忘れて死にかけたばかりじゃないですか! お医者さまはもっとお薬を増やしたほうがいいと言ってましたよ」


 しょんぼりと俯くペルラの背中を見て、乳母は首を傾げました。

 いったい、私の姫さまに何が起きたのかしら? 

 これは新しいご病気なのかしら?

 それとも、ようやく姫さまも年頃の女の子のようにおしゃれに気を使うようになったのか?

 きっと、おしゃれのほうね! そうよ、もともと姫さまはご自分のお美しさに無頓着すぎたのよ!

 いいことだわ。今度、女の子の身だしなみについて、いろいろと教えてあげないと……。


 自分で出した都合の良い解釈に乳母は満足し、それ以上深くは考えませんでした。

 そしてほくほく顔で、ペルラに白粉の塗り方や紅のつけ方を教えるところを想像しては、独り悦に入りました。

 よもや愛する姫さまが、自分に塩をかけた方いいのか、それとも胡椒をかけた方がいいのか、悩んでいるなどとは夢にも思わずに……。



 さて、ここでちょっと人間たちから目を逸らして、森のほうを見てみましょう。

 人の都の何倍もの広さを持つ緑の王宮の中で、森の道化師とも言うべき、猿たちが目を丸くしていました。

 猿たちの視線の先には、森と獣の君主である怪物のちょっと信じられないような姿があったのです。


 ペルラに出会うまで、怪物は姫以上に外見と言うものに無頓着でした。

 ときたま、悪ふざけにやってくる竜を除いては訪ねてくるものもなく、腹の中の哀れな犠牲者以外に話し相手もいませんでした。

 (竜は引っ掻きあったり、噛み付いたりするには最適でしたが、とても知的な会話を楽しめるような頭の持ち主ではなかったのです)

 ところが、ペルラの元に通うようになってから、怪物は急に自分の見た目を気にし始めました。


 頭に生えたこの角はちょっと長すぎやしないか?

 水鏡で見たこの黒い毛皮のぼさぼさしていること!

 ああ、ペルラはこの爪や牙をどう思っているんだろうか?


 あら捜しと言うものは、一回始めたらきりがありません。

 一つ目に付いた欠点は次の日には二つに増え、二つは四つに、四つは八つに……。

 こうして、少しでも見栄えを良くしようと思った怪物の涙ぐましい努力が始まったのです。


 山猫や狼の真似をして毛づくろいをしてみたり、池の水をすくって毛皮に撫で付けたりもしました。

 ちょっと可愛い感じを出そうと思って、花やら鳥の羽やら、果ては生きたウサギなんかを頭に乗せてみたこともあります。


 さて、ここまで頑張ったからには、俺も少しはましになったに違いない。

 そう思った怪物は、勇気を出して池の水鏡を覗き込んでみました。

 そこに映っていたのは―――

 

「…………」


 自分の姿を見た怪物は何も言いませんでした。

 代わりに猿や小鳥が忍び笑いを漏らしました。

 そのとたん、怪物は何もかもがいやになりました。

 せっかく整えた毛をぐしゃぐしゃ掻き毟り、頭乗せてあったものを全部投げ捨てました。 

 腹の皮を噛んで丸まり、もうこんなこと二度とやるか、と思いながらふて寝を始めました。

 でも、しばらくするとまた起き上がり、森の住民たちが見つめる中、おかしな一人芝居に興じるのでした。


 姫君は灰色の天井の下で、怪物のことを思ってため息をつきました。

 怪物は緑色の天蓋の下で、姫君のことを思ってため息をつきました。

 二人はさながら、共鳴しながら、響きあう二つの器。

 言葉を交わすたびに、目が合うたびに、指先が肌が触れ合うそのおりおりに……。

 怪物と姫の心をつなぐ眼に見えない音色は、根を広げ、幹を伸ばし、葉を茂らせ、ついに小さな蕾をつけたのです。


 もし、充分な時間があれば、その蕾はいつか花開き、何かを実らせることもできたかもしれません。

 しかし、運命は二人にその時間を許しませんでした。

 ペルラと怪物が手に手を取り、二人だけのワルツを踊っていたそのころ、二人を取り囲む世界もまたゆっくりと、しかし絶対に後戻りの出来ない道を歩み始めていたのです。


 

  

   ◆  ◆  ◆

 

  

 


 まず最初に声をあげたのは、王宮を取り囲む城下町の住人でした。

 街の平民たちにとって、城壁の向こうにいる貴族たちは、雲の上の住人でした。

 そして、貴族たちの中でも一際深い謎に包まれた白いお姫さまは、まさに冥界の奥深くに住居を構える魔女にも等しい存在でした。


 ところが、そんな伝説の生き物がある日、流れ星のように自分たちの近所に落ちてきたのです。 

 その人はやさしい上にもやさしく、卑しい自分たちにも丁寧な言葉づかいで話しかけてきました。

 姫君の美しさが、酒毒のように人々を酔わせたことは言うまでもありません。


 ペルラが城下町を立ち去った後も、いや姫が姿を消したその後こそ、人々は声高に上の姫君について話し合いました。

 ペルラと言葉を交わしたと自慢するご婦人がた、姫君があそんでくれたと無邪気に言う子供たち。

 老人たちはペルラが自分らを癒してくれたことを感謝し、姫君がいたころを懐かしみました。

 男の衆は幼い女王でも、その母親でもなく、上の姫君こそが怪物から自分たち平民を守ってくれたことを思い出させました。

 これに姫君が怪物に乗って駆け抜けるのを見た農民が加われば、話しの弾まないはずがありません。


 姫の孤独を慰めるために、城下街に滞在させた老医師は、この傾向に反対しましたが、一人の人間が数百数千の舌に叶うはずもありませんでした。

 ペルラ姫を巡る噂話はたちまち、尾びれを生やし、背びれを生やし、角を生やして手足を生やし、ついには翼を得て国中を飛び回るようになりました。

 今や姫を讃える声は、老若男女の壁を越えて一つの大きな合唱になろうとしていました。

人々は謳います。


 ペルラ姫よ、王の娘にして癒し手なるお方よ。

 天より地に落ちた星のごとく優しく輝くお人よ。

 死の貴婦人を産婆に生まれ、黒い怪物の背に乗り、月夜を駆ける……



 ――魔女の中の魔女!!

 

 

 歌は歌を呼び、大樹のように育った民衆の声はついに城壁を乗り越えて、王宮の中にまで影を落とすようになりました。

 この声を耳にした宮殿の老人らは、さっそく老いても衰えぬその舌の刃を振るい始めました。


「なあ、わしらはちと早まったかもしれんな」と一人目の老人が言いました。

「早まったとは、何のことじゃ?」と慎重に二人目の老人が聞き返します。

「もちろん、ペルラさまのことじゃ!」と鼻息も荒く三人目。「わしは昔から言っておったのじゃ。あの人を北の塔に閉じ込めるべきじゃなかったと」

「確かに。ペルラさまがおられたときは、何もかも上手くいっておったなぁ」

「ともかく、アンブラは借りてきた猫のように大人しくなさっておった。ところが、今のあのお方は……」

「まるで小さな山猫……いや、血に飢えた猛虎と例えるべきか」


 ここで三人の老人たちは不安げにお互いの顔を見つめました。

 後で述べることになりますが、このとき宮殿の小さな厄介者であったアンブラは、王国の巨大な悪夢に成長しようとしていました。

 アンブラが名実ともに女王に相応しい年齢に成長した時のことを想像すると、老人たちは枯れた神経や骨が痺れるほどの恐怖を覚えるのでした。


「アンブラさまの治世がどんなものになるかわからんが、一つだけ確かなことがある」

「ああ、そのとき、わしらは長生きしたことを後悔することになるじゃろう。わしら全員がな……」

「なあ、今からでも遅くない。何とかペルラさまにお戻りいただくわけにはいかんかのう」


 三人目の老人が哀願するような口調で言いました。

 一人目と二人目の老人が、気まずそうに口ごもり、首を横に振りました。


「そうしたいのは、山々じゃよ」

「山々なのじゃが……」


 突然、三人の老人が一斉に口を閉ざしました。

 宮殿の廊下を真っ赤なドレスに身を包んだ王妃が、猫のように高慢かつ優雅な足取りで通り過ぎたのです。

 歳をとって萎び、目や耳ばかり大きくなって、鼠そっくりの風貌になった老人たちは急に柱の彫刻や床の絨毯が気になったふりをしました。

 そして、王妃が完全に姿を消し、戻ってこないことを確認すると、またぺちゃくちゃと始めました。


 かくして、宮殿の城壁の内側からも、小さくともペルラを讃える歌声が響きはじめました。

 王妃の目を盗んで、ひそかに北の塔を訪れ、姫に目通りを願い出るものが次々に現れるようになりました。

 ペルラは体調がすぐれないことを理由にこのような輩を遠ざけましたが、彼らは構わず、塔の床に様々な贈り物を山のように積み上げました。


 仕方なく姫は、贈り物を他の貴族の名義で、街の人々に寄付することしました。

 しかし、有史以来、この手の慈善事業が人目を忍ぶことに成功した試しがありません。

 姫から施しをもらいうけた人々はますますペルラを崇拝するようになり、それに呼応するように貴族たちの贈り物はますます数を増やし……。


 宮殿の内と外で、ペルラの名声が果てしなく高まっていくにつれて、奇妙な出来事が姫の身の回りで起こるようになりました。

 ある時には姫の小物が消えうせたり、またある時にはドレスにかぎ裂きが出来ていたり、お気に入りの本のページが数枚千切り取られていたこともありました。

 

 しかし、もとよりペルラは物に執着する性格ではありません。

 手先が器用なので、小さな傷程度なら、自分でドレスを繕うこともできます。

 本を破られることには辟易しましたが、中身は全部覚えていたので、問題はありませんでした。


 ペルラは繰り返される悪戯に、徹底した無視で報いました。

 事実、この程度の嫌がらせでは、姫に引っ掻き傷ほどの痛痒を与えることもできませんでした。

 しかし、ペルラは大事なことを忘れていました。つねに姫のことを観察し、彼女のことを気にかけている者がいることを失念していたのです。


 ある日、怪物との会話に熱中してつい『朝ふかし』してしまったペルラは、ちょっと遅めの朝食を取ることになりました。

 淡白な野菜のスープをさじですくったペルラは、その中に一本の針を見つけました。

 ちょうど中指ほどの長さの大きな針です。こんな大きなものでは、たとえスープの中に隠したとしても、人を傷つけられるはずがありません。


 相手の小心ぶりに、おかしさを覚えながら、ペルラはその針を丁寧にハンカチで包んで、脇に置こうとしました。

 そのとき、錆びた金属がきしりあうような声が聞こえました。


「スープの中に針が入っていたのか……」


 怪物が顔を上げて、こっちの方を見ていました。

 相手の声音に不穏なものを感じながら、ペルラは努めて平静を装うとしました。


「ええ、たいしたことじゃないわ。きっと、料理した人が間違って……」

「前にお前の小物を隠したり、ドレスや本に傷をつけたりしたヤツだな!!!」


 相手の凄まじい剣幕に、ペルラは息を呑みました。

 怪物とこれほど長く一緒にいたのに、いいえ怪物と過ごす時間が長かったからこそ、ペルラは、彼が如何に恐るべき存在であるかを失念していたのです。


「どうして、そのことを……」

「聞こえるのさ。あいつら今、この城の庭の中で話し合っている。お前の料理に針を入れたことを自慢している。お前が針を噛めば良いと言っている。お前を、ペルラを、俺のペルラを傷つけようとした!」


 ペルラは昔、怪物から聞かされた炎のことを思い出しました。

 怪物の身体の中に宿り、彼の内臓を掻きむしり、憎悪を際限なく煽り立てるあの黒い炎のことです。

 そして今こそ、ペルラはその例えの意味を知りました。


 怪物の両眼は黄金色に燃え上がり、黒い毛皮が火柱のように逆立っていきました。

 あまりにも強い怒りと憎しみの感情が、溶鉱炉から漏れ出す熱のように押し寄せてきました。

 そのとき怪物が背中をのけぞらせて吠えました。


 その声はさながら雷獣の咆哮。

 北の塔は稲妻の直撃を受けたように震え、姫お気に入りの薬草をいれた鉢の幾つかにもひびが入りました。

 そして宮殿では、惰眠を貪っていた貴族たちは、怒声の一撃を受けて一人残らず寝床の中から叩き起されました。


 ペルラの目の前で怪物が大きく身をたわめました。

 姫は一目で怪物の意図を見抜きました。

 漆黒の鬣に覆われた首すじに飛びつけたのは、過去の経験と驚くべき幸運のなせる技に他なりません。


 とっさにペルラが鬣を掴んだその瞬間、怪物は頭から窓の外に飛び出していました。

 空気が目に見えない拳となって姫にぶつかってきました。

 前回のが羽毛だとするならば、今回のそれはまるで砂で出来た壁。

 風圧は容赦なくペルラの身体を殴りつけ、彼女の意識を外に叩き出しました。


 怪物は宮殿の庭園に降り立ち、丹念に手入れされた芝生を無残にえぐりながら、走り出しました。

 怒りに視界は真っ赤に泡立ち、自分の身にしがみ付いているペルラのことすら失念していました。

 捜していた相手は、宮殿の花園であっさり見つかりました。


 王妃はそこで石の彫像のように直立しながら、義娘に朝食を運んだ侍女の報告を聞いていました。

 侍女は得意げに自慢の舌を振るい、自分の様々な手管が如何に姫君を苦しめたか、まるで見てきたかのように話し続けました。

 そこへ怒り狂った怪物が、火の玉のように飛び込んできたのです。


「俺のペルラの料理に針を入れたのはお前か!?」


 名指しされて、恐怖のとりことなった侍女が王妃の方を指さし、早口で言いました。


「い、いいえ違います! ぜんぶこの方の指示なんです! あたしは言われたとおりにやっただけなんです。 だって、あたしみたいな侍女が王妃さまに逆らえるわけがないでしょ! あたしのせいじゃありません! あたしのせいじゃありませんったら! 」


 そして王妃に背を向けて、一人逃げ出そうとしました。

 怪物はその侍女の背中を掌で軽く叩きました。

 たったそれだけで、侍女の身体は牛の体当たりを受けたように吹き飛び、熊の形に刈り込まれた木にぶつかって、二度と動かなくなりました。


 怪物は王妃の方を見ました。

 王妃は地面に尻もちをついたまま、目を見開き、凍りついていました。

 怪物は口を開け、火のように熱い息で、冷たい朝の空気を白く濁らせました。


「お前があいつにペルラの小物を盗ませたんだな? ペルラの服を切って、大切にしていた本を千切って、料理に針を入れさせたのもお前なんだな?」


 蛙に忍び寄る蛇のような動きで、怪物は王妃に近づいて行きました。

 王妃はようやく震えはじめました。何とか立ち上がろうとしましたが、そのたびに手が滑るか足が滑るかして、上手くいきません。

 王妃の目の前で、怪物が薄れていく星明かりを掴むように鋭い爪を構えました。


「――八つ裂きにしてやる!」


 まさにそのときに、ペルラが目を覚ましました。

 目覚めてすぐ、ペルラは鉄のような怪物の鬣が、自分の掌を切り裂いていることに気付きました。

 しかし、姫はひるむことなく黒い獣毛から自分の手をひきはがすと、怪物の腕に抱きつきました。


「ペルラ、どうしてここに!!」

「駄目よ! その人はまだこの国に必要な人なの! 殺しては駄目!」


 怪物は姫の存在と、彼女の血の匂いに気がついて、唾を飲み込みました。

 天を衝くような怒りが、それ以上の驚きと衝撃にかき消されたのです。

 このとき怪物は、自分たちがどこにいるのか気付き、冷たい怖れに貫かれました。 


「ペルラ、もうすぐ日が昇る! 早く塔に戻らないと!」


 怪物の言うとおり、夜は長い衣を引いて退きはじめ、すでに庭園はラベンダー色に染まり始めました。

 ペルラの脳裏に、あの日味わった日の光の凄まじい苦痛が蘇りました。

 しかし、姫の決意は一寸たりとも変わることはありませんでした。


「いやよ! 貴方と一緒じゃなきゃ、私は塔に戻らないわ」

「今殺しておかなきゃ、こいつは必ずお前に仇を成す! 何故それがわからない!」


 怪物の熱い感情と姫の静かな覚悟が、金と銀の瞳を通して火花を散らしました。

 睨みあいは心臓が三回脈打つ間続き、二人の荒い息づかいだけが庭園に木霊しました。

 結局……最後に折れたのは怪物の方でした。

 赤紫に変わりゆく空に二度目の咆哮を放つと、怪物の大きな身体から空気が抜けたように肩を落としました。

 上げていた手を下ろし、ペルラを日の光から守るために彼女の身体を抱きしめました。


「ありがとう。私のことを心配してくれたのね。本当にありがとう」


 ペルラもまた血に濡れた両手で怪物の身体に抱き返しました。

 そして、王妃の方を向き直ると、彼女にしては珍しいほど冷たく棘のある声で言いました。


「お義母さま、これに懲りましたら、もう子供っぽい悪戯は止めてください。私は気にしませんが、彼が機嫌を損ねます。貴方はこの国とって大切なお人、どうかお体をご自愛ください」


 王妃は何一つ答えずに、黙ったまま地面を睨んでいました。

 そしてペルラと怪物が立ち去り、他の召使いたちがやって来て、王妃に手を貸そうとしても、その手を乱暴に払いのけ、立ち上がろうとしませんでした。

 王妃の手は綺麗な爪が割れるほど強く地面を掻きむしっていました。

 強く強く噛みしめた唇から……赤い血が一筋流れ落ちました。



 普通ならば、ペルラがこれほど遺恨を残すような言葉を使うことはなかったでしょう。

 しかし、このとき姫の心は様々な怖れと不安に満ちて、他のことを顧みる余裕がなかったのです。

 

 ペルラは怪物が変わったと思っていました。しかし、それは間違いでした。

 怪物が優しいのは姫君ただ一人、怪物が気遣うのもペルラただ一人だけなのです。

 彼女以外の人間にとって、怪物は依然として恐るべき人食いの魔物のままだったのです。


 そして、怪物の秘めた凶暴さよりも恐ろしいことがありました。

 塔に帰る道の途中で、ペルラは怪物に聞きました。


「ねえ貴方、最近ちゃんとご飯は食べているの?」

「もちろん食べているさ。お前だって見ているじゃないか」


 しかり、ペルラはちゃんと覚えていました。

 毎日、怪物に出される献立を考えているのは、彼女なのです。

 そしてまたペルラは覚えていました、始めてあったあの夜、抱きついた怪物の腕の感触を。

 しかし、今日抱きついたあの腕、まだ逞しかったものの、あれははっきりと肉が落ちていなかったでしょうか?


 今まで読んだ書物は、こうペルラに語りかけています。

 怪物のような魔法の生物には、普通の動物の法則は通じないと。

 たとえば、竜は肉も食べますが、草や木の果実、ときには石や金属までも口にします。


 それとは逆に、怪物は人間の肉以外の栄養を受け付けないのではないか?

 ペルラと交わしたあの約束が、怪物を緩慢な死に追いやっているのではないか?

 そんな不安が、頭に付きまとって離れようとしませんでした。

 そして何よりも姫を恐れさせたのは――


『一瞬だけど私――あの怪物ひとを助けられるなら、誰かを食べさせても良いと思った……』


 始めて気付く自分の中の闇の深さに、ペルラは肩を抱き、独り震えるしかありませんでした。

 

 




 第十話『果ての見えない奈落』へ続く

 

 

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