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第七話『 昇る日のごとく、堕ちるもの 』


この作品は、舞さんのホームページ、Arcadiaにも投稿しております。

 http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=original&all=21573&n=0&count=1


 外へ行く、と決意したその時から、ペルラは夢の住人となりました。

 眼に見える景色は陽炎のごとく、時間はあいまいになり、記憶は順序を見失いました。

 怪物が自分の前に足を折って、横たわったのは覚えています。言葉一つも交わしていないのに、なぜか何をすべきなのか全てわかっていました。


 生まれてこの方、ペルラは馬に乗ったことはおろか、触れたことすらありませんでした。

 病弱な姫の身体を心配して、父親である王が猫よりも大きな生き物をペルラに近づけようとしなかったのです。

 怪物だって、人間を乗せたことなど一度もなかったはずです。

 それなのに、気付けば姫は自然な動きで、怪物の差し出した手に足を載せ、鬣に手をかけてねじ曲がった翼と頭の間にあるくぼみに腰を下ろしていました。


 怪物の頭の両側から突き出した二本の角は手綱がわり。

 その象牙のような表面に触れた時も、姫はまだこれが夢なのか現なのか、判断がつかずにいました。

 目の前に大きく開け放たれた窓も、その外に見える景色も、全部一枚の絵のように遠い世界のことのように思えました。

 しかし、怪物が塔の床を蹴って走り出したとたん、現実が風のようにペルラの顔にぶつかってきました。


 驚いて瞼を閉じ、また開けたその時、ペルラは、自分が窓を通り抜け、バルコニーも飛び越して、夜の大気の中に躍り出ていることを気付きました。

 視界の端では飛ぶような速さで塔の壁面が通り過ぎ、目の前には青黒い芝生が一枚の壁のように迫ってきます。

 生まれて初めて味わう落下の感覚に、ペルラは思わず悲鳴を上げ、怪物は小さく笑い声を漏らしました。


 地面に激しく叩きつけられるかと思ったその瞬間、怪物が背中の翼を大きく広げました。

 骨まで曲がった翼は羽ばたくことはできませんでしたが、落下の速度をいくらか和らげることはできました。

 ふわり、と綿のようにやわらかく地面に着地すると、怪物は姫君を背中に乗せたまま、再び走り出しました。


 山のように黒く静まり返る宮殿、春と夏、秋と冬の四つの離宮に、森を模して造られた庭園と海を模して造られた池。

 ペルラが一生をかけて見てきた景色を、怪物は一呼吸のうちに駆け抜けました。

 十を数える前に、二人は宮殿と貴族たちを下々の世界から切り離している、あの大きな城壁に辿り着きました。


 風と雨で傷だらけになったその表面に爪をかけ、怪物は地面を行くように壁を登り、その頂点で外に飛び出しました。

 二回目の浮遊、そして魂消るような落下、しかしこの度ペルラの喉から零れたのは悲鳴ではなく、父の手に抱きあげられた幼子のような歓声でした。

 姫は眼を輝かせ、噂話でしか知らぬ外の世界を見ようとしました。そして見ました。


 始めてペルラの目に飛び込んできたのは、決して美しいとは言い難い風景でした。

 煤けた屋根、しみだらけの壁、路地には汚泥がたまり、曇りガラスの窓の向こうに見える無数の怯えた眼差し。

 醜い世界は、しかしその醜さゆえに、これがこの上ない現実であることを姫に告げていました。


 ペルラは背中を振り返り、さきほどまで自分の世界の全てであった宮殿を見ました。

 姫のために造られ、姫のために国中の美しいものを選りすぐってできた贅沢な箱庭。

 幼かったころ、あそこは何と大きく、そして今は何と小さく見えることか。

 刻一刻と小さくなっていく我が家に哀しげな眼差しを送ると、ペルラは再び目の前に迫る未来の方に目を向けました。


 石畳みを爪で削り取りながら、怪物は瞬く間に街を通り抜けました。

 都の境目を越えれば、そこまた別の新しい世界、見渡すばかりの麦畑でした。

 畑の間を網目のように走るあぜ道の上を、姫と怪物は一陣の黒い風となって吹き抜けていきます。


 眼に見えるもので、ペルラの知らないものはありませんでした。

 しかし、ペルラの知っているものも、何一つありませんでした。

 書物は湿った土の甘い臭いを教えてくれませんでした。

 狼の背のごとくなびく、麦畑の美しさも伝わりませんでした。


 太陽よりも速く起き出し、仕事に精を出していた働き者の家族が姫君と怪物に気付きました。

 鼻の上に泥をつけた男の子が、麦から頭を上げて、母親に言いました。


「見て、見て、母ちゃん! お星さまが、夜の風に乗って走って行くよ! 銀色の尻尾がきらきら光って、すごくきれいだよ!」

「お黙り、静かになさい! 悪魔どもに見つかるわよ!」


 男の子よりも長く生きて、その分用心深くなっていた母親は、我が子を抱きしめると地面に伏せて、神に祈りました。

 しかし、男の子は母親の心も知らずに、頭を押さえつける指の間から、憧れに満ちた眼差しで、走り去っていく銀の煌めきを見つめていました。

 あんなに綺麗なものが、恐ろしいものであるはずはないと思いながら……。

 それは半分正しく、半分間違っていました。


 都の何倍も広かった麦畑も、やがてペルラたちを置き去りにして消えました。

 続いて地平線から次々に萌え出でたのは、果てしなく黒々と茂る森でした。

 ペルラが文字や絵を通して知っている森が、枯れたインクや絵の具の染みならば、本物の森はまるで、枝や葉を揺らして燃え上がる墨色の火の壁。

 風に乗って伝わってくる濃厚な生命の臭いと気配に、姫は圧倒されました。


 とその瞬間、木々の頂から黒く巨大な煙が立ち上りました。

 煙の正体は、怪物の気配に驚いて、飛び立った無数の鳥たちでした。

 予想だにしなかった主の早過ぎる帰還に、森の獣たちは安眠の床から叩き起され、自分でもわからない隠れ家を目指して、めちゃくちゃに走り回りました。

 怪物と一緒に森の中に入ったとたん、ペルラもまたこの混乱の中に叩きこまれました。


 大地の上には、生きた絨毯のようにぞろぞろと走る小動物たちの群れ。

 頭の上で、鳴り響く猿たちの甲高い鳴き声、振り子のように木々を飛び交う無数の影。

 闇の中、葉と枝の間を乱れ飛ぶあの光る点は狼か熊か、それとも見知らぬ獣のものか。

 

 凝縮された命の重みに、押しつぶされそうになって、ペルラは怪物の身体にしがみつき、その鬣に顔をうずめました。

 その時、動物たちの騒音をすり抜けて、怪物の声が耳に飛び込みました。


「ペルラ、笑っているのか?」


 何を言われたのかわからず、手で口元をまさぐりました。

 そして指先が桜色の唇に触れた瞬間、今まで沈黙していた姫の喉が、新しい音楽を奏でました。始めは小さく、やがては大きく高く……。


「ええ、笑っているわ! だって、こんなに楽しいんですもの!」

「そうか、ならもっと楽しくしてやろう」


 怪物が一気に速度を上げました。

 余りの速さに、木々と動物は溶けあって、青く黒い影となりました。

 その闇の果てに、小さな光の点が見えたと思った瞬間、点は月ほどになり、月は窓となり、窓は二人が通れるほどの門となりました。

 ペルラと怪物はその光の中に飛び込みました。


 光の扉、森の出口の外にあったのは、月の光を浴びて青白くうねる草の海。

 森のざわめきがペルラの口から笑い声を引きだしたように、草原はペルラの口から声を奪いました。

 言葉を越えた景色が、そこにありました。


 天空には色とりどりの星々が花開き、地上には無数の花々がきらやかに輝いていました。

 草原はどこまでも広がり、その果てに見えるのは雲の外套をまとった巨人たち、天を衝く本物の山々でした。

 空気は水晶のように澄み切って、荘厳さが至る所に満ち満ちていました。


 ペルラを乗せたまま、怪物が自然の花畑の一つに、飛び込みました。

 蹴散らされた花びらは、雪のように舞い上がり、蝶のように姫の白い髪や衣に纏わりつきました。

 そのかぐわしさはまるで夢のように、とても現実のものとは思えません。


 もし叶うなら、ペルラは怪物の角から手を離し、この光景を抱きしめていたでしょう。

 この一時を抱きしめ、口づけをして、知っている限りの歌と言葉で褒め称えたでしょう。

 うるんだ眼には、遠くの山まで光り輝いているように見えました。


 いいえ、気のせいではありません。山々は本当に光っていました。

 その背後から、燃える鬣を持った黄金の円盤が、ライオンのような足取りで近づいていたのです。

 それまで母親のように、ペルラたちを見守っていた月がゆっくりと、西の地平線に隠れようとしていました。

 もし、月に口が聞けたのなら、きっと姫に向かってこう言っていたことでしょう。


「ああ、娘よ。そっちへ行ってはいけません。もうすぐ火と光の大王さまがやってくるわ。あの人はとても美しいけど、その美しさはあなたには毒なのよ」


 夜の冒険中で夢中になっていた姫は、月の忠告を見逃してしまいました。

 しかし、誰がペルラを責めることが出来るでしょう。

 姫が最後に太陽を目にしたのは、まだ赤ん坊だったころの事。

 その時火傷をして以来、一度も日なたに出たこともなかったのです。


 十数年の時間は、痛みと恐怖の実感を消し去っていました。

 そうペルラは、忘れていたのです。

 太陽が火のように、自分の身体を焼くことを……。

 何も知らない怪物は、姫を乗せたまま、彼女の破滅へと一直線に走っていました。


 そして今、夜明けを迎えて、世界はその装いを変えようとしていました。

 山々の隙間から漏れ出る太陽の光は、夜のベールを一枚ずつ剥がしていきました。

 優しい白い光に照らされた草原は、まず深海のように青い闇に充たされ、次に芳醇な葡萄酒の紫に沈んで、ついには薔薇色に燃え上がりました。


 ペルラは鼻の奥に痛みを感じ、頬から温かな滴がこぼれ落ちるのを感じました。

 ペルラは泣きました。声も無く、泣きました。

 生まれて始めて、苦しみでも、悲しみでもなく、感動と喜びのために涙を流しました。


 姫の心は、次々に溢れる喜びにわななきました。

 と、その喜びは突然、刃に代わって、ペルラの心臓を貫きました。

 余りに激し過ぎる喜びに、姫の身体の方が耐えきれなくなったのです。


 角の手綱を掴んでいた指から力が抜けて、ペルラは怪物の背中から滑り落ちました。

 体が軽くなったことに気付いた怪物は、とっさに姫の身体を受け止めました。

 まさにその時、太陽がついに山と山の間から、神々しい顔をのぞかせ、世界をその美しさで照らし出しました。


「ペルラ、どうした!?」


 焦った怪物が聞きましたが、ペルラはその問いに答えられませんでした。

 今や姫が愛した世界が、丸ごと彼女に牙を向いたのです。

 ことに激しくペルラに襲いかかったのは、彼女自身の身体でした。


 大量の薬によって、辛うじて縛り付けられていた病が、その鎖を噛みちぎって暴れ出したのです。

 発熱が、悪寒が、吐き気が、咳が、幾つもの幾つもの痛みがペルラを襲いました。

 骨から染み入る酸のような痛み、頭蓋骨を叩き割る金槌の痛み、内臓に絡みつき、牙を立てる毒蛇の痛み、錆びたナイフの痛み、恐ろしい鋸の痛み、釘とねじの痛み……。


 もはや頭のてっぺんから、爪先まで痛くないところありません。

 苦しみに耐えきれず、ペルラが暴れると、その肩が怪物の手からはみ出し、日の光をまともに浴びました。

 そのとたん、焼きごてを押し付けられたような悲鳴が、姫の口から飛び出しました。


 怪物はペルラが苦しんでいる間、おろおろと戸惑い、ただ自分の身体を使って、 太陽の眼差しから姫を守ることしかできませんでした。

 身体を動かすこともできないペルラは、咳と喘ぎの声の間から声を絞り出しました。


「お願い……お医者さまの、ところへ、はやく……」


 掛りつけの御殿医の住所を告げると、怪物の腕の中で気を失いました。

 怪物はペルラを抱きしめたまま、人間のように二本足で立ちあがり、走り出しました。

 焦りは心臓を焼き、泣きそうな悲鳴が牙だらけの口から飛び出しました。


 怪物が怪物となって以来、こんなに怖いと思ったことはありませんでした。

 今のペルラの身体は薄さを極める陶器も同じ、一瞬ごとにひびが入り、命という名の水が漏れていきます。

 怪物のよく知る臭いが、死んでいく人間の匂いが、姫の身体から立ち上っていました。


 もし日の光を遮る山の影がなかったら、もし森の闇がなかったら。

 ペルラは街に辿り着くこともできず、温かな朝日の中で焼け死んでいたかもしれません。

 しかし、運に助けられて、手遅れになる一歩手前で、怪物は街に辿り着きました。


 一夜明けた都では、商売人たちが早くも仕事の準備を始めていました。

 その喧騒の中へ、怪物が飛び込んできました。

 たちまち、早朝の市場は狼を投げ込んだ鶏の群れのような大騒ぎになりました。 

 怪物は後ろ足で立ちあがった馬車馬を跳び越え、壁をよじ登り、屋根から屋根へと走りました。

 馬よりも速く、猿のように軽やかに、医者の家を目指して、一目散に……。



 

  ◆  ◆  ◆


 


 その日の朝、王国一番と名高い医師の屋敷の扉が激しく打ち鳴らされました。

 医師の召使いは、急患の相手をするために、仕方なくベッドの中から起き上がりました。

 美女と戯れる香しい夢から叩き起された召使いは、その頭に意地悪な言葉をたっぷりと蓄えていました。

 

 ええ、申し訳ありませんが、ご主人様はまだお休みです。はいはい、また後でお越しください。でも、次にお越しになる時は、予約を取ってください。駄目です。駄目です。待っているのはあなた一人じゃないのですよ。何と言われようと……。


 だが、用意していた言葉を、召使いは一つも使うことはできませんでした。

 口を開く暇こそあらば、鉤爪を具えた五本の指が扉を突き破り、金具もろとも根こそぎ引っこ抜きました。 

 怪物は扉の枠を壁ごと突き破ると、泡を吹いて倒れている召使いをひとまたぎして、家の中に入って行きました。


「医者はどこにいる! 早く出てこい! 出てこないと家ごと叩き潰すぞ!」


 その声を聞いて、鶴のようにかくしゃくとした老人が、大広間の階段から降りてきました。

 朝日を浴びてもうもうと立ち昇る埃の中で、仁王立ちしている怪物を見ると、眉をひそめて言いました。


「いったい、これは何の騒ぎなんじゃ?」

「お前が医者か、早く診てくれ! ペルラが大変なんだ!」 


 姫の名前を聞くと、医師は足早に怪物に近づきました。

 そして黒い腕の中で、苦しげに震えるペルラの姿を見た瞬間、目の色を変えました。

 「これはいかん」と呻き、自分が羽織っていたマントを脱ぎ捨て、それで日差しを浴びないように姫の身体をくるみました。


「日の出前に、姫はわしの出した薬を飲んだか?」突き刺すような眼で怪物を睨みました。

「い、いや、俺はペルラが薬を飲んでいる所なんてみたことはなかった……」

「何ということじゃ、何ということじゃ……」


 医師はマントに包まれた姫の身体を、怪物の手から奪い取ると、屋敷の奥に向かおうとしました。

 しかし、その前に怪物の大きな体が立ち塞がりました。


「おい、ペルラに何する気だ? お前はちゃんとペルラを治せるのか。言っておくがな、万が一、こいつが死んだりしたら、俺はてめえの腸を噛みちぎって、その細い首を……」

「だまらっしゃいっ!!!」

 

 医師の大喝は、雷のように屋敷の窓という窓を震わせました。

 怪物までも、あまりの勢いに押されて一瞬、言葉を失いました。


「お、お前、そんな口をきいて……俺が誰だか分かっているのか?」

「あいにくと、目はまだ悪くないからのう。貴様の醜い姿が嫌でも見えるわい」医師は怪物の脅しを、鼻で笑い飛ばしました。「貴様は脳たりんのケダモノじゃ。その鈍い頭にも分かるように説明してやる! この子は今、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされておる。そして、貴様がわしの邪魔をした分だけ、姫さまは死の方に近づく。さあ、その象並みの頭がい骨の中にネズミ並みの脳みそが詰まっておるのなら、そこをどけ!」

「お前は誰なんだ?」横に退きながら、怪物が聞きました。

「わしは医者さ。しかも、ただの医者ではないぞ。老いぼれの医者じゃ。死人なら、貴様にも負けないほど見てきたし、いまさら自分がその中に加わったとしても何ともないわい」


 医師はペルラを奥の部屋に運び入れると、まだ気を失っている召使いを蹴り飛ばして、日光が入らないように窓を板で塞がせました。

 そして、蝋燭の光と年老いた眼だけを頼りに、骨の折れる治療を始めました。

 歯を食いしばった姫の口をこじ開け、芸術品のように調合された百種類の薬を少しずつ、少しずつ注ぎ込んで行ったのです。


 やすりで少しずつ削られるように時間が、じりじりと過ぎて行きました。

 全て終わった時には、太陽はすでに空の頂点をちょっとばかり通り過ぎていました。

 部屋から出てきた医師の顔は前よりもやつれ、遥かに年老いているように見えました。


 大広間にある机に腰掛けると、手に持った瓶から茶色い酒に杯に注ぎました。

 それまで、広間の隅っこで借りてきた猫のように大人しくしていた怪物が、声をかけました。


「おい、医者がこんな昼間から酒を飲んでいいのかよ」

「ふん、貴様のせいで患者は、みんな逃げてしもうたわい。おかげで今日は商売あがったりじゃ。貴様もちょっと付き合え」


 怪物はのそのそと近づいて、酒の匂いを嗅ぎ、うえっと呻いて顔をそらしました。


「……そんなことより。ペルラはもう治ったのか?」

「いや、治っとらん」怒って、立ちあがりかけた怪物を手で制して「じゃが、できることは全部やった。聞け。わしは姫さまが生まれたその時から、王室お付きの御殿医として、あの方のお身体を診てきた。十六年間、わしは姫さまを健やかにするべく努めてきた。しかし、わしにあの方の病を癒すことはできんかった。できたのは、薬で死なないようにすることだけ。それも年々難しくなっておる……」


 強い酒を一気に煽り、医師は燃えるような目で怪物を見上げました。


「どういうつもりで、あの方を外に連れ出したか知らんがな。貴様は姫さまの残り少ないお命を最低でも一年は縮めたぞ!」


 罵られた怪物は、やり場のない憤りを感じていました。

 なぜか判りませんが、何が何でも、老医師の見立てを否定したくてたまりませんでした。


「ペルラは俺が食うのだ。そう約束したのだ! それまであいつに生きていてもらわないと困る! 医術が駄目なら、魔法があるだろ! 何か心当たりはないのか?」

「そうだな……。この世に魔女や呪い師と呼ばれる者はたくさんおるが、真の魔法使いは一人しかおらん。わしの医術も、もとはその方から習ったものだ」

「それだ! その魔法使いはどこにいる?」

「もう、この世におらんよ」


 眼を見開いたまま、凍りついた怪物を見て、医師は笑った。

 笑い声は低く、まるで自分の心を抉る刃のように鈍かった。


「化け物め。貴様と同じことをわしが考えなかったと思うか? 我が師は、とっくの昔に海の向こうにある異国で亡くなったのだ。ちょうど十六年前、姫さまが生まれ、赤い流れ星が、天を二度走ったその年にな……」


 怪物は何か言おうとしましたが、しかしその舌は口の中で石となりました。

 この舌で数え切れないほどの絶望を味わってきました。

 しかし、この絶望の味は、自分の絶望の味がこんなに苦いものだったとは……。



 

  ◆  ◆  ◆


 


 日は傾き、心配げな月が再び地平線から顔をのぞかせました。

 怪物は大きな体を小さく縮めながら、ベッドに眠るペルラを見守っていました。

 太陽の燃える口づけを受けた姫の身体は、白い包帯に覆われ、見るも無残な姿に代わっていました。


 まだいくらか苦しみの名残を残したペルラの寝顔を見つめながら、怪物は老医師から聞いた彼女の一生を思い返していました。

 怪物は終りのない病気と苦痛のことを思いました。

 日なたで遊ぶ同い年の子供たちを見ながら、たった一人、影と闇の中で過ごす毎日のことを思いました。

 王家に生まれながら王族の務めを果たせず、ただ死ぬために生きる、一片の希望もない漆黒の未来を思いました。


 怪物は、ペルラが目覚めることを恐れていました。

 あれ程どうやって、姫君を脅かすことばかり考えていたのに、今は自分を見るペルラの目に恐怖が宿ることを怖がっていました。

 その時、ベッドの中で可愛らしい声を漏らして、ペルラが体をよじりました。

 白いまつ毛のついた目蓋を開き、銀色の瞳で自分を覗き込む怪物の顔を見て……


「どうしたの? そんな情けない顔は、あなたに似合わないわ」


 微笑みました。

 病も苦痛も、孤独も絶望の闇も、何一つその笑みを損ねることはできませんでした。

 今こそ、怪物はペルラの美しさに気付きました。

 そして欲望のままに生きてきた自分が、どうしようもなく弱く思えました。


「ごめんよ、ペルラ……お前を外に連れて行くなんて、言わなければよかった」

「そんなことはないわ。私は楽しかった。とても、とても素敵だった……」


 ペルラは手を伸ばし、自分に触れようか触れまいか、迷っている怪物の指を掴みました。

 黒い毛皮と鱗に覆われたその指を、そっと頬に押し当てました。

 姫の皮膚は柔らかく、脆く、しかし暖かく、その温もりが二人をつなぎ……


 鼓動は朝日のように登りつめ、心は手をつないだまま、底知れぬ深みへと堕ちていきました。

 

 

 

 

 第八話『 幸福なひと時…… 』へ続く




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