第17話 メープルホテルの誕生 2
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれたもみじの洋館「メープルホテル」
異国が混ざり合う街で びわ色の古都、もみじの洋館
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
遥佳の母が始めたメープルホテルには、色々な人達が訪れるようになった。
春や秋の気持ちの良い季節には、もみじの葉影が、模様を織りなす庭のテーブルに珈琲やケーキを運ぶ。
遥佳も、この日は黒のワンピースに白いレース付きのエプロン、頭には白い小さめのヘッドスカートという、メイド用の制服を着て頑張っていた。
そこで、人々は色々な話をしていた。
遥佳にも、話しかけてくる人がいるし、顔なじみになる人もできた。
その日は、風景画の会の人たちが何人か座っていて、メープルホテルの自慢のアップルパイと紅茶を注文して、待っていた。
その中には、まだそれほど寒くもないのに、毛皮のストールにコート、帽子を被った女性がいる。
彼女は、もう何度か訪れていた客だった。
彼女は、テーブルのそばに来た遥佳にも、にっこり笑いかけて話すので、遥佳も微笑み返して、彼女の話を聞くことになった。
「私は父が軍人でね、小さな時から、家族と大連に住んでいたの。
大連は、街路樹の続く、広いきれいな並木道があってね。立派な建物が建っていたわ。
鉄道は速いし、住まいの設備も整っていて、すごい街だった。
子供だったけれど、あの広大な大陸の大地に作られた、あ並木道と、大通りの景色は忘れられないわ。
私の原体験は、大連なのね。
だから、今でも当時のことが忘れられなくて。心の中には、子供の頃から見ていた、大連で母達が皆が着ていたような洋服を着てしまうの。」
遥佳は行ったことのない海外の地だったが、彼女の外見が、ノスタルジックで、いつも印象的だった謎が解けた。
また、あるとき、背の高い和装の紳士と、やはり端然と着物を着た、スラリとして、眼鏡をかけた女性が食事に訪れた。
二人は、60代位の夫婦のようではあった。けれど、何か若いカップルではないが、仲が良さそうで、生活感がない、不思議な恋人同志のような雰囲気を醸し出している。
二人は、暖炉の上の絵を見ていた。
ホテルの制服に、ポニーテール姿の遥佳が近づくと、
「私の絵を掛けてくれてありがとう」
と、男性の方がにっこりして声をかけてきた。
傍の和服の女性も微笑した。
《えっ、この人があの有名な画伯!》
この街出身で、誰でも知っている、中央でも有名な画家だ。
遥佳はびっくりしながら言った。
「いらっしゃいませ。この絵は、父が持っているもので、メープルホテルを始めた時、一番にここに掛けたんです。他の部屋にも、先生の絵は掛かっているんです。
だって、この地域の風景や植物が描かれているから、遠くから来るお客様には、喜んでもらえると思います」
「君はここのお嬢さん?」
と、彼は言った。そして
「ありがとう。僕の東京の友人達も、いつもここに泊まっているけど、喜んでいたよ。この素晴らしい場所に、素晴らしい建物を、こうして生かしてくれて、ありがとう」
画伯は言った。
「私達は、帰る前に庭を少し散歩させてもらおう」
昼食に訪れた画伯夫妻は、そう言って庭に歩いて行った。
「一緒にいるのは奥様?」
「そう。とても愛妻家みたい」
そばで従業員の女性達が話している。
庭に降りると、二人は手を繋いでいる。
遥佳は、素敵な雰囲気の二人の後ろ姿に、思わず見惚れていた。
母が職を必要とする女性達と共に、暖かな食事と宿泊を提供する、といった程度で考えていたメープルホテルだったが、多彩なお客様を沢山迎えるようになり、食事の人数も増えてきたので、母は本職の料理人も雇用した。
当時職を求める人は多かったので、容易に人材を得ることができたのは幸運だった。
また別の日には、この町に公演に訪れた、有名な歌劇団の一行が、メープルホテルに宿泊したことがあった。
玄関ホールには、2階へ上がる大きならせん階段がある。
歌劇団の有名なオペラ歌手など、華やかな人々が、その螺旋階段を上がってゆく様子を、遥佳も見ていた。
華やかな思い出の中でも、ひと際鮮やかなものだった。
その頃は、この町には、まだ戦前にあったような大きなホテルは再建されていなかったせいもあり、母のメープルホテルが小さいながらも、絶頂期だったと言えるだろう。
このお話はフィクションですが、本当にあったことを元にしてもいます。
当時の香りを少しでもお届けできれば嬉しいです。




