第九話 黄海を航海
朝。
夜光恒星は盛大な伸びと欠伸をかましながら、ベッドに張り付いた上体を起こす。
そして目を擦ろうと手を伸ばせば、目の周りの皮膚がもの凄くべとついていた。
眼を擦ろうと手を左右に動かすたびに皮膚が擦れて痛みを感じる。
皮膚のべとつきは全身に及んでおり、昨夜の熱帯夜でどれだけの汗をかいたのかを物語っていた。
風呂が嫌いな恒星でも、一刻も早く入浴したいと思わせるほどである。
尤も、空助曰くこの基地には風呂がないので、入浴できるのは随分と先になるのだが。
恒星は枕元に置いておいた保存水を一気に飲み干し、空になったペットボトルを枕元に戻して、慎重に梯子を下りた。
ベッドの一段目を見れば、既に救宇の姿はなかった。
早起きなことだ。
恒星は屈んで、昨夜部屋の隅の床に畳んで置いておいたスーツ手に取り、着用した。
流石にパンツ一丁の状態でうろつくわけにはいかない。
スーツを着たのは、それ以外に着るものがないからだ。元々恒星が着ていた服は日本基地に置いてきてしまっている。
スーツを着終えた恒星はそのまま部屋を出て、会議室に向かった。
昨夜救宇と一緒に水を貰いに行った際に、空助に朝一で来るよう言われたのだ。
恒星は会議室の戸をトントントンとノックして、ドアノブを捻る。
救宇に次いで二番目、と思いきや、会議室には既に光と救宇がいた。
二人は既にテーブルを囲む椅子に腰掛けている。
「恒星さん遅いっスよ。いま何時だと思ってんスか?」
「三時前じゃないのか?」
「七時っスよ」
「よし、セーフ」
恒星が小さくそう言うと、反対に救宇は溜息をついた。
光もどこか呆れた目で恒星を見てくる。
「全然セーフじゃないっスよ。昨日、三時起きだって言ったじゃないっスか」
恒星にとって目覚ましなしで七時に起床できるのは快挙であるのだが、二人は不満顔だ。
まぁ、本当は三時には起きなくてはならないので、そう考えれば大寝坊もいいとこなので当然と言えば当然なのだが。
「ほんとよ。何回か起こしに行ったんだけど全然起きなくて、結局私と救宇と空助の三人で準備したんだから」
「それは……ごめん。ところで準備ってなんだ」
恒星は頭の後ろをぼりぼりと搔きながら言う。
「そっか。恒星は知らないのよね。寝てたから」
「……ごめんなさい」
恒星が光と救宇に向かって頭を下げたその時、会議室の扉がガチャリと開いた。
「船の整備終わったぞー」
恒星はその声を聞いて反射的に姿勢を戻し、後ろを振り向く。
そして、そんな恒星の視線の先に居たのは空助だった。
空助は顔や着用するスーツにところどころ黒い汚れが付いていた。
光の言う準備をしたことで着いた汚れなのだろうか。
というか、よく見れば光と救宇にも同じ汚れが付着していた。
「船の整備?」
「そうよ。いまから船に乗って中国基地を目指すのよ」
「中国基地? 空助さんとはもう合流できたし、行かなくてもいいだろう」
船……とは恐らく空助が中国基地からここに来るときに乗った船のことだろう。
恒星が疑問に思ったのは、何故中国基地に向かうのか、についてだ。
光に聞いた予定だと、中国基地に行くのは空助と合流するためだったはずだ。
空助と合流できた今、中国基地に行く理由はない。
本部までは車で向かえばいいだろう。
そう恒星は考えたのだが、三人は首を横に振った。
「中国基地にはWGSPが保有するジェット機がある。それでモンゴルまで行くことにした。操縦はオレがやる」
「なるほど。そんなものが……WGSP凄いな」
どうやらWGSPは船やヘリだけではなく、ジェット機まで所有しているらしい。
もう感嘆の声を上げるしかない。
「でしょ。WGSPは凄いのよ」
光は椅子から立ち上がり、己の胸を叩いて誇らしげに言った。
恒星が光から初めてスーツを受け取った時と、同じ声、同じ仕草、同じ顔だ。
「陸路で本部に向かうっていう選択肢も考たんだが、それだとどうしても韓国と北朝鮮の国境、通称三八度線を通らなくてはならない。あそこは地雷原がある。だからやめた。歴史の授業とかで習わなかったか?」
「習いました」
三八度線なんか聞いたこともないが、正直に言えば呆れられそうなので、習ったと言っておく。
「そこを通らないルートも存在するんだけだろうけど、生憎私たちは知らないわ。地図にも乗ってなかったしね。だから却下ってこと」
「なるほど」
話を纏めれば、今から船で中国本土まで渡り、中国基地に行く。その後中国基地にあるジェット機で本部まで飛ぶ。
そういうことらしい。
自分の寝てる間にそこまで考えてもらったのは、感謝すべきだろう。
「じゃあ、各自なるべく早く自分の荷物を持って船の前で集合な」
空助はそう言って、部屋から出て行った。
恒星は部屋に戻り、スーツのポケットに保存水を詰め込んだ。
腰の両ポケットにそれぞれ二本ずつ、更に両手に一本ずつ持って計六本だ。
そして救宇も同様にポケットに保存水を詰め込み、両手にペットボトルを持つ。
「自分の荷物って言ってもこれしかないよな」
「そうっスね」
救宇を助ける前に収集した魔石は、あの後ポケットから出して救宇の家に置き、そのままだ。
着替えは持っていないし、食料もない。地図は光が持っている。
そうなれば荷物は保存水くらいだ。
「じゃあ行くっスよ。船の場所は僕が案内するっスから、恒星さんは着いてきてください」
「わかった」
そうして恒星と救宇は一夜を過ごした韓国基地の一室を後にした。
「これっス」
「思ったより小さいんだな」
救宇に連れてこられた場所は、韓国基地の直ぐ裏手だった。
韓国基地の裏手には細いコンクリートの道に、胸壁を挟んで海が広がっており、更に一隻の小さな漁船のような船が泊まっていた。
これが例の船なのだろう。
「ふぁぁぁあああ……眠」
「アンタ眠いの? めっちゃ寝てたくせに」
恒星が無意識に欠伸をすると、後ろから来た光に突っ込まれた。
因みに、その横には空助もいる。
「まぁ、ちょっとな」
昨夜は色々あって眠れなかった。
故に欠伸が出てしまった。
それとは別に、寝坊したのは……反省している。
「空助さんはこの船でここまで来たんスか。随分と小さい船っスけど……」
「あぁ。オレはこの船でここまで来た。この船は小さい割には頑丈だ。この時期の黄海なら余裕で渡れる」
小さい割に頑丈。
というからには恐らくこの船もWGSP所有の船なのだろう。
なんとなく安心だ。
「狭い船で悪いな」
「いやいや、大丈夫っスよ。ほら、早く乗るっスよ」
「そうだな」
救宇はどこか焦燥の表情を浮かべながら胸壁を跨いで、船に飛び乗った。
恒星含め残りの三人も船に乗った。
空助が係船ロープ(船を港に泊めておくための紐)を解いたため、誰も操舵していないのに船が少しずつ陸から離れていく。
「これから長い船旅になる。最低でも十五時間ぐらいはかかるだろう。その間休んでいろ」
そう言って船の操舵室らしきところに向かっていく空助に向かって三人は、
「「「十五時間!?」」」
と驚愕の声を上げた。
暫く航行し、陸地が見えなくなった辺りでトラブルが発生した。
――救宇が船酔いをし始めたのだ。
「大丈夫か?」
取り敢えず、救宇の看病は手が空いていた恒星がすることになった。
空助は船の操舵で手が離せず、光はあまり眠れなかったと言って船の端で眠ってしまったから、恒星がやるしかなかったのだ。
光を起こすことなど、間違ってもできない。
「そういう恒星さんは平気なんスか?」
「まあな」
「僕、船に乗るの初めてでおろろろろろろ」
救宇は気持ち悪そうに腹を抑えながら、海の方を向いて盛大にリバースした。
透き通った海が一部、茶色に染まっていく。
「おいおい大丈夫かよ。そういえばお前、ヘリに乗った時も吐いてたよな」
「あれは光さんの運転が酷すぎるだけっスよ」
「ははは、そうか。俺も酔い耐性には自信があるんだが、あの時は吐いちゃったしな」
恒星はともかく、救宇も気持ち悪さを忘れて笑う。
「あの時僕、三回も吐いたっスからね。初めてっスよあんなこと」
「ははは。光の操縦、酷かったもんな」
その時、
「……誰の操縦が酷いって」
救宇と笑い合っていると突然、背後からドスの聞いた声が聞こえた。
一瞬にしてその場から笑いが絶え、身体が凍りつく。
恒星と救宇は恐る恐る、後ろを振り返る。
そして振り返った先には、拳を握りしめた、般若がいた。
「顔……大丈夫か?」
あの後、般若、もとい光に、看病代わるからアンタは操舵室にいる空助と話してこい、と言われ恒星は操舵室の戸を叩いた。
そしてそこで操縦桿を握っていた空助に、そう心配された。
「ちょっと光を怒らせちゃって」
「そうか。気をつけろよ。アイツ、怒ったら怖いこと知ってるだろ」
「はい」
光は怒ったら怖い。
それは付き合っていた時からそうだった。
光に対して今日臭くないと言った日には両手ビンタを食らったし、意図せずパンツを見てしまったときなんて、股間を思いっきり蹴られた。
空助も恒星の話を聞いて驚かない辺り、経験があるのだろう。
「光から聞いたんですが、話って何ですか?」
「あぁ、それなんだが、お前に一つ訊きたいことがあるんだが、いいか?」
「えぇ、構いませんけど」
恒星がそういった瞬間、船が大きく揺れた。
ふらっと身体がよろめいたが、ドア脇の柱を掴んで体勢を直す。
その時、操舵室の外から先程聞いたばかりの、海を茶に染める音が聞こえた気がするが、気にしないことにする。
「光から聞いたんだが、お前、ゴブリンに襲われたところを運よく光に助けてもらったんだってな」
「えぇ、そうです。光には感謝しています」
「そうか。何かおかしなことはなかったか。例えば、ゴブリンが襲ってこなかった、とか」
「……おかしなこと、ですか」
恒星は顎に手を当て、思案する。
おかしなこと……恒星には一つ心当たりがあった。
救宇を助けた時に抱いた違和感だ。
「それで言うと一つあって……確か、ゴブリンの襲撃にあったとき、何故か奴ら、俺の周りを囲うだけで襲ってこなかったんですよね。しかもこっちに来いってジェスチャーもしてきました。救宇は容赦なくゴブリンに運ばれていたのに」
「そうか。確かにそれはおかしい。ゴブリンはジェスチャーで誘い出すような丁重な生き物じゃない。基本数匹がかりで無理やり運んでいくし、抵抗すれば棍棒を振るって殺すこともある」
「そう……ですか」
どうやらアレはゴブリンの気まぐれではなかったようだ。
WGSPの団員で光の上司の方が言うのだから間違いない。
――なら一体、なんで……。
そう恒星が思ったところで、空助は言った。
「何か、心当たりはないか」
ここで恒星は気付いた。
自分が、疑われているんだ、と。
だが、恒星には全く心当たりがない。
ゴブリンを見たのだってあの時が初めてだ。
「心当たりなんて、ないですよ。何も」
恒星は変に戸惑って返すと更に怪しまれると思い、地声を意識して答えた。
表情も変えず、真顔で。
そしてそれが功を奏したのか、
「そうか。なら仕方がない。ゴブリンってのは謎多き生命体だ。そういうこともあるだろう」
と空助は言った。
「しかもお前は光の元カレなんだろ」
「な、何故それを?」
「光が言ってた」
空助は小さく笑った。
「信用しよう」
空助はそう言うと、後ろを振り向いて、手を差し出してきた。
取り敢えず、恒星もその手を握り返す。
――やっぱり俺、疑われてたな。取り敢えず助かった。
恒星はそう思いながら、空助の手を放し、操舵室を出た。
「思ったほど海が荒れてなくて助かったな」
「そうね、予定よりも大分早く着けたんじゃない?」
陸地に辿り着いたのは、空が紅く染まる頃だった。
予定では暗い時間に到着することになっていたので、光の言う通り、大分早く着けたのだろう。
それは空助の言う通り、海が荒れていなかったというのも一因としてあるのだろうが、空助の操舵技術が高いのもあってのことだろう。
なにせ、船が大きく揺れたのは恒星が操舵室でよろめいた一回きりだったのだから。
「な、長かった」
だが、一人だけ、違う感想を抱いた者がいた。
救宇だ。
救宇は腹を抱えて腰を曲げながら、苦しそうにそう言った。
だが、救宇がその感想を述べるのも無理はない。
救宇にとってこの数時間は地獄そのものだったのだ。
救宇は恒星が見届けただけでも、四回はリバースしている。
記録更新だ。さぞ苦しかったことだろう。
「これから中国基地に向かうんですよね?」
「あぁ。中国基地はここからそう遠くない位置にある。救宇が回復し次第向かおう」
「そうね」
中国本土も日本や韓国と同様に、ゴブリンの襲撃に遭ったようで、海辺の家々は凄惨な状態だった。
家は壊滅し、電柱は倒れ、道路はひび割れ、車は黒焦げになっていて……。
そんな様子を横目に見ながら三キロほど歩いた場所に、中国基地は存在した。
「でけぇぇぇっス」
「すごいな、こりゃ」
恒星と救宇は中国基地を見上げながらそれぞれ感想を述べる。
中国基地は巨大だった。
日本基地の何倍も大きく、まるで要塞だった。
とはいえ、大きさ以外の見た目は日本基地、韓国基地と変わらず、全面コンクリートにところどころ窓と通気口がある感じだった。
周囲の建物は壊滅しているのに、中国基地だけはほぼ無傷でそこにあるのは、流石WGSPの基地と言うべきだろうか。
「じゃあ、入るぞ」
空助はそう言って中国基地のドアを開けて中に入っていき、恒星達も後に続いた。
一日遅れました。すんまそん。
次の話で折り返しの予定です。




