第四章「監視と孤独」
綾人が目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗く、街路樹の影が揺れていた。
部屋の空気には昨日までとは違う重みがあり、心臓の奥でざわつくものを感じる。
昨夜もまた、隣室の影が微かに揺れ、囁きが壁越しに届いていたのだ。
――「見ている」
布団から起き上がると、机の上に置いていたノートとペンの位置がわずかに変わっている。
昨日はここに置いたはずのメモが、微妙に机の端に寄せられていた。
「……またか」
ため息をつきながらも、綾人の視線はその変化に吸い寄せられる。
何者かが自分の行動を追い、生活に干渉しているのは間違いない。
だが、誰も姿を現さない。声もない。光もない。
キッチンに立つと、冷蔵庫の中の食材がさらに整然と並んでいた。
昨夜補充された牛乳や卵の位置が、また微妙に変わっている。
スプーンや箸は、わずかに揃え直され、布巾は折り目まで正確に整っている。
「誰が……こんなことを」
問いかけても答えはない。
それでも胸の奥で、なぜか安堵を覚える自分がいる。
恐怖と安心が混ざり合い、理性が少しずつ蝕まれていく。
午後、綾人は大学から帰宅すると、廊下に出て103号室のドアを確認した。
わずかに開いた扉の隙間から、昨日と同じ微かな影が差し込み、何かを待つように揺れている。
視線を合わせる勇気はない。
しかし、背筋を走る冷たい感覚は否応なく伝わる。
息を殺し、静かに扉の前を通り過ぎる。
夜、布団に入ると、部屋の壁の向こうから再び微かな音が聞こえる。
椅子が引かれる音、紙がめくられる音、誰かの足音――
全てが小さく、不規則で、しかし確実に存在を感じさせる。
振り返っても、影はない。
光も音も届かない闇の中で、ただ心がざわつく。
綾人は次第に孤独を強く感じるようになる。
電話をかけても誰も出ない。メールの返信は遅く、やり取りはほとんど断絶されている。
大学の友人に会っても、何かが違和感として残る。
「……自分だけが、歪みに巻き込まれている」
心の奥で呟くと、孤独がさらに胸に広がる。
その夜、綾人は103号室の前に立ち、扉の隙間から中を覗いた。
暗がりの奥には何もないはずなのに、空気は重く、湿った匂いが漂う。
椅子や机が、自分の生活の痕跡を真似しているかのように並べられていた。
胸が詰まり、息ができなくなる。
「……この部屋は、僕の生活を写している?」
耳を澄ますと、壁越しに低い囁きが聞こえた。
「君は、ひとりじゃない……」
声は優しいが、どこか威圧的で、背筋が凍る。
安堵と恐怖が交互に押し寄せ、理性が薄くなる感覚。
布団の中で、綾人は震えながらもその囁きに耳を傾けてしまう。
次の日、綾人は自分の部屋の物が動く現象を記録し始めた。
ノートにメモを取り、家具や小物の位置を写真に収める。
だが、どれも決定的な証拠にはならない。
それでも、心理的な侵食は確実に進んでいることを、自分の心が痛感していた。
夜になると、壁越しの音が増幅する。
椅子が引かれる音、紙がめくられる音、微かな息遣い。
見えない誰かが生活に介入している――その感覚が、恐怖と同時に不可解な安心感を与える。
綾人は気づく。孤独だからこそ、侵入者を求めている自分がいる。
「……明日、103号室の真実を確かめる」
小さく呟き、目を閉じる。
しかし、鼓動は速く、体の力は抜けず、眠れないまま夜は過ぎる。
部屋の物は少しずつ変化し、壁の向こうから漂う微かな気配が、綾人を影の生活へと誘っていた。
この夜、綾人は理解する。
恐怖とは怪物や幽霊ではなく、人の存在そのもの、日常の微妙な変化、そして自分の心理の歪みにあることを――。
そして、その歪みは確実に自分の生活を覆い、知らず知らずのうちに影の世界へと引き込んでいくのだった。




