三章「影の生活」
部屋の時計が23時を回った頃、綾人は決意する。
明日は、103号室の真実に触れよう。
恐怖と好奇心の入り混じった胸の鼓動が、夜の静けさを引き裂く。
彼の目の前には、静かに、しかし確実に侵食される日常の“歪み”が広がっていた。
翌朝、綾人は目覚めると、自分の机の上に置かれたノートに違和感を覚えた。
昨日の夜、確かにそこに置いたはずのペンやメモが、わずかに整頓されている。
書きかけのノートの角度も微妙に変わっていた。
「……また、誰かが?」
小さな声で呟く。だが部屋には誰もいない。
朝食を摂ろうとキッチンに立つと、冷蔵庫の中の食品が整然と並べ替えられていた。
牛乳や卵、野菜の位置まで、まるで誰かが自分の生活を“監視”しているかのようだった。
手にした牛乳パックには、昨日と同じく小さなメモが貼られている。
「君のために整えました」
その文字の美しさ、丁寧さは恐怖の対象であるはずなのに、どこか安心感を与えた。
綾人は困惑しながらも、自然と手を伸ばして冷蔵庫から食材を取り出す。
「……助けてくれているのかもしれない」
そう思うと、恐怖の端が少し和らぐ。
しかし、心の奥底では常に、背後から監視されているような感覚が残る。
昼、大学から帰宅した綾人は、隣人の異常さをさらに実感することになる。
廊下に出ると、103号室のドアがわずかに開き、奥から微かに影が揺れた。
その影は、彼の生活を覗いているかのように、わずかにドアの隙間から身を乗り出している。
「……やめろ」
思わず声に出すが、影は静かに揺れるだけで、応答はない。
胸の奥が締めつけられるように痛み、振り返る勇気も出ない。
夜になると、部屋の空気はさらに重くなる。
椅子の角度、机の上の書類、ベッドの枕の向き。
すべてがわずかに変化し、誰かの存在を感じさせる。
壁を通して伝わる微かな振動、息遣いにも似た音。
綾人は布団に潜り込むが、鼓動は早く、目は開かずとも周囲の異変を感じ取ってしまう。
ある夜、綾人は隣室から微かな声を聞く。
「君のために……」
囁きは低く、優しくもあり、しかしどこか威圧的でもある。
その声に呼応するように、綾人の心は揺れる。
恐怖と安心、疑念と好奇心――すべてが入り混じり、理性が少しずつ崩れていく感覚。
数日後、綾人は自分の部屋の物が勝手に動く現象を記録し始める。
ノートにメモし、配置の変化を写真に撮る。
だが、どれも決定的な証拠にはならず、監視されている感覚だけが確実に積み重なる。
この日、綾人は初めて自ら103号室の前に立ち、扉の隙間から中を覗く勇気を出した。
暗がりの奥には、微かに椅子の影が揺れ、まるで自分の行動を観察しているかのようだ。
息を呑む。光の差し込み方で、影が動くたびに不気味さが増す。
「……僕は、依存しているのかもしれない」
恐怖を感じつつも、無意識に安堵している自分に気づき、綾人は背筋が寒くなる。
自分の生活を勝手に整えてくれる存在。
それは、安心であり、同時に侵食であることを、彼は理解し始めていた。
夜中、壁越しに微かな音が続く。
椅子が引かれる音、紙がめくられる音、微かな足音。
それは確かに、見えない誰かが自分の生活に介入していることを示していた。
しかし、恐怖と共に、心の奥底ではその介入を求める自分もいる。
孤独な生活の中で、他者の関与を切望してしまう心理――
それが、自分をさらに影に近づけることになるとは、まだ綾人は知らない。
翌日、綾人は管理人とすれ違う。
管理人の表情は無言の警告を発していた。
「103号室には……関わるな」
言葉少なに背中を向ける管理人。
その目に、微かに恐怖と後悔が滲んでいることに、綾人は気づく。
部屋に戻ると、綾人は思わず103号室を見つめる。
昨日と同じく、微かにドアが揺れ、影が差し込む。
息を潜め、扉に近づくたび、心の奥がざわつき、恐怖と好奇心がせめぎ合う。
「……明日こそ、確かめなければ」
小さく呟く声。
布団に潜り込むが、眠れない。
壁越しの音は止まらず、部屋の物は少しずつ変化し、夜ごとに侵食が深まっていく。
その夜、綾人は理解する。
恐怖とは、怪物や幽霊ではなく、人の存在そのもの、日常の微妙な変化、そして自分の心理の歪みであることを――。
そして、その歪みは確実に自分の生活を覆い、知らず知らずのうちに影の世界へと引き込んでいくのだった。




