二章「壊れる音」
引越しから数日経った朝、綾人は目覚めると、自分の部屋の空気がわずかに違うことに気づいた。
ベッドの向き、机の上のメモ、椅子の角度――前夜に置いたはずの場所と微妙にずれている。
「……気のせいか?」
自分に問いかけるが、胸の奥にざわつく違和感が残る。
朝食を摂ろうとキッチンに立つと、冷蔵庫の扉に小さなメモが貼ってあった。
「牛乳を補充しました。君のために」
文字は整っていて、丁寧に書かれている。
だが、綾人は誰が置いたのか思い当たらなかった。
昨日の夜、彼は部屋から一歩も出ていない。
恐る恐る辺りを見回すと、窓の外には隣室の103号室のカーテンがかすかに揺れている。
誰かがこちらを覗いている気配――それは昨日の夜の囁きと重なる。
胸の奥が締めつけられ、背筋が冷たくなる。
その日の昼、綾人は大学に向かうため外に出た。
道中、住宅街の静けさが逆に不気味に感じられる。
通り過ぎる住人の視線がやけに鋭く、誰もが自分を見透かしているような錯覚に襲われた。
「気のせいだ……」
心の中でそう繰り返すが、足取りは重く、肩が内側に巻き込まれる感覚があった。
大学から帰宅すると、部屋の物がさらに違和感を帯びていた。
靴の位置、机の上のノートの向き、キッチンのスプーンの角度まで、微妙に狂っている。
まるで誰かが、無言で自分の生活を監視し、少しずつ変えているかのようだ。
その夜、綾人は隣室の103号室のドアの前に立った。
前日とは違い、ドアはわずかに開いているが、中からは音も光も漏れない。
「見に行くべきではない」
頭の中で声が反響する。しかし、確かめたい衝動が勝った。
恐る恐るドアを開け、廊下の影に目を凝らす。
部屋の中は無人のはずなのに、空気が重く、湿ったような匂いが漂う。
そして壁に沿って、微かに自分の生活の痕跡が置かれていることに気づいた。
椅子が自分の体重を受けた形でわずかに傾き、机の上には使い慣れたペンが整然と並べられていた。
心臓が早鐘のように打ち、手が震える。
「……誰が?」
言葉にならない疑問を口に出す。答えはない。
それでも、昨日の囁きが聞こえたような気がした。
――「見ている」
翌日、綾人は管理人に再び問いただした。
「103号室の住人について、何か知っていますか?」
管理人の顔は青ざめ、目を逸らす。
「…関わるなと言ったはずだ」
言葉だけで、説明は何もない。
しかしその声には、かすかな恐怖が滲んでいた。
綾人の生活は、少しずつ侵食されていった。
部屋に帰ると物音がする。
扉の向こうで微かに家具が触れ合う音、廊下に足を踏み入れる気配。
振り返ると何もいないが、背筋の冷たさは消えない。
日常の歪みが、確実に彼を包み込んでいた。
数日後、綾人は異変が自分だけでなく、町全体にあることに気づく。
隣人だけではなく、他の住人も、目立たず監視しているような視線を感じることがある。
電話やメールにも微妙な変化があり、誰かが自分を見守り、生活に干渉しているのではないかという感覚に襲われる。
綾人は次第に孤立感を覚え、恐怖と好奇心が入り混じった心理状態に陥る。
「……確かめないと、何も分からない」
その思いが強くなるたび、日常の違和感は鮮明になり、夜になると壁の向こうから聞こえる囁きに耳を澄ませる。
布団に入っても眠れず、壁を伝う微かな振動、隣室の気配、影の動きが意識に浮かぶ。
恐怖に包まれたまま、綾人は気づく。
「この町は、普通じゃない」
そして、自分の知らないところで、誰か――何か――が自分の生活を少しずつ形作り、侵食していることを。




