表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

二章「壊れる音」

引越しから数日経った朝、綾人は目覚めると、自分の部屋の空気がわずかに違うことに気づいた。

ベッドの向き、机の上のメモ、椅子の角度――前夜に置いたはずの場所と微妙にずれている。

「……気のせいか?」

自分に問いかけるが、胸の奥にざわつく違和感が残る。


朝食を摂ろうとキッチンに立つと、冷蔵庫の扉に小さなメモが貼ってあった。

「牛乳を補充しました。君のために」

文字は整っていて、丁寧に書かれている。

だが、綾人は誰が置いたのか思い当たらなかった。

昨日の夜、彼は部屋から一歩も出ていない。


恐る恐る辺りを見回すと、窓の外には隣室の103号室のカーテンがかすかに揺れている。

誰かがこちらを覗いている気配――それは昨日の夜の囁きと重なる。

胸の奥が締めつけられ、背筋が冷たくなる。


その日の昼、綾人は大学に向かうため外に出た。

道中、住宅街の静けさが逆に不気味に感じられる。

通り過ぎる住人の視線がやけに鋭く、誰もが自分を見透かしているような錯覚に襲われた。

「気のせいだ……」

心の中でそう繰り返すが、足取りは重く、肩が内側に巻き込まれる感覚があった。


大学から帰宅すると、部屋の物がさらに違和感を帯びていた。

靴の位置、机の上のノートの向き、キッチンのスプーンの角度まで、微妙に狂っている。

まるで誰かが、無言で自分の生活を監視し、少しずつ変えているかのようだ。


その夜、綾人は隣室の103号室のドアの前に立った。

前日とは違い、ドアはわずかに開いているが、中からは音も光も漏れない。

「見に行くべきではない」

頭の中で声が反響する。しかし、確かめたい衝動が勝った。


恐る恐るドアを開け、廊下の影に目を凝らす。

部屋の中は無人のはずなのに、空気が重く、湿ったような匂いが漂う。

そして壁に沿って、微かに自分の生活の痕跡が置かれていることに気づいた。

椅子が自分の体重を受けた形でわずかに傾き、机の上には使い慣れたペンが整然と並べられていた。


心臓が早鐘のように打ち、手が震える。

「……誰が?」

言葉にならない疑問を口に出す。答えはない。

それでも、昨日の囁きが聞こえたような気がした。

――「見ている」


翌日、綾人は管理人に再び問いただした。

「103号室の住人について、何か知っていますか?」

管理人の顔は青ざめ、目を逸らす。

「…関わるなと言ったはずだ」

言葉だけで、説明は何もない。

しかしその声には、かすかな恐怖が滲んでいた。


綾人の生活は、少しずつ侵食されていった。

部屋に帰ると物音がする。

扉の向こうで微かに家具が触れ合う音、廊下に足を踏み入れる気配。

振り返ると何もいないが、背筋の冷たさは消えない。

日常の歪みが、確実に彼を包み込んでいた。


数日後、綾人は異変が自分だけでなく、町全体にあることに気づく。

隣人だけではなく、他の住人も、目立たず監視しているような視線を感じることがある。

電話やメールにも微妙な変化があり、誰かが自分を見守り、生活に干渉しているのではないかという感覚に襲われる。


綾人は次第に孤立感を覚え、恐怖と好奇心が入り混じった心理状態に陥る。

「……確かめないと、何も分からない」

その思いが強くなるたび、日常の違和感は鮮明になり、夜になると壁の向こうから聞こえる囁きに耳を澄ませる。


布団に入っても眠れず、壁を伝う微かな振動、隣室の気配、影の動きが意識に浮かぶ。

恐怖に包まれたまま、綾人は気づく。

「この町は、普通じゃない」

そして、自分の知らないところで、誰か――何か――が自分の生活を少しずつ形作り、侵食していることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ