一章「隣の影」
都会の喧騒を離れ、綾人は古びた住宅街にある小さなアパートに引っ越してきた。
大学を出て初めての一人暮らし。希望と不安が半分ずつ混ざった心持ちで、段ボールを片付ける。
窓から差し込む光は柔らかく、街路樹の影がゆらゆらと揺れている。
とても静かで、目立たない場所。そこがこのアパートを選んだ唯一の理由だった。
荷物を整理し終え、ようやく落ち着いた昼下がり。綾人はふと隣の103号室のドアに目をやった。
普段はぴったり閉まっているはずの扉が、わずかに開いている。
気のせいかと思いながら近づくと、中から細い白い指が一本、廊下の空気を探るように伸びていた。
思わず息を呑む。指先は異様に白く、光を吸い取ったように見える。まるで現実の色が少しずれているかのようだった。
「……あの、何か?」
声をかけると、手は止まり、隙間から顔が半分だけ覗いた。
髪は乱れ、目は焦点が合わず、瞳はどこか遠くを見ているようだ。
しかし、その視線はまるで綾人の背後にある何かを捉えているかのようだった。
「見えますか」
囁くような声に、思わず背を向ける。
だが、背後には何もない。静まり返った廊下。窓から差し込む光だけが淡く揺れる。
「え……何が?」
「そこにいるじゃないですか。あなたの後ろに」
背筋がぞくりと冷えた。
振り返るが、やはり何もない。
再び彼女の顔を見た瞬間、ドアは静かに閉まった。
指先も、目の焦点も、すべてが消えた。
だが胸の奥には、言いようのない違和感が残った。
***
その夜、綾人は布団に入っても眠れなかった。
部屋の壁の向こう、隣室からかすかに音がする。
――コン、コン。
規則的ではなく、不規則で、しかし微妙に一定のリズム。
耳を澄ますと、壁が軽く弾くような音が響く。
隣の部屋か。いや、壁の向こうだとしても、正体は分からない。
息を潜めていると、今度は壁の内側から――
――コツン。
微かに、だが確かに「見ている」と囁く声が聞こえた気がした。
幻聴か、現実か。判断がつかず、体がこわばる。
布団にもぐり込むが、鼓動が耳に響き、目を閉じても闇が深く押し寄せる。
***
翌朝、綾人はアパートの掲示板を見に行った。
住人名簿が貼られている。
ほとんどは普通の名前だが、103号室だけが異様だった。
103号室 氏名:記載不可(事情により)
「事情とは……一体、何なんだ?」
昨夜の音、隣人の言葉、目にした指先。
すべてが説明できない。
しかし不安と同時に、胸の奥に妙な好奇心が芽生えていた。
知らずに過ごすより、確かめたい――そんな衝動が、自分の内側でざわめく。
背後から声がした。管理人らしい男の声だ。
「……関わらない方がいい」
振り向くと、青ざめた顔の中年男が立っていた。
目には恐怖が滲み、何かを隠そうとしている。
男は低くかすれた声で続ける。
「この部屋の住人は、人を見るんです。
生きている人も、死んだ人も、自分自身すらも……」
その言葉が綾人の頭を駆け抜けた。
胸の奥がひりつき、体の力が抜けていく。
だが、同時に止められない衝動があった。
知らないまま過ごすより、確かめたいという気持ち――。
「……見に行くべきなのか」
小さく呟いた声が、静まり返った廊下に吸い込まれていく。
窓の外の街路樹は静かに揺れ、鳥の声も聞こえる。
だが、綾人の心はすでに違和感に捕らわれ、後戻りできない場所へ踏み出していた。
***
その日の夜、廊下に出ると、103号室のドアはわずかに開いていた。
中からは光も音も出ていない。
ただ、廊下の床に影が落ちている――人の形ではない、しかし人の気配があるような不気味な影。
綾人は息を殺し、影に目を凝らす。
影は、彼の視線を意識するかのように微かに揺れ、消えそうで消えない。
「……来てください」
昨日聞いた声。かすかな囁きが、廊下に響く。
振り返る場所もなく、前に進むしかない。
綾人は手を伸ばし、そっとドアの隙間に触れた。
冷たく、湿った感触。
体が固まり、息が詰まる。
その瞬間、背後で小さな物音がして、振り返ろうとしたが、視線の先には何もなかった。
深呼吸して、ゆっくりと息を整える。
だが胸の奥では、静かに、確実に、恐怖と好奇心が混ざり合って渦巻いていた。
綾人は知らなかった。
この瞬間から、自分の生活は少しずつ狂い始めるということを――。




