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未来屋 環恋愛作品集

魔法のチョコレートを、君に

作者: 未来屋 環

 ――その魔法に、救われた。



 『魔法のチョコレートを、君に』/未来屋(みくりや) (たまき)



 毎日終わりの見えない道を歩いている。

 いつになったら光が射すんだろう。

 それすらわからないまま、今日も私は会社に向かう。


「石田さん、まだできてないの?」


 上司から呆れたような声をぶつけられ、私は何も答えられずに(うつむ)いた。

 視界の外からため息の音が聞こえる。

 このままだと(らち)が明かないので、私は一言「……すみません」と蚊の鳴くような声で(つぶや)いた。


 これが入社して3年目の私のルーティンだ。

 他の部署に配属された同期たちは生き生きと活躍しているのに、一体私は何をやっているんだろう。


 学生時代はそこそこの人生を送っていた。

 就活はまぁまぁ苦労したけれど、最終的には名の知られた会社に内定をもらえてほっとして。


 ――世界が暗転したのは、そのあとだった。


 配属された部署に歳の近い人はおらず、「最近の新人は優秀らしいから」という言葉と共にどんどん仕事が渡されるものの、理解が追い付かない。

 気付けば上司と私の間に共通言語はなかった。


「いいよなぁ、おまえの所の新人優秀で。うちのは多分最下位だな」


 リフレッシュルームから聞こえてきた声に、私の身体が硬直する。

 中を覗くと、嘲笑(わら)いながら愚痴を(こぼ)す上司がいた。


 その日、呪いのようにこびりついた声を、私はまだ振り払えずにいる。



「じゃあそれ、明日の朝までにやっといて。お先」


 今日も帰っていく上司の背中を見送り、私は人気(ひとけ)のないオフィスでぽつんと仕事を続けていた。

 そして、規則的にプリントを吐き出す複合機の前に立った時――背後から声が降る。


「――あれ、まだ残ってる」


 驚いて振り返ると、そこには背の高い男性が立っていた。

 話したことはない――けれど、有名なひとだから一方的に知っている。


 経営企画部の甲斐(かい)さん。

 支社に入社以来見る見るうちに頭角を現し、今の部署に引き抜かれ幹部たちからも一目置かれているという。

 切れ長の目には力があり、そこにいるだけで強い存在感を放つ――うだつの上がらない私とは正反対のひとだった。


「石田さん、いつも遅くまでおつかれさま。本当によく頑張るね」

「――えっ」


 急に名前を呼ばれて驚く。

 まさか、あの甲斐さんが私の名前を知っているなんて。

 戸惑(とまど)いのあまり咄嗟(とっさ)に出た言葉は、自分でも思いがけないものだった。


「いえ、頑張れてないです……全然」


 自分で(はな)ちながらも、その台詞(せりふ)に心をぎゅっと握りつぶされる。

 甲斐さんがその目を少しだけ見開いた。

 不快な思いをさせてしまった――そう後悔した瞬間、その形の良い口唇(くちびる)から落ち着いた声が(つむ)がれる。


「そんなことないでしょう。こんなに頑張れるひと、なかなかいないよ」


 久々にかけられた優しい言葉に、目頭(めがしら)が熱くなった。

 でも、こんな所で泣いたら、それこそ迷惑だ。

 私は慌てて印刷した資料を持ち「失礼します」と席に戻った。


 そのまま追い立てられるように作業して、なんとか目処(めど)をつける。

 これでひとまず明日も生き残ることができそうだ。


 ふぅと一つ息を吐いたその時、背後から声が響いた。


「おつかれさま。はい、これ」


 顔を上げると、甲斐さんがこちらにビニール袋を差し出している。

 私が慌てて立ち上がろうとすると、甲斐さんは「座ったままでいいよ」と少し口元を上げた。

 控えめな笑い方をするひとだと思いながら、私はその袋を受け取る。


 中には海外のものらしきお菓子が入っていた。

 白いパッケージにはブルーベリーとチョコレートのイラストが上品に(えが)かれている。

 すっきりとしたデザインがおしゃれで、なんだか甲斐さんらしい。


「甘いもの、大丈夫?」

「あ、はい……」

「良かった、じゃあどうぞ」


 甲斐さんが穏やかに続ける。


「疲れている時とかいっぱいいっぱいになった時、一粒食べてみて。きっと上手くいくから」


 そして「あまり遅くならないようにね、おつかれ」と甲斐さんはフロアーを出て行った。

 その背中を見送ってから、ろくにお礼も言えずにいたことに気付く。


 ――明日の朝、ご挨拶しよう。


 私はもらったばかりのチョコレートを取り出してみた。

 濃い色のチョコレートはころりと丸みを帯びていて、まるでベリーそのものだ。

 くぅ、とおなかの鳴る音に催促されて、私はそれを口に運ぶ。


 そして一噛みした瞬間――口の中に幸せが広がった。


「……おいしい」


 思わず声が()れる。

 コーティングしているダークチョコレートは決して苦すぎず、上品で深い甘みを舌に残していた。

 そのあとから爽やかなベリーの甘酸っぱさが追いかけてくる。


 我慢できずにもう一口。

 やっぱりおいしい。

 もう一つだけ――と手が伸びそうになったところで、慌てて自制する。

 せっかく甲斐さんがくれたんだから大切に味わおう。


 私は袋に自分の名前を書き、共用の冷蔵庫の端にそっと忍ばせた。


 ***


 不思議なことに、それから少しずつ物事が上手く回り出した。

 上司の態度は変わらないけれど、落ち込むことがあってもチョコレートを一粒食べると気分がリセットできる。

 それこそ、まるで魔法のように。


 そして、職場で甲斐さんを見かける度に、なんだか心が安らぐ。

 一度お礼を伝えたら「あまり無理しないように」と小さく口元を上げてくれた。

 そのささやかな笑顔にほっと癒され――そして、頑張ろうと思える自分がいた。


 甲斐さんに頂いたチョコレートがなくなる頃、本部の再編が決まり、それと共に上司の異動も決まった。

 新しい本部は甲斐さんのいる経営企画部を中心に、私の部も組み込まれる。

 まさか甲斐さんと同じ組織になれるなんて――密かに私の心は(おど)った。



「それにしても、石田さんって頑張り屋だよね」


 新体制になってから初めての予算編成を終え、気付けば今年度も終盤に近付いている。

 本部全体の交流会の場で、私は他の部の人たちと会話を楽しんでいた。


「いえ、私なんか全然です」


 私がそう答えると、隣の部署の先輩が口を開く。


「石田さんの前の上司、きつい人だから心配してたんだ。仕事ができないわけじゃないから、逆にタチが悪いっていうか」

「そうそう、俺の上司も圧強かったから再編で異動してくれて良かったよ。甲斐さんさまさまだよなぁ」

「え? 甲斐さんですか?」


 先輩たちの話によると、本社費がかさんでいることから、組織再編を進めて支社にリソースを振り分けるよう進言したのが甲斐さんだったらしい。

 結果、私の前の上司は支社へと異動していった。

 まぁ、本人も支社での仕事に戻りたがっていたからご機嫌(きげん)だったけれど。


「本当甲斐さんってすごいよね、まさにスーパーマンって感じ」

「それなー」


 ――やっぱり甲斐さんはすごいなぁ。


 ふと会場の中に甲斐さんの姿を見付ける。

 本部長と二人でお酒を()()わす姿が、居酒屋の席でもなんだか()になっていた。



「次も行く人ー!」


 金夜の楽しい空気感も手伝ってか、皆楽しそうに二次会へと向かっていく。

 どうしようか迷っていると「石田さんも行く?」と穏やかな声が降ってきた。


 驚いて顔を上げると、そこには甲斐さんが立っている。


「――あ、私はその……甲斐さんは行かれるんですか?」

「うん……迷い中かな。石田さんとあまり話せなかったから、石田さんが行くなら」


 私は目を丸くした。

 甲斐さんが私と話すことなんてあるんだろうか。

 驚く私の様子に、甲斐さんが苦笑いする。


「ごめん、変なこと言って。ちょっと酔ってるかも」


 そして(きびす)を返そうとした甲斐さんを「あの!」と呼び止めた。


「……えっと、私も甲斐さんとお話したいです」



 そんなやりとりをしている間に皆いなくなってしまい、置いて行かれた私たちはバーカウンターに並んで座っている。

 まさかこんな事態になるとは、夢にも思わなかった。

 念のため新しいブラウスを着てきて良かった――そんなことを思いつつ隣を向くと、こちらを見ている甲斐さんと目が合う。


 「ひゃあ」と思わず声を上げた私に、甲斐さんが口元を上げた。


「どうしたの、そのリアクション」

「あの……びっくりしちゃって」

「何で?」

「……甲斐さんとふたりで飲みに来れるなんて、思わなかったから」


 もごもご答えると、甲斐さんが「へぇ」と満足げに微笑む。

 ――なんだか、会社にいる時と雰囲気が違う。

 さっき日本酒を飲んでいたようだから、酔っているのかも。


 甲斐さんの意外な一面にドキドキしていたその時――


「お待たせいたしました、キティです」


 バーテンダーさんが目の前に置いたグラスに、私は「わぁ」と思わず見惚(みと)れてしまう。

 キティというそのカクテルは、赤ワインとジンジャーエールを混ぜて作るそうだ。

 深い赤でありながらその色合いはすっきりと澄んでいて、控えめな泡が水面に立ち昇る。


 ふと隣を見ると、甲斐さんのワイングラスには赤ワインが注がれていた。

 グラスの足に添えられた手は骨張っていて男らしく、スマートな甲斐さんとギャップがあってどきりとする。


「それじゃあ、今日はおつかれさま」

「はい――乾杯」


 それから、私たちは他愛もない話をした。

 仕事のことや学生時代のこと、そして家族のことまで。


「甲斐さん二人兄弟なんですね。上ですか?」

「ううん、俺が下。子どもの頃は母親の作ったナポリタンを兄貴と取り合いながら食べてたよ」


 ――甲斐さん、自分のこと『俺』っていうんだ。


 プライベートな一面を知り密かに嬉しくなっていると、バーテンダーさんが「どうぞ」と小皿を差し出した。

 そこに載っているころんとしたフォルムには見覚えがあって、私は思わず「あれ?」と声を上げる。


「本日はバレンタインデーなので、お店からのサービスです」

「ありがとうございます」


 甲斐さんにどうぞと促され一粒口に入れると、久々の味に心が躍った。

 そう、これこそまさに――


「やっぱり、『魔法のチョコレート』だ」

「……魔法?」


 不思議そうな甲斐さんの声に我に返る。


「す、すみません……甲斐さんに前に頂いたチョコレート、あれを食べてからなんだか色々と上手くいくようになって……だから私の中では魔法のチョコレートなんです」


 私のたどたどしい説明に、甲斐さんが「……そう」と呟いた。

 変なやつだと思われたかな――そんな不安が心を(おお)いそうになった時、意外な言葉がその(もや)を晴らす。


「そう言われてみれば、確かにこれは魔法のチョコレートかも」

「……え?」

「本社に異動してきたばかりの頃は何をやっても上手くいかなくて――そんな時、ふらりと立ち寄ったこの店でこれに出逢ったんだ。おいしいからすっかりはまっちゃって、マスターに売っている場所すぐ教えてもらったなぁ」


 チョコレートを見つめる甲斐さんの眼差しは、まるで昔の友だちに再会したかのように優しくて。


「仕事で嫌なことがあったら、食べて元気出して、また頑張って。だから、このチョコレートは俺のとっておき」

「そうだったんですか……」


 スーパーマンみたいな甲斐さんにも、そんな時期があったなんて。

 そして、そんなとっておきを分けてくれた優しさに、じんと胸が熱くなる。

 その余韻(よいん)に浸っていると、続けて甲斐さんの口から意外な事実が飛び出した。


「実は俺、学生の頃の石田さんに逢ってるんだよ」

「――えっ!?」


 思わず見つめ返した私の視線を(かわ)すように、甲斐さんが一口ワインを飲む。


丁度(ちょうど)その頃、人事部からの依頼で採用の面接官やってて――その時、石田さんに逢ったんだ」

「……すみません、私緊張してて全然覚えてないです」


 すると、ふふっと甲斐さんが笑った。


「確かに、石田さん緊張してたな」

「はい、もう必死でしたから」

「うん――その一生懸命さが、きらきらしてた」


 思いがけない言葉に私の手が止まる。


「当時、支社でできていたことが本社ではできなくて、そのギャップにちょっと()ねてたというか……あんまりいい状態じゃなかったんだよ、俺。そんな時、面接でまっすぐな石田さんに逢って、なんだか目から(うろこ)が落ちたというか――あぁ、俺にもこんな時があったなぁって、そう思った。それから今の仕事にちゃんと向き合えるようになったんだ」


 一口ワインを飲んで、甲斐さんがこちらを見た。

 その瞳には穏やかな光が宿っていて。


「入社してからも慣れない職場で一生懸命頑張っている石田さんに、いつも元気をもらってたよ。『俺ももっと頑張ろう』って。たまに頑張りすぎていないか心配になることもあったけど」


 チョコレートを一粒、甲斐さんがつまんで、私に差し出す。


「――だから、今の俺があるのは、魔法のチョコレートと石田さんのお蔭」


 何も言えないまま、私は差し出されたチョコレートを受け取った。


 口に入れて、一噛み。

 少しビターな味と、ベリーの甘酸っぱさが口いっぱいに広がって。

 そして、心の中がじわりとした熱で満たされる。


 ――こんなことがあるんだ。

 ただただ、必死で毎日を生きていた、それだけだったのに。

 誰かが自分を見ていてくれて、自分が誰かの支えになっている――そんな奇跡が。


 魔法のチョコレートが口の中でほどけた。

 あぁ、今ならきっと言える。


「今の私がいるのも、魔法のチョコレートと甲斐さんのお蔭です」


 チョコレートを一粒、つまんで甲斐さんに差し出した。

 少しだけ悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべて――甲斐さんが私の手からチョコレートをくわえる。

 まるでそれが自然なことのように。


 魔法を閉じ込めた口唇を眺めながら、私は口を開く。


「甲斐さんに素敵なバーを教えて頂いたので、よかったら今度は私の知っているお店に行きませんか。〆のナポリタンがおいしいんです」

「それはいいね、石田さんとなら仲良く分けられそうだ」

「私、意外と食べますよ」

「じゃあ、他にも食べちゃおうか。今日は週末だし」

「いいですね」


 ――真っ暗だと思っていた道の先に、一条の光が射している。


 甲斐さんから口に入れられた最後の一粒は、穏やかな幸せの味がした。



(了)

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

今回はチョコレートをキーアイテムに、ちょっと大人な雰囲気の淡い恋物語を書いてみました。

どんなひとにも上手くいかないタイミングというものはあって、でも折れずに頑張っていればきっと誰かが見てくれていると思うのです。

すこしでも共感頂けたり、ドキドキして頂けたら嬉しいです。


ちなみに、作中で出てきた魔法のチョコレートは『ブルックサイド ダークチョコレート アサイーブルーベリー』をイメージしております。

こちら、実際に私もたまたまお店で食べてはまりまして、店長さんから教えてもらったものです。

「成城石井で売ってるよ」と言われ、買いに行ってみたらなかなかいいお値段……笑。

ですが、おいしいのでご興味がある方は是非チャレンジしてみてください(´ω`*)


以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。


【追記】

楠結衣さんからバナーを頂きました!

挿絵(By みてみん)

キーアイテムのチョコレートがベリーチョコだからか、淡い紫色をベースにした穏やかなバナーに癒されました……!

楠さん、ありがとうございましたv

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魔法のチョコレート、すごくおいしそう。おいしいものを食べると、確かに元気になれますよね。石田さんも元気になってよかったです。 それにしても、石田さんの一生懸命に頑張る姿が、スーパーマンみたいな甲斐さん…
自分のことを見てくれている人がいる、自分が誰かの力になっているって素敵ですね! チョコレートの甘さが恋しくなりました。 買いに行こうと思います。 素敵な作品を書いて下さりありがとうございます。
苦しい状況にあっても腐らず必死にがんばり続ける姿。 またそれを認めてくれる人がいて、それまでのことがおもいがけず報われる。 いいですね。 これは偶然ではなく、彼女の人生に向き合う姿勢がなせるものだと思…
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