陰獣事件
ゴーストライター
「一寸、明智くんがまだじゃないか。」
向井の言葉に、文月は速攻で言い返す。
「『悪霊』には明智小五郎は登場しません!それに締め切りが近いんですよ。まずは先輩の『祖父江犯人説』を教えてください。」
文月の言葉に、向井は反論ありげに少し口を開き、それから、イタズラを思いついたようにニヤリと笑って答えた。
「祖父江犯人説…いいだろう。では、それについて考えよう。」
向井は話し始めた。
「祖父江進一を疑うのは、僕だけではなく、警察も真っ先に疑っていると考えられるね。」
「第一発見者だから、ですね?」
「そうだ。まずは、ここで問答無用で疑いがかかる。そして、祖父江の行動を観察する。」
向井の言葉を文月はメモをとる。
「そうですね。まず、被害者宅に事前連絡なしで訪問してるところが不可解ですよね?普通、独り身の女性の自宅に訪問するなら、アポイントメントは必須ですよね?」
文月の真剣な顔に向井が和んだように笑う。
「君は紳士だね?祖父江と、曽根子との密会とかを疑わない。」
向井の言葉を文月が驚いたように聞いた。
「密会?そんな、密会なんて、自宅でするものでしょうか?普通、浅草や、少し地方のひなびた温泉とかでするものでしょ?」
「君は文学青年のようだ。地方の温泉なんかに行ったら悪目立ちするし、外の方が目撃されやすいんだよ。自宅の方が訪問する方がいいわけが立つ。」
向井の言い方に文月は不満そうにする。
「僕はこれでも理数系ですよ。」
「ああ、君は理工学部だったか…失敬。」
向井は大袈裟に謝って話をすすめる。
「では、出版社の視点で話そう。祖父江進一は、事件からわずか1ヶ月で幼馴染の岩井という人物に手紙を送ってる。変だと思わないかい?」
向井に言われて文月は少し考える。
「どういうことでしょう?1ヶ月で解決したことが不思議ということでしょうか?」
文月は不思議そうに向井を見る。向井は少し考えてから、口を開いた。
「君は甘いものが好きだったね?では、もし、君が贔屓にしていた浅草の和菓子職人が、あの、『首なし娘事件』の犯人だとしたら、そして、事件数日前に何か、話をしていたとしたら、君は祖父江君と同じ行動をするのかな?」
向井に言われて、文月は嫌な事件を思い出した。
『首なし娘事件』とは1932年愛知県で発生した。
名古屋の某所の鶏小屋で首のない腐乱死体が発見されたのだ。
あまりの不気味な犯行に当時、乱歩の作品に準えて『陰獣事件』などとも呼ばれた。
「『陰獣事件』ですか…僕は駄菓子が専門で、高級和菓子なんで滅多に食べませんが、そうですね、もし、そんな犯人と知り合いなら、向井先輩にまずは話に行きますよ。」
文月は少し媚びるように言った。現在、休刊してはいるが、向井はエログロ雑誌の編集長なのだ。『陰獣事件』の犯人とミステリマガジンの編集者が偶然接近していたとなれば、面白い記事にするに違いない。
それを聞いて向井は笑った。
「そうだろ?俺たち雑誌者は情報を売れるものか、そうでないかを分類することから始める。それは、文芸部とはいえ、新聞社に所属している祖父江だって同じじゃないかな?」
「あ。」
ここにきて、文月の心に祖父江という人物が小説の薄っぺらい登場人物から、奥行きのある人物として浮かび上がった。
「そうだろ?しかも、祖父江はまだ1年も立たないうちに関西の、幼馴染に手紙で詳しく知らせるんだぜ。」
向井のセリフが文月の心に沁みる。
仮に、『悪霊』クラスの不気味な猟奇事件の第一発見者になったとしたら、9月に発生したとして、いい感じに年末、新春号に間に合う記事になる。
もしも、文月だったとしたら、編集長に誰にも会わないように隔離されるに違いない。そして、社会部などと交渉して最大限にこの情報を扱うに違いない。
どこの部も、売れるネタには困っているのだ。
そして、年末年始は雑誌の売れ行きもいい。普段は買わない層も雑誌を手に取ってくれる機会だし、出版関係を生業にするなら有名な犯罪に巻き込まれたら、当たりくじのようなこんな経験を粗雑に扱うわけがない。雑誌社において情報は金の価値なのだ。
「確かに、そうですね。大阪に手紙なんか送って、何かの間違いで関西支社に先に手記なんて発表させられたら目が当てられません。」
文月は10月に乱歩の連載を取り付けて踊るように喜んでいた先輩を思い出した。10月のとくダネはボーナスに直結する。
そう考えると、祖父江進一の残した手紙が不気味に感じてきた。
一体、彼は何を考えてこんな手紙を出したのだろう?