秘密倶楽部
西欧の上流階級では、紳士だけの秘密クラブがあるというが、ここもそんな類のところだろうか?
踏みつける床の絨毯の厚みから、既に文月を拒絶するようなハイソな雰囲気が流れている。
中のドアの前に立つ、7尺はありそうな白人の大男が明智を見る。
なんとなく、絶体絶命感を感じて恐縮する文月と違い、明智は毅然と立つ。
男が見上げることはなかった。男の方が恭しく明智に挨拶をし、自ら目線を合わせる。その様子を見ながら、明智という男の器の大きさを文月は感じていた。明智…世界を股にかける名探偵…そんなものが本当に存在するのだろうか?いや、今のご時世、スパイの方が現実的ではないだろうか?
怪しい文月の妄想をよそに三人は、ドアの向こうの秘密の空間に案内される。そして、数分も置かないうちに向井と文月は薄暗いカウンター席に追いやられていた。
この待遇を文月はほっとしながら味わっていた。
ホームズも愛した英国のウイスキーを手に。
ホールは外国の男性だけだった。上質の緋色の絨毯が敷き詰められた床を、文月は申し訳ない気分で自分の靴と共に見つめた。
正月に買い替えた新品の革靴ではあったが、それでもこの場では貧相に見える。
手入れの行き届いた舶来の靴の名品が明智を追うように踊っている。
男子の靴なんて履ければいいと言う人間もいるが、こうして、上流階級の集まりに混じると、靴は物静かに語るのだ。
例えば、明智の周りをあたふたと動く、ストーレートチップと言われる定番のデザインの黒靴は、形こそ標準的で大人しめであるが、コードヴァンと呼ばれる馬の高級革だし、
明智の横をしっかりキープするモンクストラップの靴は僧と言うには俗世全開の黒のワニ革だ。
見るからにアメリカ人と言う風な薄茶のウイングチップの靴は、つま先に絶妙な飾り模様が施されている。
まるで靴の博覧会にでも来た様だ。こんなところに来ると、年末に思い切ってデパートで買った自慢の靴がなんだか萎れて見えてくる。
文月が場違いに恐縮してる間に、明智はメンバーにチヤホヤされ、ピアノを弾き始める。
『あなたが欲しい』1900年に作曲されたシャンソン作曲家サティの名作である。
随分と古い曲であるが、文月には青春時代のときめきを含んで響く。
1925年のパリ万博に関係者で学校に寄付された楽譜から知ったからだ。
音楽の戸田先生は、20歳独身で町のマドンナだった。
フランスから来たこの楽譜を、先生は宝石を扱うように大切に手にして、
「音楽は国を飛び越える共通言語なのです。」と、言いながらこの『あなたが欲しい』を弾いてくださった。
のちに歌詞があること、その歌詞の艶かしさに友達と心をときめかせたのを覚えている。
文月はそこからフランス語に興味を持った。そして、その年、明智小五郎が江戸川乱歩の短編として静かに世に発表された。
「『お前が欲しい』と、言わんばかりだね。」
向井はピアノに群がる紳士たちを面白そうに眺めていった。
「男女、どちらの歌詞もありますからね。でも、僕は、ポーレットの歌う『あなたが欲しい』が1番好き…」
と、ここで、向井の言いたい意味が理解できた。
紳士たちはとても上品に距離を置いて曲を聴き入ってるが、それでも数人に隠しきれない恋情にも似た好意が滲み出ている。
ここは…入り込んでいい倶楽部なのだろうか?
怪しげな雰囲気に包まれながら、文月は自分が酔っているのではないかと不難になる。西洋の紳士と素晴らしいホール。上等の英国のウイスキーにこの世のものとは思えない、美青年がピアノを奏でる。
行き交う言葉はフランス語やら英語、日本語は聞こえない。
美青年を熱い眼差しで見つめる金髪碧眼の男。
まるで乱歩の妖しの世界に迷い込んだ気がした。