隠れ家
あの、明智小五郎にモデルがいたなんて!
文月は驚いた。そして、そんな自分を批判する。
現実に明智小五郎がいるハズがない。
しかも、こんなシュツとした、少女絵画から抜け出てような美男子が、この世に存在するはずはない。
6尺はある長身で、カラスの濡羽色の黒髪。
秀でた額に、鼻筋の通った堀の深いはっきりとした顔立ち。
清潔で存在感のある口元。
手入れの行き届いた長い指先。
同じ人間とは思えない、圧倒的な人種の差のようなものが後光として見えてくるような男である。
「おい、いくぞ。」
突然、向井に言われて文月はハッとする。
「い、行くってどこに?」
「よくわからないが、明智くんに考えがあるようなんでね。ここの支払いは済ませておいたよ。」
向井に言われて文月は慌ててついてゆく。
「すまないね。どうも、こういう所では目立ってしまってね。」
と、挨拶する明智に羨望の眼差しがあちらこちらから向けられる。
「は、はい。」
文月は情けない返事をする。多分、年下らしい明智から漂う色気に思考が止まる。
「では、いこう。」
明智の声が店内に甘く響いた。
タクシーに乗って東京の華やかな街灯の世界走る。
文月は助手席に乗ろうしたが向井に後部席へと押しやられた。
文月は隣の席に座る明智を盗み見た。
惚れ惚れとする座り姿だ。
昔、文月は祖母に言われたことがある。
人には2通りの座り方がある。
寛ぐために座る人間、そして
自分を貫抜くために座る人間。
文月は明智は後者だと思った。
背もたれに甘えることもなく、背筋を伸ばして座っている。
見た目は、優男、と、いう風なのに竹のような、しなやかで強い体幹である。
背広は英国の高級ウール生地を仕立てたもの。身長の割にほっそりとしたウエストラインをエレガントに見せていた。
明智小五郎
もし、本当にこの世に存在するとしたら、こんな感じなのかもしれない。
文月は少しときめくのを感じる。
少年時代から冒険物や探偵物は好きだった。和製ホームズと言った風な明智小五郎にも憧れた、ん?
あれ、明智小五郎って、こんなナイスガイという人物だろうか?
初登場の『D坂の殺人事件』では…
「ついたぞ。」
車が止まり、向井がドアを開けた。
文月は慌てて車から降りる。
「すいません。つい、考え事をしてしまって。」
文月の言い訳に答えたのは明智だった。
「仕方がないさ。事情が事情だからね。さあ、行こうか。この先に気に入りの店があってね。」
そういった明智に連れて行かれて、銀座の裏路地を歩く。すると、蔦の這った赤煉瓦の大きな建物が登場した。
明智はそこの半地下に迷うことなく進んでゆく。
「ここは、どういうところなのでしょう?」
少し不安になり、文月の足が階段まえで止まった。先に階段を下っていた明智は振り向きながら仰ぎ見るように文月を見た。
少し長い素直な黒髪が、冬の夜風にサラサラと舞って明智の顔にいたずらをする。
ドキリ、とする自分に文月は驚いていた。
高等部の帰り道、女学校から下校する年上の美しい少女を見かけた時のような、少しまごつくような、照れるような、そんな甘い心臓のときめき。
そんなものを、なぜ、男に感じなきゃ、いけないんだ。
文月は混乱していた。が、柔らかい明智のアルトは甘く、心地よく耳に入ってきた。
「ここは、主に外国人が集まる紳士クラブだよ。私の気に入りの隠れ家なんだ。」