憧れ
文月は向井に言われて『発表者の附記』を調べ始める。
赤い本は2冊あった。
これは現在の連載の文字数から考えると格段に多い、
そして、『悪霊』の事件についての作中作者はこう述べる。
これは有名な心理学者(達)の話だと。
「確かに、交霊会のメンバーで心理学者は、有名と付けるなら黒川博士だけのような気がしますね。」
文月がため息をつく。
「ああ、そうなると、乱歩先生の参考資料の手がかりになりそうだね。」
向井の目がきらりと光る。
「心理学者…なんだか、悪霊から離れていますね。」
文月は少し心配になる。本当にこれで連載は再開されるのだろうか?
「そうでもないさ。大正時代は変態心理についての研究が活発だっかからね。」
「変態心理?」
「性犯罪の犯人の心理や心霊、問題行動を起こす児童の心理などの研修のことさ。文月君はその辺には明るくないのかな?確か、中村古狭先生の著書が有名だよ。でも、ご存命だと記憶しているけれどね。」
向井は眼差しに尊敬の光を忍ばせてそう言った。
「すいません。ミステリ編集者なのに。」
文月は自分の知識のなさを恥じた。編集とは作家をサポートして読者に未知の世界を魅せる仕事である。作家一人では作り上げられない細部の美しさに助力する、作品の先きが見えなくなったら、続きを照らす灯台となる…それは理想ではあるが、少なくとも犯罪心理に関わる書籍関しての知識として中村古狭を知らないのは恥ずかしいと感じた。
「謝ることはないさ。変態心理は大正6年から15年に出版されたのだし、君は理系の人間なんだからね。確か、飛行工学とかを専攻してなかったかな?」
向井は大学時代を懐かしむように笑った。
「いえ、僕は理論物理学が専攻で、たまたま語学に明るかったので翻訳係として飛行機についての研究に度々参加させてもらっていましたが、彼らの仲間になれるほどの才覚は僕にはなかったみたいです。」
向井は恐縮する。
「音速を越える、か。そういえば、土井武夫君が帰国したみたいだね。」
「え、彼、帰国していたのですね。そうか…いいな。」
文月は一つ下の天才エンジニアの噂を思い出していた。直接の面識はないが、噂はよく聞いていた。海外に、フォークト博士の推薦でドイツに出張した天才である。ほぼ同機としては憧れずにはいられない。
「ああ、彼は音速を越える戦闘機を作る夢を諦めてはいないようだよ。」
向井は少し渋い顔をする。
「…どうかしましたか?」
文月はその様子に心配になる。
「ああ、ドイツが飛行技術者に帰国命令を出しているらしいからね。技術が進むのは楽しいけれど、なんだかきな臭い感じがしてね。」
向井は苦笑する。ドイツはナチ党が躍進する中で自国の飛行技術者を帰国させていた。土井の恩師リヒャルド・フォークスもまた、ドイツに帰国した。
「音速の戦闘機の戦闘機…ですか…すでに戦も地上戦から飛行戦の時代なんですね。」
文月も嫌な気持ちになる。戦争などない方がいいに違いない。
「まあ、戦闘機の話はこれくらいにして、我々は変態心理についてhろげてゆこう。」
向井に言われて文月はハッとした。土井という天才を思えば、自分の人生がちっぽけにも感じるが、それでもここで諦めるわけにはいかない。
さっちゃんが待っているのだ。
今回、会社に貢献し、あの、江戸川乱歩と近づきになれるかもしれない人生の最大の分水路に文月はいるのだ。
一銭にもならない戦闘機の事よりも、結婚と昇進のかかった変態心理なのである。




