ウインナーコーヒー
文月が話そうと身構えた時、女給が大きなカップを2つ持ってきた。
「おっ、来た来た。」
向井は嬉しそうに揉み手をして女給に笑いかける。
彼女は自慢げに、白い…クリームらしき液体の入ったカップをテーブルに2つ置く。
「ありがとサン。」
向井は女給にチップを渡してウインクする。
「これは…すみません。」
女給は色っぽくシナをつくり、少し卑猥な微笑みを向井に投げ、去って行く。
「さあ、そんな不景気な顔しなさんな。これでも飲んで。」
と、差し出されたコーヒーカップを文月は見つめる。
白い泡で隠れた液体は、甘い香りが漂っていた。
「これはなんですか?」
文月は用心深く聞いた。
「特製の維納珈琲だよ。怪しげな薬なんて入ってないさ。さあ、飲みなさい。」
向井に言われて、文月は覚悟を決めた。大学時代の先輩の命令である。
ぐっ、と、飲み込むと、ふわりとクリームの甘い香りにコーヒーの渋さが口に広がる。そして、何か、鼻孔を酔わせる甘い酒の香り。
「これはコーヒーですよね?」
文月は軽く頬が高揚して、少し、くらりとしながら聞いた。
「特製の、ね。シェリー酒が入っているんだよ。」
向井は楽しそうに笑う。
シェリーと聞いて文月が背筋を伸ばす。
「は、舶来品じゃありませんか!高いでしょ?」
思わず素に戻って名残惜しそうにカップの残りを文月は見つめた。
「まあ、そんな意地汚い顔をするな。それより、シェリー酒の酒言葉を知ってるかい?」
向井は愉快そうにカップを手にする。
「知りません。」
少し、不機嫌そうに言う文月に、向井はまた、楽しそうに笑い、顔を近づけて囁いた。
「今夜は私を好きにして。と、言う意味らしいぞ。さあ、僕も今宵はどこまでも付き合うぞ。」
向井に言われて文月は軽くため息を漏らした。
私を好きにしてって、それは西洋の女性が男性に使う合言葉みたいなものじゃないだろうか。
一瞬、文月の過去に読んだ本の情報が浮かんで消える。
それから、向井にとことん付き合わされるのは、自分のような気がして文月はこの先が不安になる。
が、不満を蓄えている場合ではない。
文月は残りの維納珈琲を味わうと、急いでこの先のスケジュールをくみ出す。
時間は有限で、文月の昇進のチャンスは一度きり。
慎重に行動しなければ。
「すみません。私も色々、混乱してまして、申し訳ありませんが確認も兼ねて『悪霊』のあらすじをはなしてもらえませんか?」
文月は用心深く向井に聞いた。
文月のミッションは、もしも、乱歩先生が失踪した時に使える原稿を作ることにある。
『悪霊』は、ほぼ、解決編まで書いてあるので、その先を、本人すら逃げてるのに、入社3年の中途採用の文月に任せるなんて、無謀である。
無謀を押したくなるような緊急事態なのだ。
とは言え、向井が適任か、と、言われると、それも疑問が残る。
向井の場合、ミステリはミステリでも、神秘術の方面で活躍している。
ロシアの怪僧、ラスプーチンやら、黄金の夜明け団のクロウリーとか言う魔術師について調べたりしているのだ。
『悪霊』は、確かに降霊術が登場するが、魔法で解決されてはミステリ・マガジンに掲載は出来ないのだ。
向井はチラリと文月を見た。
「ふっ、疑っているのかい?私の事を。」
「い、いえ!…はい。」
文月は諦めたように返事をした。
向井は文月を見て、雨にうたれる野良猫のようだと思った。
からかう、余裕もなさそうだな。
向井は肩をすくめて話始めた。