抜け殻
竹溝 正史…新たな登場人物に文月は混乱する。
この物語はそんな展開をするのだろう?
「そんな困った顔をするなよ。この人が登場すると、作者目線が理解しやすくなるぞ。」
と、教えてくれた向井の話は確かに興味深かった。
江戸川乱歩の出身は関西で、竹溝も関西の人間だ。2人はミステリの仲間で仲良しのようだった。竹溝は1932年、所属の雑誌の閉刊でフリーの作家になった。そんな中で、昨年、肺病で仕事がままならなかったようだった。
昨年の9月に急な乱歩の連載が決められたのは、実は竹溝は先にもらっていた仕事の枠を守るために乱歩が時間稼ぎの代打を申し出たと言う噂もあるようだった。
「これは、根拠の無い噂だが、それを頭に入れて、今度は乱歩先生の…作者の目線で『悪霊』を読んでくれたまえ。随分と印象が変わって見えるはずだよ。」
向井に言われて文月は黙って『悪霊』を読み返した。
あんなにあやしい雰囲気の醸していた祖父江進一の文章に、病気で元気がなくなる竹溝に優しく声がけする優しい乱歩先生の笑顔が重なって見えてくる。
向井は言った。かつて、乱歩先生は探偵の仕事についたことがあると。岩井探偵事務所と言うらしかった。
乱歩の目線で文章を読み出すと、同じ文章なのに全く違う印象が浮いてくる。
休刊で無職になっている向井を思うと、この連載に勇気付けられてるだろう竹溝という人物の心が伝わってくる。
このご時世、仕事が無くなった友人をなんとかしたいと願う気持ちはよく分かる。
ああ、なんとか、この連載を再開させて完結させたい。
そうすれば、向井も、竹溝も、みんなが救われるのだ。
作品的には面白い。あとは、犯人を、犯人さえあげられたら。
ふと、信長の首を見つけることが出来ずに堕ちてゆく光秀の苛立ちが心をよぎる。
文月はそれを振り払う。
僕たちは分水路を間違ってはいない。そう、この物語は絶対に新世紀にまで語られるそんな物語なのだ。
「な、違って見えるだろ?」
向井に言われて文月頷いた。
「はい、とても親友思いの乱歩先生がみえてきました。」
文月の言葉に向井は苦笑する。
「それだけでは、及第点はあげられないな。よく読んでご覧よ。祖父江の人格が所々破綻してるだろう?」
向井に言われて文月は指摘されたところを読み返す。
祖父江は手紙の冒頭は、友人思いの優しい人物のようなのに、同じ交霊会の知人が無残な死に方をしているのにもかかわらず、推理ゲームをしようなんて言いだしたり、被害者の体内に精虫がいなかった事にがっかりしたり、どう考えても現実味のある人物に仕上がってない印象があるんだよ。」
向井の批評は適切な気がした。と、同時に混乱する乱歩先生を思って切なくなった。
「急ごしらえと聞きましたけれど、乱歩先生も混乱していたのでしょうね。」
さめざめとする文月に向井はあからさまにガッカリとする。
「ああ、文月くん、違うよ、そうじゃない。よく読んでご覧。この作品は所々、歪で他人事なんだよ。」
向井の言葉を文月は理解出来ないでいた。歪なのは急ごしらえで設定が甘かったからではないのだろうか?
「そうですね。でも、それは、急な事で設定に時間が…」
「乱歩先生はヤクザなこの業界で10年一流で生きた人物だよ?剣豪に例えるなら宮本武蔵のような人物なんだ。そんな先生が急ごしらえだからって、こんな文章を残すと、ああ、寧ろ、こんな切羽詰まった状態の時に、自分が明くるくない分野の話を使うと思うかい?」
向井に言われて文月は混乱したまま向井を見つめていた。向井は話を続ける。
「ここからは僕の推測なんだけれど、この文章がどことなく歪に感じるのはすでにあったプロットに乱歩先生が代打で書いたからじゃ無いかと睨んでいるんだ。」
向井のセリフに文月はハッとする。
書けなくなった乱歩先生の幽霊作家の我々。しかして、その本体の乱歩先生もまた、幽霊だったというのか!
「なんだか、凄い話ですよね。我々は幽霊の代わりに幽霊を演じていたと、そういうんですか。」
文月は脱力した。もう、何が何だかよく分からなくなってきた。
そして、あの、江戸川乱歩に自分の構成を代打で書かせる竹溝という人物がうすら怖く感じた。
「驚くのはそこじゃ無いよ。竹溝先生は名前こそそんなに知られてないが、秀才肌の人物で、下調べも時間をかけて行うって有名な作家なんだよ。
多分、独立して、連載枠を取る為に物凄い時間と推敲を重ねたネタだったと思うんだよ。乱歩先生が安心してこんな文書を描けるくらいに、ね。」
向井の言葉に文月は不安になる。なら、なぜ、ここで乱歩先生は失踪する必要があるというのだろう?
「こんな文章って、どういう意味でしょうか?」
文月の言葉に向井はなんでも無いようにこう言った。
「『抜け殻同然の文章の羅列』ってとっころかね。でも、それでよかったんだと思うよ。結末はそこにはなかったのだからね。」
向井の言葉が鈍く響いた。




