筆跡
関東大震災…
1923年、それが起こった頃、文月は信州の実家にいた。
18歳 東京の大学に入学の準備をしていたところだった。そんな時に震災は起きた。
身分は低いとはいえ武家だった文月家は明治からの貿易や役所関係、特に農商務省に人脈があり、東京に住む知り合いも多かった。
文月は行方不明の親族友人の行方を探し、帝都の復興のために2年早く志願兵になった。大学に入学すれば兵役が延期されると思っていた両親は初めは反対もしていたが、刻々と知らされる東京の惨状に岳士の意志を応援した。
その頃の事を思い出すと、さまざまに苦い思い出は込み上げてくる。
そして、出会った人々…それはこのパスティスの水割りのように苦く、強いインパクトのように忘れられない記憶であった。
仮に、『悪霊』の事件が震災の前にあったとしたら…
作中作者に祖父江の手紙を持ち込んだN某という男の印象も180度変わってしまう。
仮にN某が祖父江の友人岩井だとしたら…
これは単純に金目当てだけではなく、祖父江進一を、黒川博士の行方を探していたのかもしれない。
そう思うと、大阪在住の設定が何かの伏線のような、何か、とんでもない大規模な陰謀めいた事件に巻き込まれたような、不思議な気持ちに陥った。
「本当に、江戸川乱歩って先生は偉大だよ。もう、ネタが尽きて時代遅れとか云う評論家もいたけれど、この作品を見た時、僕はゾクゾクしたんだ。」
向井は嬉しそうに水割りを頼む。
「そうですね。この話は犯人を指摘して終わると思っていたのですが、何やら、怪しげな先がありそうで、僕も気になってきました。」
「ああ、乱歩先生は時代の二歩も三歩も先をいかれていると思ったよ。キネマの時代、視覚というものを意識して作品を考える作家は新しいよ。」
向井は愉快と笑ってウイスキーを口にする。
「視覚?ですか?」
文月は不思議な顔になる。作家に視覚が必要だろうか?『悪霊』は絶賛するほどの視覚的な描写などあっただろうか?
混乱する文月の前に向井がカバンから赤い革のファイルを置いた。
「これは…」
文月の脳裏にN某の持ってきた真っ赤な表紙の手紙の束が浮かんだ。
「凄いだろ?歌劇を作るにあたって、作成してみたんだよ。開けてみてくれないか?」
向井に言われてファイルを開けると、そこには便箋に手書きで書かれた複数の手紙が綴じられていた。
先頭の手紙は、上質な便箋で万年筆の比較的読みやすい縦書きで、飾りのないシンプルで上品ないかにも上流の出版社の人物のものを思わせた。
「凄いですね。なんだか、本当にこんなものが存在したように思えます。」
文月の褒め言葉を歯痒そうに向井が急かす。
「凄いのはこれからだよ。まあ、先をめくってみたまえ。」
向井に言われてめくると、今度は会社のメモ用紙に使われる半紙に殴り書きのような、筆圧高めの男らしい文字の手紙が現れる。
驚いて次を捲ると、今度は藁半紙にカタカナと漢字で筆で書かれた手紙が現れた。
「なんというか…確かに、文字は人物を表しますね。」
文月は驚嘆しながらそれだけ言った。
「何を、推理編集をやっていて、筆跡鑑定を知らないわけもないだろ?ホームズも筆跡の研修をしていたが、日本も遅ればせながら、近代捜査に西洋の筆跡鑑定術を応用しようと動き出してるんだ。
インチキ鑑定士が増える中、最新式の鑑定法を、高村 巌という人物が研究してるようだぜ。これくらいは知っておかないとな。」
向井に言われて文月は感心する。
「確かに、参考になりましたが、これが作品とどんな関係があるんですか?」
文月の質問に向井が歯痒そうに睨んだ。
「わからないのか?このまま肉筆の文章のまま、出版するんだよ。みんな、本は活字印刷をするもんだと決めてかかっているからね。
でも、近年、印刷技術は上がっているし、筆跡鑑定捜査の基準が決まってくれば、筆跡を使った新しいミステリを作り出せるじゃないか!
大体、日本人は文字を推察するのが好きだし、新しい試みじゃないか。
才能が枯渇とか、色々と辛口の批評も受ける先生だけれど、やっぱり、乱歩先生はすごいよ。
しかも、文月くんの話で、霊能力にも意欲を燃やしていることがわかったからね、ワクワクが止まらないよ。」
向井のセリフに文月は嫌な予感が止まらなかった。




