事のはじまり
『呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いをたてるものがあってはならない 聖書 申命記18-11』
昭和8年の新年を迎え、特殊喫茶の様子はガラリと様変わりした。
女給を口説く客、口説かれたいと媚を売る女給、
道ならぬ雰囲気を醸し、暗がりの席に消える男女… そんな姿は、年の瀬の喧騒と共にこの店から消えた。
特殊飲食店の取り締まりが始まることになったからだ。
新しく健全さをアピールする事にした店内では、騒がしい学生の議論の声が響く。
暖色の電球の光が、そんな人間の営みをフランス画家を真似るように印象的に照らし出していた。
誰が頼んだのか物悲しいギターの音色が、文月 岳士の鼓膜を震わせた。
古賀政男…嫌いじゃないが、今は聴きたくないな。
岳士は暗い気持ちになる。少し遅れて、物悲しい男声の歌詞が流れてくる。
『酒は涙か吐息か』昭和6年、藤山一郎のヒット曲だ。
泣きたいのはこっちの方だよ。
岳士は今日の編集長の会話を思い出した。
「文月くん、わかっているだろうね?ここが我が誌と君の分水嶺だよ。」
分水嶺…時代劇の台詞みたいな単語を引っ張り出して言わなくても分かってる。
3年前、不景気の中、就職活動で歩き回った記憶が甦る、藤山一郎のポスターがレコード店に張られていた。
出版社に転職して、やっと、軌道にのり始めた所なんだ。
文月はイライラをコーヒーカップにぶつけ、中身が空になると次を注文する。
少し、ブランデーの入った濃い一杯を。
新しいコーヒーから、ブランデーの芳香が岳士の鼻腔を甘く、くすぐった。
少し、気持ちを持ち直し、岳士は首を軽く回し、肩をほぐすと、眼鏡を取り、新しいおしぼりを目に当てる。
正月気分が抜けないのか、放浪演奏家の連中はすぐに次の客を見つけたらしく、物悲しくも美しい曲が流れてくる。
恰幅のよい裕福そうな男の連れの女が歌い始めた。
柳井はるみの『月の砂漠』
その曲に2年前の記憶が甦る。
故郷の母に初めてのクリスマスプレゼントと言うものをした。
もっとも、母親は正月の少し変わったお年玉程度の認識のようだったが、文月家の女性人には大好評で、古い『少女倶楽部』の雑誌を倉から探しだし、小正月にはそれで大いに盛り上がったとの事だった。
田舎にも…帰らないとな。
孤独が岳士の胸をついた。
が、そんな事を考えている場合ではない。
文月 岳士、28才
仕事も人生も今が正念場なのだ。
3年目にして、とんでもないチャンスが巡ってきたのだ。
現在、連載中の江戸川乱歩先生が失踪したというのだ。10年目の本格ミステリー。
しかも、話は佳境に来ていた。が、ここで、先生は書けないと言い出した。
先輩たちは先生を探す旅に出かけ、そして、編集部は大騒ぎになっていた。
様々な意見が飛び交う中で、編集長が突然、文月に白羽の矢を打ったのだった。
保険のために、ミステリーの結末を探せ。
編集長は文月に言った。つまり、ゴーストライターをしろ、と言うことだ。
無茶苦茶だと思った。が、うまく行けば給料を上げると約束してくれた。
そして、成功したら、作家につけてくれるとも、作家として原稿を載せてくれるとも約束した。
幼馴染みで許嫁のさっちゃんだって、僕が迎えに来るのを待っているのだ。
盛り返してきた気持ちを煽るように次の曲が流れてくる。
作詞 西条八十『東京音頭』である。
この曲は、1923年のあの関東大震災からの復興を記念して作られた。
様々な歌手が、そして、今夜は文月も歌った。
困難な時代があった。
震災、恐慌、凶作…
めげるもんか!
歌い始めた店の客たちに合わせて文月も声を張り上げる。
そう、作家の我が儘なんかに負けてたまるか!
江戸川乱歩がなんぼのもんだ!
作家なら、先生なんて呼ばれてるなら、ちゃんと、原稿を耳を揃えて出しやがれ、って、もんじゃないか!
ミステリがなんぼのもんだ!僕だって、大学時代は英文学を学んでいるのだ。数々の海外ミステリを翻訳したことだってあるんだ!やってやれないことはない。
文月は破れかぶれな気持ちを放ちながら大いに歌った。
この物語はフィクションです。実在する人物、施設、作品には関係ありません。