別れ
youが好き勝手やっている小説です。
さようならってどんな言葉だろう。
思い出したのは一軒家だ。それは人のあつまる集落のような場所にあった。例えば、西洋風のハーブ園の中心に噴水があり、その周りに人々が集まっているような場所であった。また目の前に公園があった。ハーブ園でなら、噴水の位置に公園はあったのだ。しかし、集落の外側はかすんでよく見えなかった。それはさながら、何もない砂漠の隅にあるオアシスのようであった。隣の家からは子供の声が絶えず聞こえた。犬の声がそこかしらから飛び交っている。
大きくはない公園だった。キンモクセイが植えられたその公園は、ブランコだけがあった。
子どもの頃の私が、公園のブランコで大きく振りかぶる。鎖が繋ぎ目を軋り、大きな円を描く。すると、目の前の柵を飛び超えて力強く地面に着地した。感覚は夢の中だからか妙に薄れていた。
最近はよくこの夢を見て、その度にこの場所に訪れた。
私はこのような場所についてどこか恐怖を覚えていた。受け入れられるか心配で酷く怯えていた気がする。私はこの場所について考える時、卵のパックのことを思った。卵のパックに詰められた卵はみな綺麗だ。汚れた卵はどこにいくのだろう。生み出された卵を集卵し、そのうちの汚れた卵は陳列されることはない。卵のパックに入らない。このような場所に任侠ものの絶対的な悪人や、救いのないグリム童話のような違和感のある物は存在しなかった。
私にとってこの場所は夢の中にしかない空間で、普段生活する中で目にすることはない場所だ。つまり、私にとってこの空間は夢を判断するバロメーターであった。同時に、満ち足りた非現実を与えている空間でもあった。しかし、きまって私にはそれが当然のように思われた。フレンチ料理の食器を必ず外側から持ち替えるように、夢の中でこのような空間が与えられることはマナーのようにすら感じられるのだ。
私はそのブランコしかない公園を抜けると、アスファルトで舗装された道路を横切り、その落ち着いた茶色の建物の玄関に立った。玄関は不自然なほど落ち着き払った様子で、几帳面すぎるほど丁寧に敷き詰められたタイルにも土の汚れはなく、飴細工のような傘立てには傘も入っていなかった。私の背丈の倍はありそうな黒いドアをノックをした。向かいの家の犬が私に向かって吠えている。すかさず隣の家の犬も鳴いた。それは吠えるというよりも、むしろ鳴くという方が正しいような悲しげな声だった。庭の砂利を足で踏みつけたりしながらしばらく待ってみても返事はなかった。そこで何の脈絡もなく戸を開けた。鍵はかかっていなかった。それはいつものことだった。私はゆっくりとドアノブに手をかけると戸を開け中に入る。その金属製のドアノブはとても冷たい印象を私に与えたが、触れた感覚はどこか朧げであった。
二階建てのその家は、のっぺりとした漆喰とレッドシダーでできた戸のようなもので隔たれていた。ちょうど和洋折衷したといったような造りで、コルクでできた廊下の奥には不自然な襖がのぞいていた。壁に縫い付けられたかのようないくつかの戸の向こうは、それぞれの部屋に繋がっているみたいだ。私は靴を履いていなかったようで、何の疑問もなく廊下の上に足を下ろす。
コルク製の独特の廊下は私の靴下に絡みつき離さない。その辺り一体は木材の持つ爽やかな香りがした気がした。
その廊下の高さははちょうど自分の背丈の倍ほどで、もう一人分は余裕がありそうな幅もあった。
その廊下の左側には、手前側から2番目に古めの重たげな引き戸があった。引くと大げさな音がしそうな戸だ。金具がそこら中に取付けられ、何かを守るようにそこにあった。私はその戸の中に懐かしい光景が広がっている気がした。突然のことに脚がもつれるが、それでも手を伸ばす。慌てて引手に手をかけ夢中になってその戸を開けようとした。その引手はとても冷たかった。
冬の朝は切り詰めたような寒さだ。ようやく布団を持ち上げた。私に覆い被さった布団が這い上がるように膨れ上がった。くすんだねずみのような色をしていた。そして微かに私の匂いがした。
「またあの夢を見たんだね」と確かめるように呟く。
さようならは左様ならばってことらしい。だったらさ、それって潔くてとても素晴らしい言葉なんじゃない。
「そうなのかもしれないな。」
私はまた一人で呟いた。返事はなかった。私は目の前にあるサナトリウムのような壁を見つめた。壁に掛かった時計は10時を過ぎた頃だった。まだ転居して間もない部屋を見渡す。私はこの転居間もないこの部屋について、キャットタワーのことを思い出さずにはいられなかった。
きっと、キャットタワーは猫にとって唯一の自宅であるだろう。猫は涼しい顔でひげを洗うと、上を目指して枝を登る。頂上にあるのは、その猫がちょうど入るようなこぢんまりとした快適な空間だ。その空間で猫は大きくのびをすると、沈むようにとぐろを巻き眠りにつくのだ。
私はそんなことを思うと、この無機質な部屋にも同じ要素を見出した。実際に私の部屋はマンションの最上階であり、快適かつ狭苦しかった。歩けばまさしくひげが当たるような部屋であった。問題なのは私が猫ではなく人間の女であり、この部屋が狭すぎることだった。
朝食を作ろうとした。ベッドから足を引きずり出す。夏用に買われたラグがフローリングには敷かれていた。グレーを基調としたラグの中心には、白色のペルシャ猫の模様が刺繍されていてとても可愛らしい。これは、友人と一緒に近所にウィンドウショッピングをした時に買ったものだ。夏用のラグは私の足を温めてはくれないが、心を温めてくれる。足取りもゆっくりとキッチンの前に歩み寄った。私にはもったいないほど豪勢なカウンターの前に立つ。料理を作らない人のシンクは意外なほどに綺麗だ。調味料やフライパン、食器までもが汚れを知らない顔をしていた。世の中にそういうことは多い。何もしなければ、汚れずに済むようなことが。
鶏肉を刻んだ。醤油とみりん、砂糖を混ぜ水に溶かす。フライパンに卵を落とす。
卵は熱によって姿を変えていった。昔、理科の授業でタンパク質は変性すると聞いたことがあった。その変性は決して戻ることはないと、先生はいった。構造が変化するとかそういうことはわからない。けれど、それは何事も変わるものは戻らないということだと思った。
細かく刻まれた鶏肉と水に溶けた調味料を混ぜて熱した。フライパンの上でそれらは混ざり合い、または反発しあう。ふつふつと煮えかえりながら、震え上がりながら、次第に妥協点を見つけ出したように静かにその身を委ねた。
どんぶりにつやつやとしたご飯を盛り付ける。それから、混ぜ合わせたそれを上に乗せる。
私はスプルースでできた長椅子に腰掛け、白いテーブルクロスの上に食事を置いた。テーブルはキャンバスに落とされた絵の具のように、久しぶりの食事を目立たせた。
これに親子丼と名付けた最初の人は、きっと誰よりも残酷だ。そして、とてもキレる人間だろう。
テーブルの上には使うことのない調味料と食器が整然と置かれていた。
テーブルの上に二人分の食器が載っている。
不意に、私だけの時間に水を差されたと感じた。
私は不覚にもその事である男のことを思い出していた。私は他人に自分の時間を遮られるのが酷く不快なのだ。そこで、ちょうど私の前にある茶色の木の箸を大きく捻じ曲げた。小さい見た目からは想像もできないほど酷い音を立てて割れた。続けて、ティッシュの箱を叩き割った。その箱は全てを受け入れ、その役目を終えた。ティッシュは元鞘を失い、悲しげに床に散った。
そういえば、昨日はついに現れなかったな。
何故そんなことをしたのだろう。私は何度もその男を問い詰めたくなる欲に襲われた。いや、この感覚に怯えているのかもしれない。私はその行儀しらずに答えを教えたかったのかもしれない。食事も二人分作ってしまったかもしれないじゃん。
手を握りしめ大腿を殴りつけると、次第に痛みが広がっていった。その痛みを感じ、徐々に冷静を取り戻していったように思う。
食事を終えた私は、テーブルの上に無惨に散っているそれらを見つめ、何度も確かめた。
この日はひどく快晴であった。それらの食器を洗う為にシンクの前に立った時のことであった。右側に見える大きな窓ガラスは少し空いており、そこから子ども達の声が聞こえた。彼らは口を示し合わせたように道路の隅へと集まると、大げさに秘密基地の話を始めた。近所の林の中にそれはあるらしく、これから彼らはそこに向かうようだった。最初に元気な男の子が周りの男の子を説得し、彼らは次第に林の中に消えていった。私が彼らを横目に見送った後は、全ての食器を洗い終えた頃であった。それは同時に、シンクが綺麗になった後でもある。私はシンクが汚いことが許せなかった。いや、汚く見えることが好きではなかった。食器も柄がないものを選んだ。
シンクの上に取り付けた金属製の水切り棚に、洗い終わった食器を戻していく。
「そうすると、真っ白なシンクの上に綺麗なお皿が並ぶことになるでしょ」と自慢げに声を出す。私はいたはずの誰かに声をかけた。きっとあいつは「綺麗な台所なんて、汚れのない人ぐらい嘘くさい」というに決まっているのだ。
洗濯機は服がよく乾く日に使わないといけない。そうしないと乾かなかった服は臭くなり、しいては腐り、私の綺麗さを奪うかもしれない。なので、今日この日に一気に干す事は合理的この上無かったのだ。シンクを出て廊下を数歩歩いた右側に、老舗の暖簾のようなかすんだグレーの布がかかっている。その先の小さなバスルームに洗濯機はあった。シンクの前からひたひたと廊下に移り、バスルームの暖簾をくぐる。事前に洗濯してあった洗濯物を、洗濯機から取り出した。その時、「あっ」と声が漏れた。「またこれか〜」と続けて声に出す。カゴに移してよく観察してみる。洗濯物はところどころ白い塊にまみれており、その様子はさながら溶けきらないココアのような不和性を生み出していた。後で気付いたが、あれは客の名刺が混ざり込んだものだった。普段の名刺はいただくなりバックの底でチリとなるところだ。対して、その名刺は役職がびっしりと刻まれた特注品であり、その余りある偉大さに忘却を決め込んだようだ。私は慣れた手つきで洗濯物を洗濯機に移すと、すぐ隣に置かれた酢に手を伸ばす。平然と酢をそこに放り込むと、再び洗濯をスタートさせた。私は漠然とキルケゴールの死に至る病について考え出していた。洗濯も満足にできない自己への絶望が自分自身に繋がることを祈っていた。
お気に入りの洋服もあったのに。
そのトップスは、白いフリルとレースが特徴的だった。服の中ほどには小さなボタンがあり、襟元の黒いリボンが対象的に映えていた。伝記の中の偉人にその服を見せれば、これがゴシック風だと口を揃えていいそうな几帳面さがあった。
この洋服は高校の同級生だった男性に買ってもらったものだった。その男性とは同窓会に行った時に友達経由でインスタグラムを交換しただけの仲であった。どうやら高校の根暗に学歴と職歴が加わって脂身が増したらしい。まあ私にとっては今日食べた朝食の名前ぐらい興味がなかったが、彼が彼女の誕生日に贈るものを選ぶというのでそのときは仕方がなくついていったのだ。大きなハブステーションで待ち合わせをして、エスカレーターで地下に降りると、そこから遠くの方まで続く道の横をファッションストアがずらりと埋めていた。その道をさも帰巣する蟻のように丁寧に辿って目的の店についてから、私に半ば強引に服を譲ったのだ。頭が追いつかなかったが、変な気を起こされないかと考え念の為に私に贈り物を買ったのだからそれはどういう訳なのか聴いてみると、どうやら私が彼の彼女であるかのような口ぶりである。なんとも不可解なことだが、ここまでは私もそこまでやぶさかではなかったのだ。この日にわかったことだが、確かにそいつは見た目や会話に違和感がない。清潔感あふれるスウェットから浮き過ぎず節度のあるインナーが覗いている。髪も整えた様子があった。分けられた前髪から見える額が彼という人物の明朗さを物語るようである。そして、何しろ会話が「セットリスト」であった。囲碁の定石でもさせれば、かなりの腕前になるかもしれない。しかし気に食わなかったのが、私を前にしてさも食事作法を指南するマナー講師のような尊大な面持ちだったのだ。少しニヤけた笑い方が取らぬ猟師のそれである。食事は美味しく味わって、最後までいただくのが最大のマナーなのだと教えてやりたい。
洗濯機の液晶に映し出された数字が残り時間を指す。残りは46分。心が少し晴れやかになるのを感じる。私はこの時間が少し好きだ。この時間だけは自分が家でゆっくり過ごすことを正当化できる気がする。視線をあげると、目の前の鏡に相変わらず整った自分の顔が映った。輪郭の細い面には、多くの視線を吸い込むであろう瞳と高い鼻、控えめな唇が整然と並んでいる。私はこの顔を見るときに万物の創造主の事を思う。彼らはきっと人が作り出されるとき、人がこの世界に生を受けるときに立ち会うだろう。ところで、人の境遇は様々である。例えば、寿命まで生きられたり、良い友人に巡り合ったり、富に恵まれたりする。一方で、重い病気を患ったり、家族を失ったり、希望に挫折する。そこで考えてほしいのが、人の不自然なほどバランスのある境遇だ。どうも私には製造と出荷に携わる創造主にそれこそ人の血が通っていると思えるのだ。人の境遇は比較できぬほど綿密に組み合わさっている。だからこそ、私はこの均整のとれた顔立ちに何ら負い目など感じないのだ。
それほど余裕はない廊下に踵を返すと、リビングに戻りテーブルのすぐ隣に置いてあるソファに腰掛ける。これはあいつがここに越してくるというので慌てて用意したもので、不自然な配置からは新鮮味が感じられた。ブラウンが基調の落ち着いたソファでクッションがよく沈むので友人にここで寝てもらうこともあったくらいだ。ソファの前に置かれている丈の低い丸テーブルの上にあるリモコンに手を伸ばす。リモコンを手に取るとテレビの電源をつけ番組を次から次へと確認していった。そういえば、リモコンにラップを付ける人がいるがあれは相当清潔に使えるだろう。しかし、私はそうしない。結局のところ私にとってより大事なのは実際に綺麗なことより、綺麗に見えることなのだろう。少しため息が漏れそうになる。それはテレビの番組に対しても同じような気持ちだった。液晶の向こう側でよく笑う芸人さんと美しい女優の掛け合いが行われ、そこに笑い声と字幕がテロップされている。その騒々しい画面に目を移し次の番組に変えるといかにも神妙な面持ちでニュースキャスターが悲惨な事件を伝えていた。どうやら新宿の雑居ビルの1階部分で火災があったらしく、救助活動が困難であるようだ。そしてひとしきり説明を終えると次のコーナーが始まり、ニュースキャスターが顔を微笑ませ日本シリーズの解説を始めた。私は幸せな出来事ばかり集めたニュースを見てみたかった。一日でもいいから「今日の悲しいニュースはありませんでした」と画面に虹色のテロップが輝くところを見てみたかった。話はそれるが、需要と供給という言葉がある。求められたものが消費される。その消費するものが善いものかなんて関係ない。少なくとも、日本の現代社会は幸せに満ち溢れているだろう。温かいご飯と住処や家族、ありがちな愛を叫ぶドラマにわかりやすい娯楽を提供する携帯電話。欲深い人々は嘆かわしいことに不幸せすら求めているのだろう。きっと人々は悲しいニュースを求めている。私がみたい「幸せニュース」はそれこそ人類滅亡の時しか見られないようだ。これを知ってどれだけ絶望したことか。
突然呼び鈴がなった。コールが部屋中に響き渡る。家具らしい家具のない部屋は音を吸収せずあちらこちらに電子音が散らばる。テレビを消しソファから立ち上がって、季節外れの絨毯を歩きながら、反対側の受話器にたどり着くまでそこまで時間はいらなかった。なにか良からぬ予感がしたこともあり、あえて5コールほど待ってからゆっくりと受話器を持ち上げた。