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プルトップのネックレス(三十と一夜の短篇第70回)

作者: 実茂 譲

 灰色の雨にけぶる町は何もかもがのろかった。くたびれた商店街や奇妙な時間差で明滅する信号、工場から立ちのぼる不自然なくらい白い煙は雨に吸い尽くされて虚空に消えていく。

 男は床に寝転んだ。テレビは数年前のバラエティー番組の再放送をしている。このマンモス団地の一室には時間を有意義に使う手段がない。レンタルビデオ店の会員カードはハサミで真っ二つに切った。ゲーム機は売った。彼女はいない。ここは七階だ。飛び下りてやろうか。

 タバコはないが、和室にビールの自動販売機がある。この家で一番重い家具だ。三段の陳列棚にカブト・ビールというきいたことのない銘柄が並んでいる。全てがカブト・ビールだ。価格は二百円。そんなもんだ。

 スーツの内ポケットに入れたままの財布から二百円取り出して、一本買う。オレンジ色の缶に戦国時代の兜の絵。変なビールだ。旧式プルトップを開けて、喉を鳴らしてひと口飲む。いける。テレビを見ると、何年も前に大麻所持で消えたタレントが何かクイズにバカなこたえをして、ワハハハハのサウンドエフェクトが入った。この再放送、もうかれこれ三時間やっているが、終わる兆しが見られない。まさか二十四時間テレビじゃないだろうな?

 ビールがなくなった。プルトップを紅茶の小皿に置く。感じのいい紐が見つかったら、ネックレスにしてやってもいい。

 人間が七階から飛び降りたら、どんな音がするのだろう。ぐちゃ。ばーん。どさっ。

 ビールをもう一本。プルトップを小皿へ。胃のなかがポカポカしてきた。少し酒に弱くなった気がする。だが、少ない量のアルコールで酔えるのはいいことだ。

 ニュース速報の字幕がクイズコントの上に入った。ゴジラ出没。

 カレンダーを見たら、今日は四月一日だった。カレンダーをかけないバカだけが、パニックになる。

 二百円入れて、次のビールへ。ハイペースだ。

 シャチョーは我が身をちぎられるように辛い、と言った。リストラするシャチョーはみなそう言う。それなりに務めてきたし、課には必要な存在だと思っていたが、それは彼の思い違いだったらしい。彼の代わりに入社したのはシャチョーの甥だった。とても申し訳なさそうな顔をした男だったので、引継ぎはきちんとしてやることにした。もう百社以上受けても内定がもらえなかったらしい。しかし、年度末にリストラとは最悪のタイミングだ。シャチョーは我が身をちぎられる痛さにパニックに陥ったのだろう。

 色彩のない世界。ベランダを見るたびに飛び下りることが頭に浮かぶ。できないのは自販機のせいだ。

 自分がいなくなったら、この自販機はどうなるのだ? ビール会社の懸賞で当たった自販機がやってきた日のことを昨日のように覚えている。屈強な運送業者の若者たちが大きな三つの部品に分けた自販機を玄関から運び込み、この和室で組み立てた。この自販機のせいで和室は半分以上塞がったが、後悔はしていない。旧式プルトップに釣り合うレトロなデザイン。夜でもビールが買えるように豆電球が各ビール缶の上についている。おれの持ち物のなかで一番立派なものだ。この自販機は。

 二百円投下。ビールをつかみとる。喉を鳴らしながら、気の大きなことを考える。ハンマーでたたき壊してから、飛び下りるのだ。

 だが、ハンマーでたたき壊した後に、やっぱり飛び下りる気が起きないなら、男はとんだ馬鹿をしたことになる。それにハンマーは重い。

 生きる気力はないくせに、死ぬための前準備にハンマーを持ち上げるほどのことをする気がおきない。

 彼は混乱しているのかもしれない。使い古されたハムレットのセリフみたいに。幽霊は見えないし、オフィーリアもいないが、雨は降っている。ひょっとすると、どこかで彼の知らない女が沈んでいるかもしれない。

 六缶目のビール。プルトップアクセサリーの原料はちゃくちゃくとたまりつつある。もう千二百円投入しているが、自販機を所有する一番の利点は投入したカネを回収できるところだ。

 ピンポーンとチャイムが鳴る。

「はい」

「峰田だよ」

 峰田は玄関から上がるなり、二百円を自販機に投下した。

「ビールの自販機が家にあるってのはいいことだな」

「それは間違いない」

「で、あのこと考えてくれたか?」

「ああ。ちょうどおれもクビになったばかりだし」

「社長のおれの他にお前と関。最初はワンルームからスタートだし、列車を抑える手はずはこれからつくるけど、着眼点は間違っていない――と、思う。たぶん」

「まあ、失敗しても、また失業するだけだしな」

「だろ? おれは借金背負うけどさ。まあ、起業だしな」

「わかった。やるよ」

「お前ならそう言うと思ってたよ」

「関はなんて言ってるんだ?」

「お前がやるならやるってさ。ところで」

「ん?」

「まだ七階に住んでるんだな?」

「そうだな」

「その、ほら、大丈夫なのか?」

「なにが?」

「もう小学校のころのことだったけど、ほら、医者はそういうことは発作的に起きるって言うだろ」

「部屋を変えるのが面倒なだけ」

「医者はお前にはそういう発作を起こす下地があるみたいに言ってたそうじゃんか」

「でも、社会人になってからは起きてない」

「社会人になってから? じゃあ、大学であったのか?」

「あったけど、三階だよ」

「洒落にならんじゃんか」

「足は折れなかった」

「それ、発作的か?」

「まあ、そうだよ」

「その、発作ってのは、どのくらい続くんだ?」

「せいぜい二秒」

「その二秒以内に飛び下りれたら飛び下りちまうってことか?」

「そうだな」

「おい、頼むぜ。未来の営業部長。お前のコネには期待してるんだ。関だってお前がいなきゃ不安だからやらないって言ってるし」

「わかったよ」

「ベランダに出るなよ」

「わかったって。ビール、もう一本飲んでけよ。おごるから」

「悪いな。とにかくベランダには出るなよ。駅のホームもベンチに座って、線路からできるだけ、二秒以上の距離を開けろよ。歩道橋とか渡るなよ」

「わかった、わかった」

「本当はもうちょっと長居したいんだけど、いろいろ予定があってな」

「期待してるぜ。未来の社長」

「もちろん期待しろ。なにせおれだからな。じゃあ、おれは行くけど、ベランダには出るなよ」

 峰田が帰ると、彼はまたビールを飲んだ。これで六缶か、七缶か。失業者の役得はまだ日も高い時間にベランダで町を見下ろしながらビールを飲むことだ。

 ベランダのコンクリートに素足で出て、アルミの手すりに寄りかかる。風向きが変わって、細かい雨が降り込んできた。しばらくそうして雨ざらしになった。髪がぺったりと額に貼りつき、シャツがじわじわ重くなる。ビールを流し込む胃袋は相変わらず温かい。いま死ねれば、とてもいい気分でこの世からサヨナラできる。あの全身を内側からつねられるような発作。いますぐ、この感覚から逃げたいという発作が起きれば。

 彼はまたひと口ビールを飲んだ。体は左右に心地よく揺れている。発作は起こらない。

 ビールがなくなると、彼は部屋に戻った。

 これはいいことなのだろうかと考えたが、よく分からなかった。とにかくビールだ。

 すっかりふらふらしてきたが、二百円を投入する手はしっかりしている。親指と人差し指がしっかり貨幣をつまめる限り、人間はビールを飲める。

 取り出し口に落ちたビールを拾おうとしたとき、体じゅうの内側に小さな虫がびっしりあらわれ、いっせいに体をかじるような、あの極めて不快な感覚が突然襲いかかった。

 逃げるぞ!と叫ぼうとしたそのとき、ゴジラが出没したような地響きがして、部屋が縦に揺れ、男の足の下で床が抜けた。下の階に住んでいた四十四歳の主婦を巻き添えにして、男は自販機の下敷きになった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 団地の、それも自分の部屋にビールの自販機ってすごいシュールな絵面ですね。でもそれが実茂さんぽくておもしろかったです。 発作怖い。
[一言] むうよかったですこわい。このまま読んでたらあと数百字で窓から飛ばされてしまう(ミッドサマーを見て以来、飛び降りだけは無理、ですのにですよすっとこう、くるものが)んではないかとじりじりしてたら…
[一言] 和室にある自販機の補充をやっている人間の姿を思いうかべると、めちゃくちゃシュールですね。 書きだしがすばらしいです。
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