自分自身が抱える「怒り」との上手なつきあい方
ぐおおおおッ‼
許さん許さん許さん許さん…みんなで俺を馬鹿にしやがってええええ地球人全員殺す殺す殺すうううう‼
どうも、「人のココロに癒しを」。ふじわらしのぶです。
今日はみなさんと一緒に自分自身が生まれ持っているどうしようもない部分について語りあいたいと思います。
一番はやはり理性のコントロールを受けつけない誰しもが持つ攻撃性、「怒り」とどうやって向き合っていくかという事ではないでしょうか?
「怒り」と一口に言ってもたくさんあります。
今回はその中でも他人はおろか自分の人間関係にも影響を与えてしまう嫌悪感から派生する怒りについて私の方から提言させていただきます。
があああああああッ‼
なんかわかんねえけどイライラすっぜええええ‼何で丸いんだよ、地球‼四角でもいいじゃねえか!
ど畜生おおおおお‼
我々は生きている限り、自分を含めて様々な事物に色々な考えを抱きます。
それは時として共有出来る物であったり、決して相容れなかったりする物であったりするわけですが好悪だけで判断できないのもまた事実だと私は考えます。
しかし世の中には「こしあん」という小豆の皮を最初から排除した全方面から攻撃されて然るべきの悪の権化のような幻のような物も存在するというのですから、油断は出来ません。
ベタベタした「こしあん」は貴方を堕落させて魔界の悪魔の生贄に捧げようとしています。
くれぐれもご注意ください。
コホン。話が少しだけ逸れてしまいましたね。
要するに人間が個々の特徴をもった独立した存在である事を仮定した場合、反発と共感は同じような物とお考えください。
そして今回は好悪によって生じる「怒り」をそのまま事物を即断するのではなく、あくまで数ある仮定ないし条件付けとして考える事で「怒り」を昇華できないものかという方向でお話を進めていきたいと思います。
「怒り」を抑えて人間関係を円滑に進めれば自分自身だけではなく、やがて他人の「怒り」も制御できるようになるかもしれません。
我々は言葉やコミュニケーションを進化させすぎた為に他人の領分に土足で踏み入るようになってしまった。
日々の大人同士の衝突を見る度に私はそう感じてしまうのです。
そう例えるならば、自分以外の世界中の人間が楽をしていてそれで自分がこんなに苦労しているのはみんな楽をしている連中のせいだ。そうに決まっている。
何で俺だけがこんなにウンコ出ないんだ。野菜食ってるし、運動なんて他人の五倍はしてるよ。
糞糞糞…、地球の俺以外の生命体なんてみんな便秘になって俺の苦しみを味わいやがれど畜生おおおおおおッ‼とこういう事を考えている人がいると思います。
そんな人の前で普通にトイレに入り用を足したらその人はどんな気持ちになるでしょうか?
ヘイ!俺の大腸に詰まっているウンコ、お前に移植してやるよ!
きっとみんなこう考えてしまうはず。これはいけません。
まず問題の根本的な解決にはならない。自分の糞は自分の糞であり、それを他人の腸に移植しても自分は気持ち良くなんかなれないというわけです。
私はここであえて主張したい。
野菜食えとか、ヨーグルト食えとかそれはカルト宗教めいた民間療法だろうが。
無責任な事を言うんじゃねえ!やっぱ俺の糞をお前の腹の中に移植してやんぜ!ぐおおおおお!
はい。みなさん、結論がでましたね。
誰しも体調が悪い時はウンコが出ない物。
人が必死にウンコを出そうとしている時に外からプレッシャーをかけてはいけないという事です。
今日もみなさんのおかげで有意義な時間がすごせました。
どうもありがとうございます。ではまた次の議論でお会いしましょう。