転移前夜
1,西暦2035年1月3日午後6時
日本国和歌山県串本町
その場に1つ、古民家が建っていた。恐らく築100年以上のものだろう。
古民家の縁側に1人の少年が座布団の上に腰を下ろしていた。少年の容姿は背が中ぐらい(168㎝)で烏羽色の髪を刈り上げにしている。体自体はがっちりとしており、よく鍛え上げられている。その瞳の色は灰色がかった鳶色である。しかし、その眼には何も映っていないように見える。顔は御世辞にも格好いいとは言い難い童顔であった。着ている服は上下ともにジャージ(両方とも長袖)でその上に、青のロングコートを羽織っている。「おい、鷹坊。家に入れ。風邪ひくぞ。」鷹坊と呼ばれた少年は声のした方を見る。なにも見えていない様、感情のない少年の瞳がとらえたのは、1人の男だった。
その男、田中弘治はまさにおっさんであった。顎に生えた無精髭、ぼさっとした髪。そして、気だるそうな目。だが、その眼の奥には鋭い光があった。この男の過去は誰にも分からない、なにか恐ろしい事にでも巻き込まれたのだろうか。着ている服はシワシワだが、不自然にパリッとした箇所がある。アイロンか何かが掛けられていたのだろう。
「今行く、おやっさん。」「なんでおやっさんなんだよ。」「なんとなく。」
この様やり取りをした後、鷹坊…八重島鷹は家の中に入って行った。
♢
俺―八重島鷹―は未だに、過去に囚われている。
彼女―白波瀬文の笑顔を忘れられない。
自分が嫌いだ。過去の人間にばかりしがみつく。
俺は失ってから気が付いた、彼女に惚れこんでしまったのだと。だが、時は戻せない。幾ら悔やんだ所で、何も起きないのだ。
そして、何も感じなくなった。
食事はまるで泥を食べているかのように。
視覚はセピア一色に。
匂いは無くなった。
感情も殆ど無くなった。
だが、彼女の事に関しては怒りを覚える。
だからだろうか、今、目の前にいる養父…田中弘治(俺はおやっさんと呼んでいる。その呼び方がしっくりくるのだ。)を信頼できるのは。
彼はこちらに対しては基本的には不干渉だ。
それが何よりもありがたかった。
だが、思考は打ち切られる。
「鷹坊、お前はもう寝ろ。明日は早いのだろう。」「え?」
俺はそれにうまく反応することができず、間抜けな返事をしてしまった。
確かに夕飯は食べたし風呂にも入り歯磨きもしたが、まだ早いのではないか?その疑問を口出そうとしたが、あれよあれよという間に布団の上に寝かされてしまった。当然掛け布団を被せられた状態で、だ。もうこうなっては寝る他ない、目を閉じそのまま寝た。
その後に待っている結果を知らずに。
♢
だが、俺たちは知らなかった。もうすでに自分たちがとある異変に巻き込まれているのを。
そして、その当事者になるとは。この家にいる人間全員が誰も思っていなかった。
かくして、始まったこの物語は。奇妙な冒険でもあり、世界を本格的に混乱へと導く始まりの角笛の音でもあった。