いいえ喜愛哀楽です
突然だが、私は安昼が怒った所を見たことがなかった。
あれだけ理不尽な言葉を浴びせている私が言うのもなんだが、兎に角安昼には喜哀楽しか有していないのではと思う程に彼は怒らない。
「あ」
例えば、私がこうして皿を割ってしまった時。
無論わざとではない、手に残っていた洗剤で滑ってしまい、割れてしまったのだ。家事をしているとよく起こる凡ミスというべきか。
ただこのお皿は私の所有物ではなく、湯朝家のものなので、これは謝罪と弁償だと思いながら片付けをしようとしていると。
「ふゆううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!!!!!!!!大丈夫かああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!???????」
安昼がスライディングをしながらキッチンに飛び込もうとする。
「危ないから下がってください、お皿を割ってしまったので」
「大丈夫か!? 怪我してないか!? マキロンか? マキロンだな!?」
「いや別に怪我はしてな――あっ」
正直陶器が割れた場所に足を踏み入れると危ないだけなので近づいて欲しくはなかったのだが、安昼は焦った表情でぱっと私の手を取った。
「……! や、やっぱり怪我をしているじゃないか……」
「いや、それはただの逆剥け」
「え、あ……す、すまん……」
「それより危ないので早く離れて下さい。――それと、お皿を割って申し訳ありません、同じものを買って弁償しますので」
「え? そんなのいいって」
「いや、そういう訳には――」
「まあ俺が言うことじゃないかもしれないけど――それより楓夕に怪我がなかったことの方が大事だから」
そうして安昼は「あ、俺も掃除手伝うよ、掃除機持ってくるな」と言うとそこから寧ろ楽しそうに片付けをしたのでした。
とまあ、これはあくまで些細な風景の一コマを切り取っただけなのだが、こういう言動を平然と取れるのが安昼なのである。
だが――どうして彼はそうなのかが分かったことがあった。
それは、安昼が数学教師に理不尽に怒られたことがあったのである。
「貴様……どうしてもっと反論をしなかったんだ」
「んー……?」
私もあまり感情的になるタイプではないのだが、あの理不尽さはどうにも納得がいかず、下校時についそれを口にしてしまっていた。
というのも、数学教師が提示した課題を、安昼はちゃんとやってきたのであるが、教師が出題箇所を間違えているのである。
故に安昼はそれを指摘したのであるが、この教師はあろうことかそれを認めず、それどころか安昼が悪いと説教したのだ。
「あんな輩、立場など関係なく叱咤すれば良かったのです、なのに一方的に怒られ、しかも謝罪までするなど――」
「そりゃそうだけど、でもあの先生いつも最初に楓夕当てるだろ?」
「? まあ、そうですね……」
確かにあの教師は私をあまり好ましいと思っていないのか、問題を解かせる際に必ず私を最初に当てる傾向がある。
そして間違えれば奴は軽く嘲笑う、まあ典型的なクソ教師だ。
「あの先生、気に食わない奴とか、自信のない生徒を率先して当てるんだよ、だからわざとそういう雰囲気を滅茶苦茶出して先に当てて貰って」
「は……? どういう意味ですか?」
「いやさ、これでもしいつも通り楓夕が当てられていたら理不尽に怒られていただろうし、楓夕怒ってもいただろ?」
「当然の話だと思いますが」
「だから何というか――それが俺で済むなら安いものかなって」
私は文字通り開いた口が塞がらなかった。
確かに数学教師が課題範囲を間違っているかもしれないという噂は事前に流れていたが、あの教師の性格故に言い出せない風潮があったのは事実。
つまり安昼はこうなることを分かっていて、自らが犠牲になったと……?
「何故そのような真似を――」
「うーん――楓夕が怒っている姿は見たくないからかなぁ」
「……だ、だとしても貴様が怒らない理由にはならないでしょう」
「いやー……それで楓夕に俺が怒るような奴だと思われたくないし」
まあ怒るような勇気もないんだけど、と安昼は付け足すと恥ずかしそうに笑うのだった。
「…………」
……もしかしたらこの男は、とんでもなくアホなのかもしれない。
行動原理が全て私のことを考えてしか動いていない、それで怒りの感情を平然と捨てられるのだから呆れて物も言えなくなる。
だが――こうまでされて心が動かない程私も鈍感ではない……。
ああ全く……なのにどうして私はこうも素直になれないのだろうか……。
「――……今日の夕食はカレーですよ」
「え、マジで? やったー!」




