鏡を覗く
年も明け、陽も幾らか伸びてきたが、漂う空気は日を追うごとに冷たさを増している。夜更けとともに出た風は粉雪まで連れてきて、はためくチェスターコートを抑える手はすっかり氷の餌食だ。一刻も早くこの空間から隔絶されたいと願っていた男がふと足を止めると、道に漏れる暖色の光が目についた。まるで童話に出てくるお菓子の家のような小さなそれは、男にとってどうしようもなく魅力的に感じられた。
扉に吊るされた鈴がカララと音を奏でる。偶然立ち寄ったそこは、季節遅れのサンタクロースがこれでもかと飾られている小さな喫茶店だった。それまでの冷え込みが嘘のように、暖炉で暖められた室内は男の手をじりじりとくすぐった。
赤い絨毯、橙の灯、他の客はいない。いつの間にか目の前にいたタキシードに見を包む長身の男性は、まるで貴婦人を相手するように男を椅子に座らせた。差し出されたカップ一杯のスープは、馬鈴薯や人参をはじめとする、野菜たっぷりのオニオンスープだ。それを少し口に含むと、胡椒の香りが鼻孔を抜け、喉奥から身体が温まるのを実感した。
「どうぞごゆっくり。御用があれば、こちらのグラスを鳴らしてお知らせを」
長身の男性が差し出したのは、淡く色付いた硝子細工のグラスだった。酒や水を飲むには難しそうな、とても不思議な形をしている。2つのダイスが入れられたグラスの端を指で軽く弾くと、心地よい音色とともにダイスがグラスの中を踊った。
グラスを鳴らすとその男性は音もなくやってきて、メニューを広げて見せてくれる。
「お探しのものがございますね、だから此処に来たのでしょう」
十字窓を吹雪が叩いた。音もなく流れる白が、窓越しに覗く暗黒を染めてゆく。
男は首をかしげようとしたが、開かれたそれに書かれた文字を見て、ゆっくりと何度も頷いた。
「ああそうとも、しばらくここでゆっくりと探させてもらうよ」
男は席を立ち、天井まで届きそうな本棚へと手を伸ばす。そしてそこから無造作に、そして的確に、見たこともない文字で書かれた、見たこともない本を取り出し、再び座って読み始めた。その内容が男に理解出来ようものか。否、それは重要ではなかった。
空間に響くのは、微かな風に椅子の軋み、弾ける薪と、どこからともなく聞こえてくる鈴の音だ。
ここは『シュピーゲル』。自分探しの喫茶店。長い長い時間をかけて、心ゆくまで、探しましょう。