第四話
いつの間にか、ケイくんは作業部屋からいなくなっていた。
私はあの記憶の主が自分だと悟ったあともケイくんにそれを言うこともできず、またケイくんもそれ以上何も言わなかったため、お互い無言のまま、気まずいのかそうでないのかもわからない空気で掃除を進めていた。
流石に本棚に触る気にはなれなかったので、他の画材などの整理をしていたのだが、その間も自分ではあまり意識しないうちに考えが頭の中でグルグルと回っていたようで、ケイくんがいなくなっていたことにも全く気づかなかった。
改めて整理していたはずの画材を見てみるが、本当に掃除しようとしていたのかと疑われても仕方ない適当さだ。どれだけ自分が心ここにあらずになってしまっていたのかよくわかる。もしかしたらケイくんから声をかけられても気づいていなかったのかもしれない。
だが今は少し時間が立って落ち着いてきた。一度、例の記憶について簡単に整理する。
まず記憶はこの家の電子レンジの裏から見つかった。その場所やマッチ箱に入っていたことからして意図的に隠されていたのだろうが、理由はわからない。これが叔父さん本人の記憶なら、他人に見られたくない記憶かつ厳重に保管しておきたかったのだろうとも思えるが、そうではなかった。
叔父の記憶だと思われた映像は実は私の記憶であり、襲っていた人物こそが叔父だった。状況証拠ばかりの憶測にすぎないのかもしれないが、そう考えれば説明のつく事柄が多すぎる。
ファイル名や視点の差など、映像に関することもそうだが、何より私の中に叔父さんに関する記憶があまりにも少ない。これまではあまり気にしていなかったが、毎日とは言わないまでも、もしかしたらケイくんよりも頻繁に顔を合わせていた人物のことをこんなにも思い出せないなんて、私の記憶力が低いことを差し引いても明らかに不自然だ。これはケイくんが言っていた、記憶をコピーするときの不具合で説明できなくもない。つまり、記憶を抜き取った副作用で、抜き取った部分に関する人や物事の記憶まで薄れてしまっているのだ。
そこまで考えたところで、背後からのバサバサという紙の音が聞こえる。
振り返ると、先程まで扱っていた本棚のコピーの束が手前側に倒れてきていた。離れるときにしっかり戻しておいたつもりだったが、不十分だったのだろう。
ケイくんもいないので、仕方なく本棚に戻り綺麗に整えて最下段に重ね直す。そういえばこのストーカーに関するコピーは結局何なのだろう。束にされているコピーを何枚か見ても、特に関連しそうなものは無かった。
この中にあったものを一時的に出していただけかもと下の平たい箱を手に取ると、案の定中からはカサカサと紙と気がこすれるような音が聞こえる。ホコリに気をつけながら、私は箱のかぶせ蓋を開いた。
中に入っていたのは、色鉛筆で描かれた女の子の絵だった。それも一枚ではなく、手にとって厚みを感じられるほど。十数枚ほどか。どれも同じ女の子を描いているようだ。
この部屋の異様なまとまりの無さを味わった後だからか、どの絵も優しさが感じられるタッチで描かれているのがよくわかり、一貫して女の子の元気や活力といったポジティブな側面を映し出そうと表現されてある。見ているだけで、気づかぬ間に荒んでいたらしい心をじんわり癒やしてくれていた。とても叔父さんの描いたものとは思えなかったが、数枚には部屋に飾られている絵と同じサインが小さく描かれている。
順にめくると、描かれている女の子はどんどん幼くなっていくので、この絵たちは一人の女の子の成長を捉えて描いたものだとわかる。この女の子、どこかで見た顔、というか覚えてないほうがおかしいと感じるほど、すぐそこまででかかっているのだが……。
「あ、私かこれ」
過去に執着しない私は、当然自分の昔の顔なんて覚えてはいなかったが、この絵の女の子は、アルバムや写真で見た私とよく似ている気がする。というか全く同じだ。
しかし写真の中での私が、こんなに元気だったり楽しそうにしているのは見たことがない。決して楽しい思い出無かったり、つらい過去を送ってきたということは無いはずなので、単に写真うつりが悪いか、もしくはいくら本人が楽しんでいても、その様を単に画像として残すだけじゃ中々伝わらないということだろう。
つまり叔父さんは、そんな心情まで捉えて私を描いていたということだ。
叔父さんに関する記憶がないのがもどかしい。今日一日で、叔父に対するイメージが何度も形作られては壊されている。
あの記憶が本当に私のものなら、これは決して放置できない。私は叔父さんについてちゃんと知るべきだ。
父さんは居間にいると言っていたか。私は絵を持って部屋を飛び出した。
○
居間のふすまは大きく開かれていた。換気を良くするためだろう。外の廊下には、ちゃぶ台や座布団などの家具が掃除のために居間から出されていた。
中には父さんだけでなく、作業部屋から消えていたケイくんも一緒に立っていた。
しかし、二人は分担して掃除しているわけでもなく、ただ向かい合って、無言でケイくんが手に持った何かを見ているようだった。ちょうど父さんの背中に隠れていて、何を持っているのかはよく見えない。
ケイくんは私が居間の前に立っていることに気づいたようだが、すぐに視線をもとに戻してしまう。照れたり嫌がったりしたという風ではなく、あえて私をいないものとして扱おうとしているように見えた。
そのせいで何となく居間に踏み込むのを躊躇してしまったが、私は私で父さんに用がある。ケイくんが今何をしているのかは知らないが、私が退散しなければいけないということはないだろう。そう考え声をかけようとしたときに、父さんが顔をあげる。
「それで、この人が叔父さんだったんじゃないかと……なるほどね」
その微妙な動きでケイくんが手に持っていたものが見えた。携帯だ。父さんの方に画面を向けるようにして持っており、その画面は真っ白のまま右側に寄り切った再生バーを表示している。記憶を見せていたのだ。
「うん、この映像については知ってるよ。確かにこれは夏美の記憶だけど……この人は賢二くんじゃない」
叔父は画面に指を滑らせ再生バーを左に数秒分動かし、出てきた影の男を指差す。
「啓くんは叔父さんとは会ったことないんだっけ? だったらまあわからなくても仕方ないかな。叔父さんはこんなに太ってなかったし、それに……」
「うん、私も叔父さんはそんなことする人じゃないと思う」
私は父さんの言葉を遮りながら、居間に踏み込んだ。
大体の状況は把握できた。つまりケイくんは父さんに、作業部屋で考えたことを全て話した上で、その動画を見せたのだろう。私を無視したのは、当人が居ることによって父さんの話すことに変化が起きないか判断に迷ったからだろうか。
変化はするだろう。しかしそれはケイくんが思うような、口を閉ざしてしまう方向にではないはずだ。むしろ、本人のいないところでその人の話をするのは気が引けるというのが人情というものではないだろうか。
「夏美も来たのか。ケイくんの話はもう聞いた?」
「うん。知ってるけど……」
聞いていないが、経緯はほぼ掴めている。十分だろう。
それよりもまずは、何故ケイくんが一人でこんなことをしていたのかが知りたい。半ば怒りの感情を込めた視線を向けて問う。
ケイくんはいたずらが見つかった子供のように、媚びた引き笑いを見せた。
「ドラマなんかでもさ、大掛かりな手術なんかをする前には必ず本人以外から許可取ってるだろ? だからおじさんなら知ってるかと思って」
それだけのことで、私がいない中話を進めようとしていたのか。怒りが膨らみそうになるが、考えてみれば作業部屋での私はかなり参ってしまっていた。私の父さんなら真相を知っているだろうと考えついても、一緒に連れてくることは憚られたということなのかもしれない。
「ああ、そんなものまで見つけたのか」
そう言う父さんの目は、私の持っている十数枚の絵に向けられていた。手渡すと、父さんはそれら一枚一枚の絵をゆっくりとめくりながらどこか懐かしそうな顔で眺めていた。
「この絵は賢二くんが母さんに見せるために描いたものでね……母さんがずっと病院にいたのは覚えてるだろう? 最初は夏美の成長を見せるために写真を撮って見せてたみたいなんだけど、せっかくだから賢二くんの描いた絵で見せてもらいたいって母さんにせがまれて、描き始めたらしいよ」
父さんは叔父について、つらつらと話しだした。
「父さんも詳しくは聞いてないんだけどね。賢二くんは昔から絵のことばかりにかまけていて、家のことにはトンと無頓着だったらしい。それが病弱だった母さんを入院までさせることになったって、悔いてたよ。だからなんていうのかな、夏美の世話をしてくれるのも、その罪滅ぼしのつもりだったのかもね。それまでは絵の仕事もそれまで凄くこだわって選んでたらしいんだけど、夏美が生まれてからは本当にいろんな依頼を受けてたみたいだよ。そういえばよく夏美と一緒にお絵かきなんかもしてたなあ。中学生頃からは、夏美の方から賢二くんの方に遊びに行ったり、泊まったりもするくらい仲が良かったんだけど、まあ覚えてないかな」
全く記憶にない。よく世話になっていたとは聞いていたが、まさかそこまでとは思っていなかった。そんなに人生に深く関わっていた人物であるはずなのに、どうしても未だに顔すら思い出すことができず、記憶のカットというものに恐ろしさを感じてしまう。
しかしそうなるとなおさら残った謎が気になる。影の男が叔父さんじゃないなら、私は誰に、何故襲われたのか。そして、その記憶をカットしたのはなぜなのか。
「……記憶を取り除いた意味が無くなるといけないから、あまり話せないんだけど、夏美、君は昔ストーカー狙われてたんだ。それもかなり悪質なストーカーに」
ショックは少なかった。私を描いた絵の上にストーカー対策のコピーが置かれていたことから、何となくではあるが予想のできていたことだ。しかしケイくんは当人である私以上に狼狽しているようで、目を丸くしてこちらを見つめていた。本当に何も知らなかったんだなとかえって安心する。
「賢二くんのもとに行くときに尾行されてたらしくてね、その記憶の事件が起こった。幸い賢二くんがすぐに助けてくれたから良かったものの、本当に、本当に危ないところだったんだ」
父さんの声がわずかながら震える。穏やかだが感情を表に出すこともまた少ない人だけに、それがどれだけのことだったのか、記憶のない私にも伝わってきた。
「ただ、周りから見てもわかるくらい、賢二くんは本当に夏美のことを大事にしてくれていてね。それが裏目に出たと言うのも違うけれど、賢二くんは夏美を助けるときに〝やりすぎた〟んだ。誰が見ても、過剰防衛だとわかるくらいには」
「それで刑務所か」ケイくんがつぶやく。
「賢二くんはひどく落ち込んでいたんだけど、まあ無理もない。自分との関わりのせいで、夏美に大きなトラウマを与えて、その上捕まったんだ。そしてこのトラウマというのも酷かった。いや、トラウマというと優しいね。あれは立派な心理的外傷だ。とてもじゃないけど、警察の事情聴取になんて答えられるような状態じゃなかったよ。
そこで提案されたのが、記憶のカットだ」
父さんは指をチョキチョキと開閉する。
「近くに認可の降りた病院があったのが幸いだったね。記憶を取り除くことに成功すれば、夏美は元通りになれるどころか、ストーカーの被害にあっていたことすら忘れられる。それにこの家に監視カメラなんて無かったから、警察からしても事件の証拠が足りてなかったらしい。やらない手は無かったよ。
もちろん夏美も自分で許可したんだけど、覚えてないよね。事前に記憶の混乱やカットしていない記憶まで無くなる副作用については聞いていたけど、夏美の場合それが露骨に現れたから。裁判なんかも入院してる間にすませちゃったしね」
どうりで自分の事なのに事件に関する記憶が少なかったはずだ。あまりにも覚えがなさすぎてここまで話を聞いてもなお他人事のような感覚が抜けないが、本当にひどい心理的外傷を負っていたのなら、ここまで何も残っていないのはむしろ幸いなのだろう。一度心の傷を背負ってしまった人は、その原因を忘れた後でも些細なきっかけでまた傷が開いてしまうことも多いという。技術的に取り除いた記憶にまでその話が及ぶのかはわからないが。
「そうして夏美はどうにか快方に向かった。けど賢二くんは……」
「……ああ」
そうだ。叔父さんは、刑務所から出て間もなく行方不明となってしまったのだった。
父はそれを最後に黙ってしまい、居間には沈黙が訪れた。聞こえるのは父が絵をめくるときの、紙の掠れる音だけ。
ふわりと冷気に背中を撫でられ、鳥肌を立ててしまう。見ると空は綺麗な夕焼けになっていた。もう二時間もすれば日もくれてしまうだろう。
「じゃあ一旦、部屋の掃除に戻るね」と居間を出ようとすると、再び父さんが口を開いた。「いつになるかはわからないけど、もし叔父さんが帰ってきて、再会することがあれば、きちんとお礼を言うんだよ。彼は、まだ自分のせいだと思ってるかもしれないから」
「……うん」
いくら記憶がなくても、このことだけは絶対に忘れたくない。そう思った。




